■Disc 8
1 襟裳岬 (よしだたくろう) 1974(昭和49年)
襟裳岬は演歌の森進一の大ヒット曲。100万枚を超える売り上げを記録している。
この曲で森進一は1974年の第16回日本レコード大賞と、第5回日本歌謡大賞の大賞をダブル受賞した。
作曲は吉田拓郎、作詞は岡本おさみのフォーク系だ。
吉田拓郎が森進一に楽曲提供した結果だが、
これはフォーク系のシンガーソングライターが演歌系に楽曲提供するという初めてのケースだった。
この背景には、新鮮な楽曲を欲していた歌謡曲サイドが、目新しさを求めて「若者の歌」にアプローチしたということ、フォーク系シンガーソングライターにとっては、自分の楽曲を歌わせる「新しい素材」を歌謡曲に求めたという理由があった。
自分で作った歌を自分で歌うのがシンガーソングライターではあるが、ソングライターとしての自分の実力をより世間に広く知らしめたいという"野心"がそこにあった。
保守的でありながらも、常に目新しさを貧欲に求め続ける歌謡界と、新しいスタイルでビジネスを展開しようとしながらも、人材不足を感じていたフォーク(ニューミュージック)界の両者の思惑がここで一致した。
尚、この曲はよしだたくろうが1974年のアルバム『今はまだ人生を語らず』でセルフカバーしたもの。
森進一版 「襟裳岬」
2 『いちご白書』をもう一度 (バンバン) 1975(昭和50年)
シングル5作目の曲で自身最大のヒット曲。
作詞作曲は荒井由実。
荒井も松任谷姓になった後の2003年にアルバム『Yuming Compositions: FACES』でセルフカバーした。
当時は、学生運動の象徴であった東大安田講堂事件から6年が経過し、学生運動の高揚と退潮がまだ社会の記憶に残っていた時代である。
バンバンのばんばは本曲について「社会を変えるつもりで闘争に加わった学生達は、生活のために会社の歯車となり、彼らは皆何らかの敗北感を持っていた。この歌は挫折感を抱えた同世代への鎮魂歌なんです」と語っている。
3 木綿のハンカチーフ (太田裕美) 1975(昭和50年)
最大のヒット曲にして代表曲であり、累計売上枚数はオリコンの統計では86.7万枚、ミュージック・リサーチ社の発表では150万枚以上を記録した。
歌詞は4番まであり、西のとある地方から東京を想起させる都会に出た男性と、故郷に残された女性との遠距離恋愛が破れるまでを、男女の対話形式でストーリー仕立てにしている。
男性の旅立ちから始まる1番は広く知られているが、2番では半年後、男性が故郷に帰らなくなり、指輪を代わりに贈る。3番では男性が勤務先で背広姿になっている姿の写真を女性に宛てた手紙に同封して贈り、4番では都会で浮かれた男性が女性を捨て、女性が最後の我儘として涙を拭く「木綿のハンカチーフ」を贈り物に下さいと訴える内容となっている。
当時の日本経済は右肩上がり。東京一極集中の真っ最中で若者が東京に憧れた世相を反映しているのだろうか?
何とも男性中心の話であり女性にとっては悲しい歌だ。
蛇足ながら、当時音楽評論家から「盗作だ」と批評された。
歌詞の内容と構成がボブ・ディランの1964年の楽曲「スペイン革のブーツ」に酷似しているとされたのだ。
「スペイン革のブーツ」が女性が旅立つのに対して「木綿のハンカチーフ」は男性が旅立つ逆の設定であるが、恋人同士の手紙のやり取りが交互に切り替わる構成、恋人が早く戻ってくることだけを願って贈り物を断り続けてきた「私」が、相手の心が自分から離れていると分かったときに初めて贈り物としてタイトルになっているものを求めるという展開が同じで、「星やダイヤモンドよりあなたのキスの方がいい」という箇所などは偶然とは考えられないほど類似しているというものだ。
尚、シングルバージョンには別のバージョンが存在する。
ギターの音量の外、ボーカルのエコーやストリングスの残響が強いなどミックスが異なる。
4 路地裏の少年 (浜田省吾) 1976(昭和51年)
デビュー曲で自身最大のヒット曲である。
この楽曲は、デビューシングルヴァージョンを含めて7つのヴァージョンがある。
・1976年4月21日発売のシングルEPヴァージョン。
・1976年4月21日発売のアルバム『生まれたところを遠く離れて』収録ヴァージョン。
・1986年7月16日発売の12インチ・シングルヴァージョン。
・1986年9月4日発売のアルバム『J.BOY』収録ヴァージョン。
・1999年発売『J.BOY』1999年リミックス、リマスター。
・2016年発売『J.BOY』1999年版音源の2016年リマスター。
・1996年公開映画『スーパースキャンダル』(稲垣吾郎・藤谷美和子主演)エンディングヴァージョン(シングル・アルバム共に未収録)。
5 青春時代 (森田公一とトップギャラン) 1976(昭和51年)
青春時代の心情を巧みに綴った歌詞として、当時の若い世代を中心に多大な支持を得た。
発売から半年経過でミリオンセラーとなり、大ヒットした。
6 失恋レストラン (清水健太郎) 1976(昭和51年)
デビュー曲。自身最大のヒット曲。
大学時代の自動車の死亡事故を皮切りに数度の交通事故、数度の覚醒剤での逮捕を繰り返す。
7 時代遅れの酒場 (加藤登紀子) 1977(昭和52年)
27作目のシングル。
1983年11月12日公開の東宝映画『居酒屋兆治』の主題歌に採用される。
