「未来」ユルリ島 × haruka nakamura MV by 岡田敦
時は進むものではなく、過去も現在も未来も同時に存在する、ということについて、最近折に触れ考える。
論理的に考えている立派な学者もたくさんいるけれど、今は自分で感覚的に考えたい。
深く考えるのがこわいから、敢えて表面的にしか考えていないような気もするけど、
とても雑に考えると
生き物はみないつかなくなること、いまの状況に満足してないこと、満足していること、
身体的な変化、変化を願う気持ち、長く続いてほしいという気持ち、
そういうものが
「時は進むもの」という感覚を強く抱かせているように思える。
日常的に関わらないひとがなくなったとき、
心の中で一緒に生きている感覚は、生きているひとたちに対して抱くものとあまり変わらない。
日常的に関わるひとがなくなったとき、
同じような感覚を持つことは難しい。
時はうつろいゆくもの。
今日をやりきることに精一杯で、それを重ねていくと時が経っている、
そういうときは「今」だけを見つめている気がする。
「未来」のイメージには希望が託されているけれど、
必ずしもそうではない状況を生きているひとたちもいる。
結論のないただの雑記。
*
最近自信が無い。
語ったこと、振る舞い、果たして適切だったのかと不安に振り返ることが多い。
できなかったことを数えてしまうことが多いけれど、
できなかったことに気が付けてありがたかったと自分を鼓舞する。
できないままでもいいのかもしれないけど、それができる自分であってほしいと願うからこうなるのだろう。
「スキルアップ」「ブラッシュアップ」「発展」「成長」
上へ上へと目指していく価値観にすっかり染められてしまっているけれど、
そうじゃなくてもいいはずで。
背伸びしないで、成長しない自分の価値を認めてくれて、それでも自分の役割を果たせて。
そういう場所で生きていくことを空想したとき、自分が今それをすることは逃げだと思ってしまったり。
ここまで主観的に書いてきたけれど、大切なひとたちにはありのままでいてほしいと願うし、
うまくできないことがあってもそのひとの価値は損なわれないと強く思う。
結局は自分が勝手に、いろんなことができる自分でないと価値が無いと思っているのだろう。
仕事の世界と、私生活の世界を区切っているからこういう風に思うのかもしれない。
すっかり日本人の働き方をしてしまっている。
そういう生き方もひとつではあると思うけれど、もっといろんな生き方ができるし、
実際そういう風に生きているひとは世界中のいろんな地域にいる。日本にも。
そのことを忘れずにいたい。