ベスターの『願い星、叶い星』を読んで、前言を反省した。
エロ・グロ・通俗・サイコという点では、ベスターの作風がまさしくそれである。
SFというジャンルにおいては、この系譜のルーツであると言ってもよい。
この手のものを「SFじゃない」と断じたように取られる文章は、
かなり軽率な物言いだったと思う。
まあ文章のウデは比較にならないけど、やってること自体は『左巻き式』も
そう変わらない気がするのだ。
ベスターのほうには現在の18禁系ほどの露骨さは無いのだが、
発表当時ならば、ずいぶん扇情的な部類に入っただろう。
ただ『左巻キ式』においてどうにも容認しがたいのは、その文章の根っこに
感じ取れる「自涜・自傷性」、すなわち自己の愛する対象を傷つけ、
あまつさえ破壊することでしか「リアリティ」を実感できない感性である。
これを徹底することで、究極的には自分の「愛」を再確認するという行為は
頭で理解は出来ても、感覚的に受け入れられない。
それはきっと「幼児性」だと思うし、それを自ら受け入れてしまうことは
自分の中のそれに甘えてしまうことのように感じるのだ。
同属嫌悪かつ好みの問題でしかないと言われても、この点はどうにもならない。
ここから先は「評論」でもなんでもなく、自分の主張の問題だからである。
ベスター作品において描かれる暴力性は、世界と対峙するための
エネルギーとなり、自己の外部に向けて噴出する力となる。
『ごきげん目盛り』のように、その動機が極めてネガティブなものでも
行動自体は「生存」を目的とした、極めてポジティブな形をとるのである。
このポジティブさが、ベスター作品にピカレスクの面白さを与え、
ガリー・フォイルを「救世主にして変革者」たらしめた理由だと思うのだ。
そのしぶとさとしたたかさ、そして悪趣味ともとれるけれん味を、
私は愛している。
自分が変われば、世界も変わる。変わらなくても変えてみせる。
その意志がたとえウソであっても、その考え方は正しい。
「鋼鉄の音」が鳴り響く中にあっても、生きることを止めるわけにはいかないのだ。
セカイと事を構えたいなら、このくらいのタフさとスケールのでかさは持ちたいし、
持っていなくちゃいけないと思う。
エロ・グロ・通俗・サイコという点では、ベスターの作風がまさしくそれである。
SFというジャンルにおいては、この系譜のルーツであると言ってもよい。
この手のものを「SFじゃない」と断じたように取られる文章は、
かなり軽率な物言いだったと思う。
まあ文章のウデは比較にならないけど、やってること自体は『左巻き式』も
そう変わらない気がするのだ。
ベスターのほうには現在の18禁系ほどの露骨さは無いのだが、
発表当時ならば、ずいぶん扇情的な部類に入っただろう。
ただ『左巻キ式』においてどうにも容認しがたいのは、その文章の根っこに
感じ取れる「自涜・自傷性」、すなわち自己の愛する対象を傷つけ、
あまつさえ破壊することでしか「リアリティ」を実感できない感性である。
これを徹底することで、究極的には自分の「愛」を再確認するという行為は
頭で理解は出来ても、感覚的に受け入れられない。
それはきっと「幼児性」だと思うし、それを自ら受け入れてしまうことは
自分の中のそれに甘えてしまうことのように感じるのだ。
同属嫌悪かつ好みの問題でしかないと言われても、この点はどうにもならない。
ここから先は「評論」でもなんでもなく、自分の主張の問題だからである。
ベスター作品において描かれる暴力性は、世界と対峙するための
エネルギーとなり、自己の外部に向けて噴出する力となる。
『ごきげん目盛り』のように、その動機が極めてネガティブなものでも
行動自体は「生存」を目的とした、極めてポジティブな形をとるのである。
このポジティブさが、ベスター作品にピカレスクの面白さを与え、
ガリー・フォイルを「救世主にして変革者」たらしめた理由だと思うのだ。
そのしぶとさとしたたかさ、そして悪趣味ともとれるけれん味を、
私は愛している。
自分が変われば、世界も変わる。変わらなくても変えてみせる。
その意志がたとえウソであっても、その考え方は正しい。
「鋼鉄の音」が鳴り響く中にあっても、生きることを止めるわけにはいかないのだ。
セカイと事を構えたいなら、このくらいのタフさとスケールのでかさは持ちたいし、
持っていなくちゃいけないと思う。