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靖国再考

2006年01月15日 19時38分51秒 | 

自民総裁選、今後の選挙に勝てるかが大きな要素=小泉首相 (ロイター) - goo ニュース

 先日見た「男たちの大和」のような戦争映画あるいはドラマを見ると、やはりどうしても靖国神社のことを考えてしまう。

 個人的には靖国神社に参拝したいと思う。小泉首相は、靖国参拝は「心の問題」であるとし、先の戦争でなくなった人たちに、尊い命の犠牲の上にこれまでの日本の発展があることへの感謝と、あの悲惨な戦争を二度と繰り返さないという誓いを捧げる。このことに私は何の異存もない。こういうことに少しの理解も示さない隣国の意見など聞く必要はないのである。

 こう考えると靖国問題は外交問題ではない。では、内政の問題であるとして、どう考えなければならないか。小泉首相の言動から察するに、外交的にのみならず、内政的にも、「心の問題」であるとして、とやかく言われたくないと考えているように思われるが、それでいいのだろうか。

 それは違う。小泉首相は自分の信念を「参拝」という形で対外的に表出しているのであり、もはや「心の問題」にとどまらない。「心の問題」というなら、たとえば東条英機を崇拝しているとしても、心の内部にとどめている限り、それは全くの自由である。小泉首相が東条英機を崇拝しているとは思わないが。

 問題なのは、小泉首相がどういう信念を持っているか、ということではない。小泉首相が内閣総理大臣という地位にあって、「靖国神社」という一宗教施設に過ぎないところに参拝することが憲法上許されるのか、ということである。

 結論から言うと、以前から考えている通り、内閣総理大臣が靖国神社に参拝することは憲法20条3項に違反し、許されない。目的効果基準に照らしても、総理大臣の主観がどうであれ、参拝行為を客観的、外形的に評価すれば、宗教的意義を有するものと言わざるをえない。靖国神社が他の宗教団体とは異なるという印象を国民に与え、それは靖国神社および神道への援助、助長である。よって、国と宗教の過度のかかわりあいが認められる。

 昨年10月、大阪高裁判決の傍論の中で、裁判官が「靖国参拝は違憲」と述べたが、これに対して、「これは傍論なんだから無視すればいい」「国側は上告もできず、反論の機会も奪われ不公平だ」云々の意見が出た。たしかに、傍論には法的拘束力はない。だが、公務員その他は、憲法99条で憲法尊重擁護の義務が規定されている。

 裁判があろうがなかろうが、憲法と自分の行動をあわせ考え、その関係におけるハードルをどうクリアするのか。つまり、小泉首相は自分の行動が、なぜ政教分離には反しないといえるのかを明らかにしなければならない。イラクに自衛隊を派遣する際には憲法前文を持ち出し、その正当性を主張したが、都合のいいときだけ、自分の言いように解釈して憲法を持ち出すことが許されるのだろうか。

 「心の問題」であるというのなら、靖国神社でなくとも、静かに御霊に手を合わせる、それで十分ではないか。であるから、A級戦犯を分祀するとか、形だけの国立追悼施設を作るなんてことは考えなくてよいのである。靖国神社は今のまま存続し、それに政治が関わらなければ済む話である。

 ※ちなみに、今朝のサンデープロジェクトに民主党の前原代表が出演していた。迫力がないとか、統率力がないとか言われているが、今朝の田原氏とのやりとりをみていると、しっかり自分の立場を明らかにしていて聞いていて心地よいものも感じた。この人の下で、一致団結とまでは言わなくても、政権を現実的に担える集団であると国民にアピールできれば、自民党なんて簡単に打破できるのではないかと、思えた。

 その発言の中で、靖国には参拝しないと述べていた。他に興味深かった点、集団的自衛権を含む憲法改正の問題、女系天皇は認めても良いとの述べていたが、その皇位継承の問題、この2つはまた後日、考えをまとめたい。


靖国参拝違憲

2005年10月01日 13時35分49秒 | 

首相の靖国参拝「違憲」 大阪高裁判決 宗教的活動に当たる

 総理大臣の靖国参拝は、やはり違憲であると思う。以前にも書いたが、考えはその時と変わらない。

 小泉さんが参拝したいと思う気持ちは理解できる。先の大戦で、命を落とした精霊に、総理大臣として心から今の日本の発展を感謝し、また、二度と悲惨な戦争を起こさない決意を示す、このことは誰にも否定も非難もできないことだ。

