■Disc 1
1960年代のカレッジ・フォーク・GSを主体にしている。
01. 想い出の渚 (ザ・ワイルド・ワンズ) 1966年 (昭和41年)
ザ・ワイルド・ワンズのデビュー曲で、加瀬邦彦の12弦ギターで大ヒットし100万枚以上を売り上げた。
このグループは、加瀬邦彦が「キャノンボール」、「ザ・スパイダース」、「寺内タケシとブルージーンズ」を経て平凡パンチに募集記事を載せ、メンバーを集め結成された。
1971年に解散したが、1981年に再結成。
「加瀬邦彦とザ・ワイルドワンズ」と名前を変え、現在も活動中です。
2012年4月にはももいろクローバーZの公演『ももクロ春の一大事2012 〜横浜アリーナ まさかの2DAYS〜』の一日目に参加し、百田夏菜子 With ザ・ワイルドワンズとして「渚のラララ」を披露した。
残念な事にリーダの加瀬邦彦さんは、2015年に自殺して満74歳で亡くなられています。
02. 真冬の帰り道 (ザ・ランチャーズ) 1967年 (昭和42年)
第三期ザ・ランチャーズのデビュー曲。
元々は、加山雄三主演の「若大将シリーズ」が始まったころ、藤本真澄プロデューサーが加山に「会社の人間で演奏できるやつを集めてバンドをやれ。映画でも使うぞ」と指示して、加山がメンバーをかき集めて1962年結成した。
東宝の俳優らを中心メンバーにしてスタートしたが、それぞれの本業が忙しくなり活動停止。
その後、1967年に第三期を結成した。
…が、GS時代の終焉とともに1971年解散。
03. 野バラ咲く路 (市川染五郎) 1967年 (昭和42年)
六代目市川染五郎であり、現九代目 松本幸四郎である。
歌舞伎の家に生まれながら現代劇、ミュージカルでの活躍が目立つ。
テレビでは大河ドラマや連続ドラマの主役が多く、万能型の役者である。
そしてこの作品のように音楽も作曲している。
まさに多芸である。
長男は、七代目市川染五郎、NHKドラマ「妻はくの一」は大好きでした。
次女は女優の松たか子さん。
04. 長い髪の少女 (ザ・ゴールデン・カップス) 1968年 (昭和43年)
ディブ平尾を中心に1967に結成された。
名前の由来は、横浜のバー「ゴールデンカップ」。
「いとしのイザベル」でデビュー。
そして1968年に3rdシングル『長い髪の少女』を発売。
オリコン14位、35万枚のセールスを記録し、一躍人気グループの仲間入りをした。
メンバーには、ミッキー吉野(ゴダイゴのリーダー)、アイ高野(ザ・カーナビーツ)、柳ジョージ(ソロ歌手)等そうそうたる人物が在籍した。
残念ながら、ディブ平尾さん、アイ高野さん、柳ジョージさんはお亡くなりになっています。
05. 帰って来たヨッパライ (ザ・フォーク・クルセダーズ ) 1967年 (昭和42年)
アマチュア時代は1965~1967年。解散記念の自主制作でアルバム「ハレンチ」を300枚制作。
この中には「帰って来たヨッパライ」、「イムジン河」が含まれている。
1968年に1年限りの約束でプロデビュー。
メンバーは、加藤和彦、北山修、はしだのりひこの3人。
この曲は、オリコン史上初のミリオンヒットとなり、当時の日本のバンドによるシングル売上げ日本一となった。
そして、1968年10月17日大阪でのさよならコンサートを最後に解散している。
06. 青年は荒野をめざす (ザ・フォーク・クルセダーズ) 1968年 (昭和43年)
ザ・フォーク・クルセダーズの最後(8番目)のシングル曲。
この曲の作詞者である五木寛之の同名の小説をモチーフにして制作された。
07. 悲しくてやりきれない (ザ・フォーク・クルセダーズ) 1968年 (昭和43年)
1968年3月21日発売の3枚目のシングル曲。
2枚目のシングル曲として予定されていた「イムジン河」が発売自粛となったため、それに代わる曲として制作された。
