久しぶりに母親の実家、myおばあちゃんのいる大阪に行って、大阪のファミリーはやはりおかしい、という揺ぎない事実に気付いてしまった。
とりあえず、誰かが何かを言うと、すかさずツッコミが入ります。
これは別に、笑いを意図してのツッコミではない、というところがポイントです。
ボケも同様で、要するに、彼ら彼女らは、無意識のうちにボケ/ツッコミという会話スタイルに陥らざるをえない、というか、それが日常的なコミュニケーション・スタイルとして馴染んでしまっているようなのです。
だから、大阪人=面白い、というステレオタイプには賛同しかねるものの、
外から来た人間が彼らのやりとりを聞いていると、やはり失笑、ときに爆笑を禁じえない。
実際、シュールという、想像力のフィールドを持っている分、東京人の方が、笑いの幅は広いはずなのです。
その点、大阪的な笑いはベタの一言に尽きます。
ただ、仮に言ってること自体は面白さを狙ったものではないとしても、会話として捉えたときに、非常に特異なコミュニケーションのように思えてそれが実に面白く、
言ってることとやってることの矛盾、理不尽さが伴えばモアベターです。
慣れない人が聞くと、彼らは四六時中ケンカしているかのように見えるかもしれません。
抽象的な話をしていても伝わりにくいので、日記風に一例をあげると、、、
外から帰ってきて、スイッチを入れてこたつに入っていたおばあちゃんが、「全然あったかくならへん」と言いました。
ぼくは、コンセントが抜けているなあと思ったので、「おばあちゃん、コンセント入ってない」と言うと、おばあちゃんは、となりにいたおばさんに、「よう言わんわぁ。もっとはよ言うてくれればええのに。よう言わんわぁ」と嘆きました。
いきなりふられたおばさんは、「なんでわたしに言うねん。わたし全然関係ないやん。自分が気付かなかっただけやん」みたいなことを言いました。
でもおばあちゃんは、全く聞く耳を持たず、「全然あったかくないって、もっとはよ言うてくれればええのに。よう言わんわぁ」と、同じことを何度も言いました。
おばさんもぼくも、こたつには入っていませんでした。
僕は、おばあちゃんが言っていることはジャイアンと同じくらい理不尽だなあと思いましたが、とりあえず東京式に、何も言わずに受け流しました。
でもおばさんは、「こたつ入ってんの、お母さんだけやん。自分が気付かなかっただけやん」と、執拗に食い下がります。
どう考えても、こだわるポイントが子どもじみています。
おばあちゃんもおばあちゃんで、「よう言わんわぁ」を連発し、気が付けば、そんな些細な出来事で、(意味のわからない)会話が(無駄に)成立してしまっていました。
上に挙げた例は、非常に生易しい会話の部類に入りますし、特に珍しいやりとりというわけでもありません。
また、同性間での会話よりは、異性間の会話において、大阪式コミュニケーションは真価を発揮するような気がします。
記憶をたどると、死んだおじいちゃんと、おばあちゃんは、僕が幼少の頃、大阪を訪れる度にケンカしていましたが、あれもケンカではなく、日常会話だったのかもしれません。
おばあちゃんが何か言うと、おじいちゃんは、「何がぃやぁ!」「おかしなこと言いおるのぅ!」と、大声で言い返すのが常でした。
実際どっちが言ってることが正しいのかは二の次で、互いに自ら非を認めるということがなく、ボケ役はツッコミ役の言うことに全く耳を貸さず、ツッコミ役はツッコミ役で、執拗なまでにツッコミ続ける。
ぼくは、大阪の人たちはすごいなあと思いました。
大阪には確かに、近代的・西欧的な合理性、論理性を超越した何かが存在しています。非常に呪術的であり、飴のことを「飴ちゃん」と呼ぶ人口の割合は、おそらく日本一でしょう。
しかし、22になって、久しぶりに大阪を訪れるまで、このようなことには全く気が付きませんでした。