 しかし、小泉さんは総理大臣である。小泉さんが、靖国参拝は総理大臣としての職務ではないと、いくら言ったところで、本判決のように客観的に考えれば、総理大臣の私的参拝などあり得ない。

 総理大臣が一神社に過ぎない靖国に参拝することで、「靖国神社は特別なんだ」という強いメッセージになる。それが突き進んでいけば、日本の軍国主義が復活し、他宗教が排除される、ということまでは思わないが、戦前の歴史を考えればその可能性が全くゼロとは言えない。

 靖国に参拝しなければ、中国や韓国は自分たちの言うとおりに日本がした、日本は外圧に屈した、ということで大喜びだろう。今回の判決についても、中国や韓国ではトップニュースで報じたという。そういう光景をみると、無性に腹が立つ。内政干渉も甚だしい。

 だが、そういう感情に押し流されてばかりはいられない。司法府の判断を、行政府の長として、どう受け止めるのか。司法の判断に国会、行政は必ず従わなければならないというわけでもなく、しかも今回は高裁の判断(なおかつ傍論)なので、「無視」という形でもいいのだが…ただ、今回ばかりは、「裁判所もいろいろ、判決もいろいろ…」などと、うやむやにすべきでない。

 小泉さんが、総理大臣の職を退けば、毎日でも参拝すればいい。次期総理と言われている安倍さんにもよくよく考えてほしい。


在外選挙権

2005年09月14日 23時07分11秒 | 

在外邦人の選挙権制限、最高裁が違憲判決

 大法廷、違憲判決が出た。この問題のような投票システムに関わることについては、「立法府の裁量」を理由に、司法判断を避けてきた。今回もそういうことになるのではないかと思っていたが、はっきり「違憲」とした。

 海外に住む有権者は約72万人。在外投票制度はあるが、比例代表の投票に限られている。しかも、投票するためには、煩雑な手続きがあるという。

 政府はこれまで、在外の有権者の投票を制限する理由として、「海外にいては、日本の政治情勢は把握できない。投票するには情報不足である」ということを挙げていた。しかし、これだけインターネットが普及し、海外にいても日本の政治に関する情報を容易に手に入れられる環境がある。

 日本国内にいれば、海外にいるより情報が豊富か、といえばそうとも限らない。海外にいればこそ、日本の政治に高い関心を寄せている人もいるわけだし、外国の政治と比較して、日本の政治はどうあるべきか、そういう視点で投票したい人もいるだろう。そういう貴重な「民意」を拾い上げなければならない。最高裁もそういう点も考慮したのだろう。

 この判決理由について、全文読んだわけではないので安直なことはいえないが、この判決から派生させて、2つのことを考えてみた。

 一つ目は、在日外国人の参政権の問題である。在外の有権者の貴重な意見をも国政に反映させる、つまり、多様性こそ民主主義の根幹とするのなら、日本に永住する在日外国人の意思を反映させることも必要なのではないか。

 二つ目は、直接民主制についてである。海外にいても、日本の国内情勢を容易に把握できる時代になった。こうなればいっそのこと、選挙は全てインターネットで投票できるようにすればいい。投票率ももっと上がるだろう。そして、選挙だけでなく、一つ一つの法案についても、国民に賛成か、反対かをワンクリックで意思表明できるシステムもあっていい。たとえば、「郵政民営化に賛成か、反対か」…いちいち選挙するより、コストもかからないだろう。そうなると、国会議員はもういらなくなる…

 とまぁ、この判決を通じて考えてみたことを雑に書いてみた。


裁判員制度

2005年04月17日 23時52分43秒 | 
刑事裁判「参加したくない」が7割 裁判員制度で調査

 裁判員制度は2009年までに実施される予定である。
(まで、ってことは来年、再来年に始まってもいいんだろうけれど、
この調子じゃあ、2009年からになるだろうな。)
今は、国民に制度を知ってもらう周知期間と言う位置づけである。

 7割が参加したくないというのは、予想される範囲内か、それとも、多いと見るべきか。
どっちにしても、制度が始まるということは知っているが、
実際、どういうものになるのか、具体的な運用の場面をイメージできないのだろう。