「イムジン河」
1968年2月21日発売予定であったが、政治的理由により発売中止となった。
元歌は1957年発売。北朝鮮のプロパガンダ(特定の思想の宣伝)楽曲であり政治的思想の唄であった。
臨津江(リムジン河)を渡って南に飛んでいく鳥を見ながら、
1番では臨津江の流れに対し、なぜ南の故郷へ帰れないのかを嘆き、
2番では臨津江の流れに対し、荒れ果てた「南」の地へ花の咲く「北」の様子を伝えてほしいと、北が優れていることを誇示する内容である。
ところが、フォークル松山の歌詞は2番は分断に対する疑問に変わっており、また元歌にはない3番がある。
しかし、朝鮮総連、大韓民国共にクレームが付き発売禁止となったようである。
「水虫の唄」
ザ・ズートルビー名義で発表の4番目のシングル。(後述№17)
「ゲゲゲの鬼太郎」
1968年2月21日発売の5番目のシングル。
「さすらいのヨッパライ 」
1968年11月10日発売の6番目のシングル。
「何のために」
1968年11月10日発売の7番目のシングル。
「大蛇の唄」
1970年4月5日発売のシングル。
「イムジン河」のB面曲の「ヘビに喰われて死んでゆく男の悲しい悲しい物語」のタイトルを変えたもの。
08. 夕陽が沈む (フォー・ダイムス) 1967年 (昭和42年)
「エルモ」というスキー同好会に所属する学生たちで1965年に結成されました。
オリジナルメンバーは山本峯生さん、岡村一さん、内田信夫さん、そして紅一点の村上和子さん。
09. おはなし (キャッスル&ゲイツ ) 1969年 (昭和44年)
1965に結成。
1967年9月16日、ニッポン放送のラジオ番組「バイタリス・フォーク・ビレッジ」用に田村が作った「おはなし」を録音。
好評を博すが、この時レコード化されることはなかった。
1968年に解散。
1969年に突然レコード化された。
余談ですが、「バイタリス」って聞いた事あるけど何だっけ……!
っと思いながらweb検索。
…そうだ、「バイタリス ヘアリキッド」でした。
現在も販売していました。(ライオン)
10. 希望 (フォー・セインツ) 1969年 (昭和44年)
1960年代後半に一世を風靡したカレッジ・フォーク・グループの草分け的存在。
この曲は2曲目のシングルでカバー曲である。
元々のオリジナルは倍賞千恵子さん。
この曲もヒットしたが、翌年岸洋子さんがカバーして大ヒットとなっていて、岸さんの代表曲となっている。
11. 小さな日記 (フォー・セインツ) 1968年 (昭和43年)
この曲がデビュー曲で20万枚の大ヒット。
後にフォー・クローバースと改名する。
1972年解散。
12. 海は恋してる (ザ・リガニーズ) 1968年 (昭和43年)
1967年夏、早稲田大学公認バンドサークルWFS(Waseda Folksong Society) のメンバーが結成。
1968年7月1日、「海は恋してる」でデビュー。10万枚を超えるヒットとなり「カレッジ・ポップス」の先鞭となった。
1972年解散。
グループ名はザリガニをもじったもの。
13. 時計をとめて (ジャックス) 1967年 (昭和42年)
1965-1969年に活動した日本のサイケデリック・ロックバンド。
当時はグループサウンズとフォークソングの全盛時代の為、脚光を浴びず解散した。
14. 今日も夢みる (万里村れいとタイムセラーズ) 1968年 (昭和43年)
上記08フォー・ダイムスは学生バンドだったので、メンバーが卒業すると解散となってしまいました。
一人取り残された村上和子さんが万里村れいと名前を変えて参加したバンドです。
15. さよならは云わないで (モダン・フォーク・フェローズ) 1969年 (昭和44年)
慶応大学の学生バンド。
