熊は勘定に入れません-あるいは、消えたスタージョンの謎-

現在不定期かつ突発的更新中。基本はSFの読書感想など。

我が赴くはラストリゾート

2005年06月18日 | SF
ベスターの『願い星、叶い星』を読んで、前言を反省した。
エロ・グロ・通俗・サイコという点では、ベスターの作風がまさしくそれである。
SFというジャンルにおいては、この系譜のルーツであると言ってもよい。
この手のものを「SFじゃない」と断じたように取られる文章は、
かなり軽率な物言いだったと思う。

まあ文章のウデは比較にならないけど、やってること自体は『左巻き式』も
そう変わらない気がするのだ。
ベスターのほうには現在の18禁系ほどの露骨さは無いのだが、
発表当時ならば、ずいぶん扇情的な部類に入っただろう。

ただ『左巻キ式』においてどうにも容認しがたいのは、その文章の根っこに
感じ取れる「自涜・自傷性」、すなわち自己の愛する対象を傷つけ、
あまつさえ破壊することでしか「リアリティ」を実感できない感性である。
これを徹底することで、究極的には自分の「愛」を再確認するという行為は
頭で理解は出来ても、感覚的に受け入れられない。

それはきっと「幼児性」だと思うし、それを自ら受け入れてしまうことは
自分の中のそれに甘えてしまうことのように感じるのだ。
同属嫌悪かつ好みの問題でしかないと言われても、この点はどうにもならない。
ここから先は「評論」でもなんでもなく、自分の主張の問題だからである。

ベスター作品において描かれる暴力性は、世界と対峙するための
エネルギーとなり、自己の外部に向けて噴出する力となる。
『ごきげん目盛り』のように、その動機が極めてネガティブなものでも
行動自体は「生存」を目的とした、極めてポジティブな形をとるのである。

このポジティブさが、ベスター作品にピカレスクの面白さを与え、
ガリー・フォイルを「救世主にして変革者」たらしめた理由だと思うのだ。
そのしぶとさとしたたかさ、そして悪趣味ともとれるけれん味を、
私は愛している。

自分が変われば、世界も変わる。変わらなくても変えてみせる。
その意志がたとえウソであっても、その考え方は正しい。
「鋼鉄の音」が鳴り響く中にあっても、生きることを止めるわけにはいかないのだ。
セカイと事を構えたいなら、このくらいのタフさとスケールのでかさは持ちたいし、
持っていなくちゃいけないと思う。