 裁判員制度導入の目的は、国民の司法への理解の増進を図る点にある。
だから、まだ制度が始まっていない現時点において、国民の理解が不足していても仕方ない
ともいえるが…。
参加したくない人がこれだけいるってことは、別にこんな制度なくても問題ない、
と思っている人が多いともいえる。

 そもそも、裁判所を民主化させること、裁判所に民意を反映させていくことはことは
必要なのだろうか。
 「こんなひどいことをした奴は厳罰に処すべし」という民意に、
裁判官も呑み込まれてしまった場合、誰が被告人を公正な目で見るのか。
また、「裁判が長い」ということから、迅速性のみを追求すれば
被告人の防御の機会が減り、事件の真理は見えなくなってしまう。
 
 こう考えると、こんな制度はなくてもいいんじゃないかとも思える。
しかし、今の司法と国民の間にある溝は、もっと埋めなければならないし、
埋められると思う。

 裁判員として、裁判に参加することによって、そこで貫かれている正義を
感じることが出来るだろう。例えば、殺人事件の場合、「人を殺した奴は
みんな死刑だ」という単純な結論はとれない。それぞれの事件で
「事実は小説より奇なり」というように、事情が異なる。
殺人犯と言っても、極悪人とも思える人間もいれば、
やむにやまれず殺してしまったという場合もある。たとえば、
尊属殺違憲判決の事件で、実の父に年少時から性的虐待を受け続け、
子どもまで生まされてしまった女性が、ついに耐えられず、父を殺してしまった
ような場合、こういうときにも重罪に処すべきだと言えるのだろうか。

 こういう様々な事件を通じて、そこで実現される正義だとか、公正だとか、
信義だとか…いまどき流行らないようなものを体感できる機会が与えられる。
そういうものを体感すれば、「何か」社会が変わるんじゃないか。
今の殺伐とした時代が変わる、少なくともきっかけになるのではないかと信じる。

 だから、僕は、ぜひとも参加したいと思う。
ただ、裁判員になったときに、仕事、身分保障はどうなるのかといった
運用面での問題はある。それは今後詰めていく必要がある。

名張毒ぶどう酒

2005年04月05日 23時55分43秒 | 
「新たな命いただいた」 「名張毒ぶどう酒」再審決定
「今さら」遺族ら戸惑い 「真実見極めて」怒りの声も

 こういう事件があることをはじめて知った。
改めて自分の教養の低さ、関心の幅の狭さを痛感する。

 被告人の奥西勝氏はもう79歳。
事件発生から44年間、獄中で過ごしている。

 今後、適正な手続を経て、死刑判決が見直される。
人の名誉というものは、人の生命と同じくらい、重要なものである。
たとえ死刑判決が取り消され、釈放されることになったとしても、
過ぎ去った時間は取り返しようのないものである。
しかし、死刑と言う形で人生を終われば、
後世にも死刑囚として、語り継がれることになる。
名誉を回復できるチャンスを活かしてほしい。

 一方、事件の遺族の方々は、「何を今更…」という気持ちのようだ。
それは自然な感情だろう。難しいところだが…

 裁判官も相当な決意を持って再審を決めたと思う。
44年経っても、未だに解決しない事件があるということは、
日本の刑事司法システムに重大な欠陥があるということだ。

 日本では被疑者が逮捕されれば、それで一件落着という感がある
(といっては言いすぎかな)。
逮捕はあくまで被疑者が本当に犯人であるかどうかを取り調べる手段であって、
自白を強要して、犯人を作り出すものではない。
この事件も、そもそもはそういう欠陥が影響している。

 警察官の方々は必死で日本の治安を守るために奔走されている。
けれども、逮捕するということはその人の人生を大きく変えてしまうことでもある。
そういう意識を強く持って臨んでもらいたい。

 死刑判決が取り消されるか否かは、わからないが、
取り消されれば、日本の刑事司法に大きな影響を与えることは言うまでもない。
今後に注目。

自衛軍

2005年04月04日 23時04分22秒 | 
自衛軍明記、集団的自衛権「解釈で」 自民新憲法起草委 (朝日新聞)
「自衛軍」国際平和に寄与 自民、条文化作業へ 新憲法要綱全容固まる (産経新聞)

 憲法改正の問題については以前にも書いた。
詳しく検討するのは、また時間があるときにしたいが、
僕は憲法改正に反対である。改正に絶対に反対というわけではない。
今の状態、つまり、国民的関心が高まらず、いわば国民が置き去りにされた状態で、
国会主導で改正が進むのは、きわめて危険だということだ。