「フォー・ダイムス」、「万里村れいとタイムセラーズ」と同じ。
尚、ベースには直木賞作家の景山民夫がいる。
16. 海の底でうたう唄 (モコ・ビーバー・オリーブ) 1969年 (昭和44年)
ニッポン放送のラジオ番組「ザ・パンチ・パンチ・パンチ」の初代パーソナリティを務めた高橋基子(モコ)、川口まさみ(ビーバー)、シリア・ポール(オリーブ)の3人組が歌っています。
彼女達はパンチガールと呼ばれていました。
夜の23時台放送で1967年1月1日から1982年12月30日まで放送されていた。
当時は女性三人でのラジオ番組というのは画期的だったといわれ、主にリスナーとして番組を支えていた、当時若者だった団塊の世代から大きな支持を得た。
1979年には7代目パンチガールとしてデビュー前の松田聖子が登場している。
尚、この曲は1993年にル・クプルがカバーしている。
尚、他に「忘れたいのに」という曲がある。
又、3人とも個々にレコードを発売している。
■高橋基子(モコ)
1972年「ビビビ のビ」を発売。
■川口まさみ(ビーバー)
1973年「参った困った大騒ぎ」を発売。
■シリア・ポール(オリーブ)
子供の頃から、テレビ・映画に子役として出演した。
1977年「夢で逢えたら」を発売。
一般的には吉田美奈子の代表曲として知られているが、このシリア・ポール版は山下達郎がプロデュースしている。
17. 水虫の唄 (ザ・ズートルビー) 1968年 (昭和43年)
ザ・フォーク・クルセダーズがザ・ズートルビー名義で発表の4番目のシングル。
この曲は神戸のポート・ジュビリーのライブコンサートで活躍していた甲南大生を中心としたフォークバンドのThe Spirits Of Falls(山田進一、菅尾 示、高原杏子、山内十三男、上島隆夫)のオリジナル曲であり、当時のラジオ関西で流されリクエストが集中しそれを京都中心に活躍していたフォークルがレコード化した、
18. 風 (はしだのりひことシューベルツ) 1969年 (昭和44年)
1969年ザ・フォーク・クルセダーズ解散に伴い、はしだのりひこが結成した。
橋田、越智、杉田二郎、井上博の4人。
この曲はデビュー曲。大ヒットして日本レコード大賞新人賞を受賞。
リードボーカルは杉田次郎。
1970年井上博の死去に伴い解散した。
19. さすらい人の子守唄 (はしだのりひことシューベルツ) 1969年 (昭和44年)
セカンド・シングル。
20. 或る日突然 (トワ・エ・モワ) 1969年 (昭和44年)
1969年にスクールメイツのメンバーだった山室(現・白鳥)英美子と、歌手志望だった芥川澄夫の二人で結成された。
この曲はデビュー曲。オリコン4位を記録し大ヒットした。
21. 空よ (トワ・エ・モワ) 1970年 (昭和45年)
4曲目のシングル。
NHK総合テレビの番組『あなたのメロディー』から生まれた。
この番組は視聴者からオリジナル曲(作詞・作曲)を公募し優れたものをプロの歌手による歌唱で発表するという企画でした!
22. 虹と雪のバラード (トワ・エ・モワ ) 1972年 (昭和47年)
9曲目のシングル。
1972年2月に開催された札幌オリンピックのテーマソングである。
オリコン7位を記録し売上げ60万枚を記録した。
23. 花嫁 (はしだのりひことクライマックス) 1971年 (昭和46年)
井上博の死去により「はしだのりひことシューベルツ」を解散したはしだのりひこは、その後「はしだのりひことマーガレッツ」を結成、そして次に結成したのがこのグループである。
この曲はデビュー曲であり、オリコン1位を獲得、100万枚を超す大ヒットとなり、長く結婚式の定番の曲であった。
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