この映画の中で加藤自身主人公高倉健の妻役で出演している。
そして高倉健自身もこの曲をカバーしている。
8 冬が来る前に (紙ふうせん) 1977(昭和52年)
フォークグループ「赤い鳥」のメンバーであった後藤悦治郎と平山泰代が結婚し、解散後作った夫婦デュオ。
デビュー7作目のシングルで最大のヒット曲である。
9 迷い道 (渡辺真知子) 1977(昭和52年)
デビューシングル。80万枚を売り上げ大ヒットした。
この曲でNHK紅白歌合戦に初出場した。
1970年代後半のニューミュージックブームの中で、松任谷由実や中島みゆきなどの次世代の女性シンガーソングライターとして活躍した。
天真爛漫な人柄で知られ、テレビ・ラジオ出演時の軽快なトークで人気を集めた。芸術家肌のアーティストが多かった当時のシンガーソングライターには珍しくマルチタレントとして活動、女優として映画やテレビドラマに出演したり、ラジオパーソナリティとしても活動している。
10 きみの朝 (岸田智史) 1979(昭和54年)
8作目のシングル。
岸田智史(現岸田敏志)はシンガーソングライター、俳優である。
1979年にTBS系列のテレビドラマ『愛と喝采と』で俳優としてもデビュー。
そのドラマの作中では「モーニング」というタイトルだった挿入歌「きみの朝」を歌い大ヒットし自身の代表曲となった。
11 片想い (浜田省吾) 1979(昭和54年)
シングル6作目の「愛を眠らせて」のB面曲。
浜田省吾は「ハマショー」と呼ばれサングラスがトレードマーク。
ライブを中心に活動しテレビ出演は過去に4度しかない。
12 風を感じて (浜田省吾) 1979(昭和54年)
シングル7作目。
「風を感じて」は、日清食品『カップヌードル』のCMソングとして起用された。
13 SACHIKO (ばんばひろふみ ) 1979(昭和54年)
ソロ歌手として、1979年9月21日にリリースした4枚目のシングル。
ばんばひろふみは1975年にバンバンでの「いちご白書をもう一度」で大ヒット後に1977年に歌手の平山みきと結婚。
その後1978年にバンバンを解散後、ソロデビューした。
14 異邦人 (久保田早紀) 1979(昭和54年)
久保田早紀のデビューシングル。
三洋電機のカラーテレビ ″くっきりタテ7″ のコマーシャルソングとして使用され100万枚を超える大ヒットとなった。
しかし、1984年11月26日、東京・九段会館でのフェアウェルコンサートを最後に芸能界を引退。商業音楽活動を中止する。
その後は、久米小百合の名でクリスチャンの音楽伝道師として活動を開始。
現在まで、各地のキリスト教会などで教会音楽とアートを融合させたコンサートや、講演会、交流会を行うなど、活動を続けている。
久米小百合のコンサート
15 贈る言葉 (海援隊) 1979(昭和54年)
シングル14作目で自身初のオリコン首位を獲得した。
海援隊の武田鉄也主演のTBSドラマ『3年B組金八先生』のヒットで主題歌の「贈る言葉」(1979年)がミリオンセラーとなり、この曲は1980年代以降の卒業式には欠かせない定番ともなっている。
16 ランナウェイ (ラッツ&スター) 1980(昭和55年)
元はシャネルズでこの曲は、デビュー曲。
ミリオンセラーとなり一躍人気グループとなる。
顔を黒塗りすることで、ブラックミュージックの雰囲気を出したことが話題となり、お茶の間でも一躍人気グループとなる。また、「『ドゥ・ワップ』ってなんだろう?」と音楽雑誌でも取り上げられるなど、日本にドゥーワップ・ブームを巻き起こす。
1983年に「ラッツ&スター」に改名。解明後のデビューシングル「め組のひと」が80万枚を超える大ヒットとなった。
1985年に活動停止。以降はソロ活動となる。
リーダーの鈴木雅之はソロ歌手として現在も活躍中。
田代まさしはタレント活動へ転身して大活躍するが覚醒剤逮捕→更生→逮捕と数回繰り返している。もうすぐ70歳に近くなるがその近影に驚きの声が上がっている。
最新の情報では本人のHPに保護観察処分が解けましたとあった。
桑野正義は田代と共にタレント活動へ転身して大活躍する。
17 恋人よ (五輪真弓) 1980(昭和55年)
通算18枚目のシングル。
五輪のシングルでは唯一オリコンチャート週間1位を獲得し、100位内には35週間ランクインして、累計売上はミリオンセラーを記録した。
この曲ほどアジアを席巻した曲はない。1980年代の韓国において最もよく歌われた日本の歌である。
そこから中国、香港、ベトナム、インドネシアなどアジア各国に広がった。
当然カバーも多く、日本はもとよりアジア各国でアジア人のカバーが多数ある。
18 ペガサスの朝 (五十嵐浩晃) 1980(昭和55年)
3枚目のシングルで売上50万枚以上の自身最大のヒットを記録。
札幌市を拠点に活動しています。
19 メモリーグラス (堀江淳) 1981(昭和56年)
デビューシングルであり70万枚の大ヒットを記録する。
年間100本以上のライブを行い、オリジナル曲は勿論、カバー曲、童謡・唱歌などを交えたステージで、幅広い年齢層から支持されている。
尚、2013年に配信限定シングルで「メモリーグラス(誤解だらけ)」を出している。
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