MEMORANDUM 今日の視点(伊皿子坂社会経済研究所)

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♯595 母の涙が持つ力

2016年08月31日 | ニュース


 強姦致傷罪に問われ逮捕された俳優の高畑裕太容疑者の母親で、女優の高畑淳子さんがメディアに向けて行った涙の謝罪会見に対し、ネット上では様々な意見が交わされているようです。

 私も今回の会見に関する報道を見ていて、その「意味」のようなものには何となく違和感を感じていたところでしたので、この機会に、中でも特に気になった見解を取り上げてみたいと思います。

 一般社団法人officeドーナツトーク代表の田中俊英氏は、8月27日、「母が犯罪者の子を「代弁」する国」とのタイトルで、この日本人的会見に「変な感じを抱いた」と自身のブログに記しています。

氏が抱いた「変な感じ」とは
(1) 成人した子どもの犯罪になぜ親が謝るのか
(2) 釈明は子への愛なのか
(3) 親は子の責任をとらなければいけないのか
(4) 会見は「子を守る欲望」からなされているのか
など、子どもへの愛と倫理と欲望と、そして子どもとの「距離感」への疑問に集約されると田中氏はしています。

 親子間の長期的で濃密な関係は日本社会のすべての「基底」にあって、だからこそ、親は子が犯罪をした時は謝るし社会もその謝罪を待っていると田中氏は言います。また、その謝罪がなければ親は社会的立場を剥奪される可能性すらあり、(世間の)強力な「監視」がそこにはしっかりと働いているということです。

 氏は、会見における高畑さんの母親としての表情や振る舞いにはまさに「痛み」が浮かんでいて、その「痛み」を通して彼女は「親としてできる限りの責任を取る」という態度を示していたように見えたとしています。

 こうした感覚はヒトの原初的衝動を満たしており、そのさらに前提にある「生涯にわたって親子関係は続く」という「社会の中の関係の定義」も満たしているため、犯罪の重大性とは別レベルで高畑さんは社会的に許されることになるだろうと田中氏は述べています。

 そして、いずれその親子関係も(おそらくは)許容され、その許容された親子関係を基に、容疑者自身やがては許されることになるだろうというのが、今後の成り行きに対する田中氏の予想です。

 しかし、この「釈明の成功」が、皮肉なことに真の被害者である女性を潜在化させ、社会的に隠すことに繋がりかねないと田中氏はここで指摘しています。

 性犯罪被害者であるため(被害者の)名や顔は隠されるのは当然としても、実際、その被害の深刻さ自体が高畑さんの釈明と親子関係に隠され、薄まりつつあると田中氏は言います。

 この種の犯罪では、被害者の被害者性を特定することが倫理的に難しいため、人々の視線はどうしても加害者に焦点化されることになる。(子供の犯罪にはよく見られることだけれど)そこに母親が代弁者として登場することで真の被害者が潜在化され、問題のポイントがズレてしまうという残念な結果が生まれることがよくあるというのが、こうした状況に対する氏の認識です。

 実は、同じような指摘が、ライターの小川たまか氏による8月29日のYahoo newsへの投稿「私はこの、レイピストである俳優の母の涙は理解できません」でもなされていました。

 小川氏の知人でオーストラリア出身のキャサリン・ジェーン・フィッシャーさんは、今回の高畑淳子さんの会見に対し、自らもレイプ被害者の一人として「沈黙してはいられなかった」とするコメントを小川氏に寄せているということです。

 犯した罪を謝罪するため記者会見を開くことが日本人の習慣であることはわかっていても、私はこのレイピストである俳優の母の涙は理解できないとジェーンさんは小川氏へのメールに綴っています。

 なぜ母親は泣いているのか。彼女の息子が獣のように被害者をレイプしたせいで、その女性がいま味わっている生き地獄のために泣いているのか。それとも、彼女の息子が逮捕されたせいなのか。悪いけれど、私には(この涙の意味が)理解できないとジェーンさんは言います。

 裕太の母親は、同情をひいたり息子の刑期を軽くしたりするために、メディアの前で決して涙を使うべきではないとジェーンさんはしています。そしてそこにあるのは、母親として、自分の息子がレイピストであることをきちんと受け入れ、何が被害者のためにできることかを考えていないあなたの涙には何の意味もないという厳しい指摘です。

 ジェーンさんの指摘を踏まえ、小川氏は、(例え高畑淳子さんに会見で同情を買う意図はなかったとしても)、あの会見を見て「気の毒だ」と感じた視聴者は多かっただろうとしています。

 加害者家族の苦しみという、今まで日本が生で見たことのない強烈にセンセーショナルな映像がテレビで流され続ける。しかもそれが今まで親しみを持っていた親子ということもあって、国民による(よく知った)母親への同情は今、大きく膨れあがっているように思われると小川氏は考えます。

 そして、その同情が、これから行われる裁判結果に少しでも影響しないことを祈っていると、小川氏はこの論評で語っています。

 さて、容疑者の母親である高畑さんを今回の会見に駆り立てたものは、一体何だったのか。

 母一人子一人の家族として居ても立ってもいられない気持ちはあったのでしょうが、会見の様子を見る限り、少なくともそれは被害者への心からの謝罪という感じではなく、むろん息子が被害者の人権を蹂躙したことへの怒りでもないようです。

 一方、(会見という形であれ何であれ)もしも高畑さんが謝罪のコメントを発しなければ、事の推移は一体どうなっていたでしょう。

 容疑者には、以前から「甘やかして育てられたボンボン息子」といったキャラクターが設定されていただけに、高畑さんの身の上に「親として謝罪はないのか」というバッシングの嵐が吹き荒れたのは想像に難くありません。

 そう考えれば、少なくとも外形上、今回の会見は(ある意味、社会的影響力のある公人としての立場を持つ)芸能人としての責任の表明に他なりません。また、言い換えればそれは、(出来の悪い息子を持った)日本の大人として、社会から求められる体裁を体現した所作と言えるかもしれません。

 事件の認識をお茶の皆様に説明し、親として(子供に代わって)反省の姿勢を示すことが(日本の社会では)どうしても必要とされていた。自分の置かれた状況に対して涙している姿を世間にさらすことで、私は(息子の犯した犯罪によって)きちんと傷つき、応分の痛みを負っていますと宣言したとも受け取れます。

 一方で今回の会見が、お茶の間の観客に対し、「見たいものを見た」という(ある種の)満足感を与えたことは事実でしょう。

 「ここまで反省しているんだから…」、「どうしようもない息子なんだから責めても仕方がない…」、母親の涙がそうした「収束感」をテレビ見ている多くの人々に与え留飲を下げさせたというのは、もしかしたら小川氏の指摘のとおりかもしれません。

 どのような事情があろうとも、事件は事件として起こったことであり、容疑者は法的な責任を負わなければならない立派な大人です。また犯罪行為への贖罪と 母親の謝罪と異なる次元の問題であることは自明と言わざるを得ません。

 今回の事件で本当に弱い立場に立っている者、傷ついている者は誰なのか。

 「形に収めること」を重視する日本の社会を考えるとき、それでも「被害者と一緒に怒る人がいることに私は希望を感じている」と訴える小川氏の言葉の重みを、私も今回の会見から改めて感じざるを得ませんでした。




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