 改正案で、一番のポイントは、
9条2項を全面改正し、「自衛のために自衛軍を保持する」としている点だ。
「自衛軍」って何…?軍隊、自衛隊とは違うの?
この時点で意味不明である。

 さらに、政教分離の緩和、表現の自由の制限、「国防の責務」など…
「責務」って何…?義務と法的効果はどう異なるのか。
さらに意味不明である。

 これは、素人の集団が作ったものなのか… 
それに、自民党新憲法起草委員会とやらの委員長が、森喜朗前首相という時点で、
無性に腹が立つ。平成の大失政の張本人がなぜ、のうのうと出てくるのか…

 憲法学者の中で、憲法改正を主張している人はいない。
憲法は国家権力を制限し、人権を保障する砦である。
実際問題として、国会が主導で改憲作業を行わなければならないのだが、
それには、必ず国民の意思が反映されなければならない。

 もっとも、改正時の国民投票で、「反対」票を投じればそれでいいことだが…

国民一人一人が真剣に考え、それぞれ意見を持たなければならない。 
僕も、改正案等をよく吟味し、考えていきたい。

知る権利とホリエモン

2005年03月28日 21時22分09秒 | 
ライブドア・堀江社長インタビュー 一問一答全文

 今日行われる予定だった、堀江-北尾会談は中止になった。
北尾氏のいう、「大人の解決」とはどういうことなのか、
おそらく、ライブドアにおとなしく引き下がってもらうということ
だと思われるが、どうなるのかな。

 今後どうなるかはともかく、産経新聞の堀江氏のインタビューを読んで、
自分なりに、ホリエモンが目指さんとしていることを理解してみた。
特に、国民の「知る権利」の観点から。

 「知る権利」とは、情報の受け手としての自由である。
それは、表現の自由から導き出される。
表現の自由は本来、自分の意見を表明する自由であるが、
現代社会において、一般庶民が情報は発することがないとされる。
情報の送り手は、専らマスメディアであり、そこから流される
情報を一方的に受け止めるのが、国民となってしまった。
芦部信喜『憲法』163頁

 これまでは、たしかにそうだった。それが悪いと言うわけではない。
しかし、今日、インターネットが急速に発達している。
その中で、一般の国民は単なる情報の受け手ではない。
また、これまでマスメディアから流される情報は、国民に流通するまでに、
送り手の側で、いわば恣意的に情報の取捨選択がなされていた。
我々国民は、その「限られた」情報を受け取って、
それをもとに自分の主張を組み立てるしかなかった。

 しかし、インターネットの登場で、我々の知らない
情報がまだまだたくさんあることを知り、また、
自分が積極的に送り手となりうることを知ったのである。

 つまり、ホリエモンが言わんとしていることは、
「送り手たるメディアは、もっとしっかり情報を流通させよ」
「国民も情報の送り手であることを自覚せよ」
ということだと思う。

 今後、ホリエモンがどうなるかはわからない。
フジテレビ、ソフトバンクといった巨人によって、
結局、踏み潰されることになるかもしれない。

 けれども、ホリエモンのやらんとしていることは、
企業買収に対する日本企業への警鐘にとどまらず、
テレビ、新聞を含めたあらゆるマスメディアに対し、
強烈な問題提起を投げつけているのである。

 ホリエモンを過大評価しすぎているようにも思えるが。

尊厳死

2005年03月24日 01時15分00秒 | 
米議会、尊厳死を阻止 司法に異例の「介入」

 今、アメリカで大論争となっているらしい。
日本でも議論となって久しく、非常に難しい問題である。

 「尊厳死」は憲法13条から導かれる自己決定権の問題である。
「死ぬ」ということが権利として認められるのか。
自己決定権というのは、簡単に言えば、自分の生き方は自分で決めるということ。
最高裁の判例では、エホバの証人の事件で、輸血の拒否が自己決定権として認められた。

 私は、尊厳死を自己決定権として認めていいと思う。
人間は必ず死ぬ。自分の人生をいつ、どのように終えるか、
それを決めるのも、その人の人生である。

 昨年の大河ドラマ『新撰組』の終盤で、勝海舟のセリフの中に、
「大事なのは、どう死ぬかではなく、どう生きるかだ」というのがあった。
そう考えると、死ぬ時は自然に肉体が果てるのを待つべきだとも考えられるが、
尊厳死と言うのは、「尊厳生」でもある。