ちっちゃい頃から頻繁に大阪には行っていたし、親戚の集まりやら街中やらで彼ら大阪人の会話を聞く機会も多かったはずなのに、何の違和感も感じたためしがありませんでした。
これは、僕自身がおそらく母親の影響で、大阪式のコミュニケーション・スタイルを身に付けて育ってしまった、というのが大きいと思われます。(いちおう東京育ちなんですが。)
改めて考えてみると、会話の中で、波風を立てずにスマートに流れに乗っていく、東京式のコミュニケーション・スタイルは、いまだにマスターできていません。
「同調」が東京式コミュニケーション・スタイルにおける基本動作であると仮定すると、「否定」こそが大阪式コミュニケーション・スタイルにおける基本的リアクションであると考えることができます。
僕の場合も、少し気を抜くと、非常に些細な、どうでもいいポイントに対してケチをつけるようなコメントが、口からポンと、何のためらいもなく出てきて困ります。
とはいえ、ネイティブの大阪人に囲まれると、大阪人と東京人のハーフのような人間は終始圧倒されっぱなしで、阿呆のようにニコニコしているしかありません。
日常的に面白いことを言う必要性などは皆無ですが、たとえつっこまれたとしても、それに臆することなく自分がボケ続けられる程度には強度を持った発言をしないと、そっこーでつぶされてしまうのです。
その点、ご主人様である信長の草履を、ケツに敷いていたにも関わらず、「懐に入れてあったかくしててん」と言い張ったに違いない秀吉は、典型的な大阪人であると言えるでしょう。
秀吉といえば後に、黄金の茶室なるものを作りました。
意味が分からないばかりか、お世辞にも洗練されたセンスであるとは言いがたいですね。
そういった精神は、通天閣や食い倒れ人形といった現代の造形物にも脈々と受けつがれています。
ちなみに、JR西日本の定期券は、SUICA(スイカ)ではなく、ICOCA(イコカ:行こか~?)である、という点にも注意が必要です。
とりあえず、誰かが何かを言うと、すかさずツッコミが入ります。
これは別に、笑いを意図してのツッコミではない、というところがポイントです。
ボケも同様で、要するに、彼ら彼女らは、無意識のうちにボケ/ツッコミという会話スタイルに陥らざるをえない、というか、それが日常的なコミュニケーション・スタイルとして馴染んでしまっているようなのです。
だから、大阪人=面白い、というステレオタイプには賛同しかねるものの、
外から来た人間が彼らのやりとりを聞いていると、やはり失笑、ときに爆笑を禁じえない。
実際、シュールという、想像力のフィールドを持っている分、東京人の方が、笑いの幅は広いはずなのです。
その点、大阪的な笑いはベタの一言に尽きます。
ただ、仮に言ってること自体は面白さを狙ったものではないとしても、会話として捉えたときに、非常に特異なコミュニケーションのように思えてそれが実に面白く、
言ってることとやってることの矛盾、理不尽さが伴えばモアベターです。
慣れない人が聞くと、彼らは四六時中ケンカしているかのように見えるかもしれません。
抽象的な話をしていても伝わりにくいので、日記風に一例をあげると、、、
外から帰ってきて、スイッチを入れてこたつに入っていたおばあちゃんが、「全然あったかくならへん」と言いました。
ぼくは、コンセントが抜けているなあと思ったので、「おばあちゃん、コンセント入ってない」と言うと、おばあちゃんは、となりにいたおばさんに、「よう言わんわぁ。もっとはよ言うてくれればええのに。よう言わんわぁ」と嘆きました。
いきなりふられたおばさんは、「なんでわたしに言うねん。わたし全然関係ないやん。自分が気付かなかっただけやん」みたいなことを言いました。
でもおばあちゃんは、全く聞く耳を持たず、「全然あったかくないって、もっとはよ言うてくれればええのに。よう言わんわぁ」と、同じことを何度も言いました。