 もっとも、これはその人の人生観、人生哲学が大きく影響することだから、
いろんな考え方があってしかるべきところである。

 では、尊厳死を望む場合はどうすればよいだろうか。
考えられる方法としては、脳死後の臓器提供と同様、
前もって、尊厳死の意思を明らかにしておく必要がある。 
日頃から家族の間で、意思表示しておくことが大事だ。

 今回のアメリカでの事例も、患者の夫と、患者の両親が
尊厳死の意思をめぐって骨肉の争いのようになっている。
行政がその意思を担保する制度も考えられる。
まぁそれでも、実際、家族の死に直面した時には、
「まだ生きる望みがあるなら…」と思うのが自然だろうなぁ。

 それから、この問題でもう一点注目することのがある。
議会が裁判所の判断に介入していることだ。
ブッシュ大統領は、宗教的右派、キリスト原理主義者とでも言うべきか。
「人の命は神によって与えられたもの」であるから、人工中絶は絶対反対。
今回の尊厳死の問題も、「彼女には生きる権利がある」として、
尊厳死を認めた裁判所の判断に対抗するべく、法律を成立させた。
それは、三権分立に反し、やりすぎだ。

 人生設計の締めくくりを、元気なうちに考えてみよう。
※参考までに→日本尊厳死協会HP

事実の錯誤

2005年03月19日 22時50分00秒 | 
胸、腹刺し「間違えた。すまん」殺人未遂容疑 組幹部ら逮捕 福岡県警

 こんなことが実際あるんだなぁ。
刑法の総論のところで論点となる、具体的事実の錯誤のうち、客体の錯誤にあたる事例。
具体的事実の錯誤とは、
①Aを殺そうと思って、実行に移したところ、その被害者は実はBだったという場合(客体の錯誤)
②Aに向かって拳銃を発砲したところ、Aにはかすっただけで、Aの隣にいたBに当たってしまったという場合(方法の錯誤)

②の場合では、具体的符号説、抽象的符号説、法定的符号説で結論が異なってくる。

 まぁ、今回の事例は①なので、どの説によっても結論は殺人未遂罪。
具体的符号説からは、Aに対する故意しかないので、Bとの関係では犯罪不成立となるという
不合理な結果になってしまうが、具体的符号説からも、この場合は殺人未遂。
そりゃ、「間違えた。ごめん」では済まされへんわ。
この点は、具体的符号説が批判されるところである。

 自分の持っている刑法の浅はかな知識をひけらかしてしまった…
でも、実際こういう事件が起きると、生きた教材になるし、
自分の知識を整理するという点では、意味があると思う。
法学部生なら、共感していただけるはず…

 法律を学ぶ時は、教科書を読むだけでは机上の空論になるから、
「それぞれの当事者の立場に立って」考えることが大事だと、
特に民法なんかではよく言われるが、それでも、限界がある。
一番手っ取り早い方法は、自分自身が当事者になるのが一番いい。
例えば、本を間違えて買って、錯誤無効を主張してみたり、
無権代理人として他人の土地を売買してみたり…下手したら犯罪やな。

 こういうことを積み重ねていけば、自然と法律が身につくのではないかな。
時間とお金がどんだけ必要かわからないけれど。
隠居されて時間的、経済的に余裕がある方で、憲法訴訟とかやってもらえないだろうか、
と前から思っている。できれば最高裁までがんばっていってほしい。
憲法訴訟が少ないので。

 もっとも、刑法の当事者にはなってはいけない…間違っても。

外国人の人権

2005年03月17日 18時30分55秒 | 
 このポストで、ちょうど100件…まぁ、何の記念というわけではないけど。
以前からあたためていた、ちょっと長めのものをポストする。
(あんまり長いのは自分で書いてても、読む気しないけれど…)


 竹島問題でゆれている中で、こういう問題を考えるとバランス感覚を逸してしまいそうになるが、
竹島の問題と、外国人の参政権については別である。


 だいぶ前のことになってしまったが、1月26日、最高裁大法廷判決が出た。
事件は、東京都の保健師に採用された在日韓国人二世の女性が管理職試験を受けることができず、都に受験資格の確認と損害賠償を求めたものである。
 争点は外国人の公務就任権、要するに、日本国籍を持たない外国人は公務員(特に
管理職)になれるのか、ということである。

 従来、日本の判例・通説は権利性質説をとってきた。つまり簡単に言うと、国民主権原理からして、日本人のことは日本人だけで決める、外国人が日本の国政に関わることは許されないとし、外国人の参政権などは制限されてきた。
 平成7年の最高裁判決では外国人に地方レベルでは特別永住者には参政権を認めてもよいということを判示したが、国政レベルでは依然、国民主権原理からの制約が認められた。
 今回の判決もこの路線からもれることなく、国民主権原理からの当然の帰結として、
外国人の公務就任権が否定された。

 産経新聞はこの判決を「極めて常識的」な判決として歓迎した。
国籍条項訴訟 常識にかなった合憲判決 <産経新聞>

 しかし、僕はどうも納得いかない。生まれてこのかた、産経新聞を読んで育っているが、
この主張のように単純に割り切れるものなのか、疑問である。
 産経新聞批判を展開するつもりはなく、外国人、特に永住外国人の人権について改めて考えてみたい。

 まず、権利性質説の論拠は、人権が前国家的なものであること、憲法が国際協調主義を採用していることから、外国人にあらゆる人権を日本人と同様に保障することはできないが、国民主権原理に反しない程度で保障するということである。

 人権が前国家的なものであるということは、国家という存在以前に、人間が人間であるがゆえに人権が保障されるということである。そうであるなら、外国人も人間である以上、当然にあらゆる人権が保障されることになるのではないか。
 
 また、憲法が国際協調主義を採用していることも、権利性質説の論拠であるが、日本は国際人権規約を批准している。B規約の第二十五条は、
「すべての市民は、第二条に規定するいかなる差別もなく、かつ、不合理な制限なしに、次のことを行う権利及び機会を有する。

(a) 直接に、又は自由に選んだ代表者を通じて、政治に参与すること。
(b) 普通かつ平等の選挙権に基づき秘密投票により行われ、選挙人の意思の自由な表明を保障する真正な定期的選挙において、投票し及び選挙されること。
(c) 一般的な平等条件の下で自国の公務に携わること。 」

 以上のことからして、国民主権原理からの当然の帰結というだけで、在日朝鮮人の
人権制約が正当化されるものではない。それに、在日朝鮮人は参政権はないけれども、
消費税や住民税は負担している。つまり、権利はないけれど、国民としての義務は
負っているわけである。このことを国民主権原理からどう説明するのか。

 また、平成7年の判決では、外国人の中でも特別永住者について、参政権を付与する
ことは憲法に反するものではないという許容説を採った。地方自治は「民主主義の学校」
である。いわば地方自治の積み重ねが、国政なのである。では、地方レベルならOKで、
国政レベルとなるとダメだという理由はどこにあるのか。

 よって、私は在日朝鮮人・韓国人にも、参政権(被選挙権・選挙権・公務就任権)を保障すべきであると考える。産経新聞などは特別永住者をどういう人たちだと考えているのだろうか。
北朝鮮工作員などを想定しているとしか思えない。
在日朝鮮人といえど、日本人となんら変わることなく、この日本と言う地で暮らしている。
もちろん、その中に本国から送り込まれてきた工作員がいるかもしれない。
そして、もし、在日朝鮮人に参政権が認められていると、本国の指示で工作員が
たとえば衆議院議員に立候補できてしまうではないか、という危惧もある。
しかし、選挙に立候補できたとしても、その工作員が実際に当選できるとは言えないし、
もし当選したなら、それには民主的な正当性があるのである。
在日朝鮮人の人でも、国政を任せようという意志の表明だと考えられる。
工作員に国政を乗っ取られたら、それは日本の民主主義が軟弱だということだ。

 民主主義は多様性を前提とする。たとえば、アメリカでは大統領に立候補するには、
①アメリカ生まれ、②14年以上アメリカに在住、③現在35歳以上という条件さえクリアすればよい。もちろん、実際に大統領になれるかは別問題である。
「アメリカがそうだから、日本でもそうしろ」というのではない。
私は、日本人という国籍を有する人だけでなく、在日朝鮮人・韓国人の意思も国政に反映させることによって、多様な意思が反映され、真の民主主義が実現すると確信しているのである。