おばさんもぼくも、こたつには入っていませんでした。
僕は、おばあちゃんが言っていることはジャイアンと同じくらい理不尽だなあと思いましたが、とりあえず東京式に、何も言わずに受け流しました。
でもおばさんは、「こたつ入ってんの、お母さんだけやん。自分が気付かなかっただけやん」と、執拗に食い下がります。
どう考えても、こだわるポイントが子どもじみています。
おばあちゃんもおばあちゃんで、「よう言わんわぁ」を連発し、気が付けば、そんな些細な出来事で、(意味のわからない)会話が(無駄に)成立してしまっていました。
上に挙げた例は、非常に生易しい会話の部類に入りますし、特に珍しいやりとりというわけでもありません。
また、同性間での会話よりは、異性間の会話において、大阪式コミュニケーションは真価を発揮するような気がします。
記憶をたどると、死んだおじいちゃんと、おばあちゃんは、僕が幼少の頃、大阪を訪れる度にケンカしていましたが、あれもケンカではなく、日常会話だったのかもしれません。
おばあちゃんが何か言うと、おじいちゃんは、「何がぃやぁ!」「おかしなこと言いおるのぅ!」と、大声で言い返すのが常でした。
実際どっちが言ってることが正しいのかは二の次で、互いに自ら非を認めるということがなく、ボケ役はツッコミ役の言うことに全く耳を貸さず、ツッコミ役はツッコミ役で、執拗なまでにツッコミ続ける。
ぼくは、大阪の人たちはすごいなあと思いました。
大阪には確かに、近代的・西欧的な合理性、論理性を超越した何かが存在しています。非常に呪術的であり、飴のことを「飴ちゃん」と呼ぶ人口の割合は、おそらく日本一でしょう。
しかし、22になって、久しぶりに大阪を訪れるまで、このようなことには全く気が付きませんでした。
ちっちゃい頃から頻繁に大阪には行っていたし、親戚の集まりやら街中やらで彼ら大阪人の会話を聞く機会も多かったはずなのに、何の違和感も感じたためしがありませんでした。
これは、僕自身がおそらく母親の影響で、大阪式のコミュニケーション・スタイルを身に付けて育ってしまった、というのが大きいと思われます。(いちおう東京育ちなんですが。)
改めて考えてみると、会話の中で、波風を立てずにスマートに流れに乗っていく、東京式のコミュニケーション・スタイルは、いまだにマスターできていません。
「同調」が東京式コミュニケーション・スタイルにおける基本動作であると仮定すると、「否定」こそが大阪式コミュニケーション・スタイルにおける基本的リアクションであると考えることができます。
僕の場合も、少し気を抜くと、非常に些細な、どうでもいいポイントに対してケチをつけるようなコメントが、口からポンと、何のためらいもなく出てきて困ります。
とはいえ、ネイティブの大阪人に囲まれると、大阪人と東京人のハーフのような人間は終始圧倒されっぱなしで、阿呆のようにニコニコしているしかありません。
日常的に面白いことを言う必要性などは皆無ですが、たとえつっこまれたとしても、それに臆することなく自分がボケ続けられる程度には強度を持った発言をしないと、そっこーでつぶされてしまうのです。
その点、ご主人様である信長の草履を、ケツに敷いていたにも関わらず、「懐に入れてあったかくしててん」と言い張ったに違いない秀吉は、典型的な大阪人であると言えるでしょう。
秀吉といえば後に、黄金の茶室なるものを作りました。
意味が分からないばかりか、お世辞にも洗練されたセンスであるとは言いがたいですね。
そういった精神は、通天閣や食い倒れ人形といった現代の造形物にも脈々と受けつがれています。
ちなみに、JR西日本の定期券は、SUICA(スイカ)ではなく、ICOCA(イコカ:行こか~?)である、という点にも注意が必要です。