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南英世の 「くろねこ日記」

徒然なるままに、思いついたことを投稿します。

飾り棚

2020年07月31日 | 日常の風景
 捨てる予定だった本棚を飾り棚としてリビングに置いてみたところ、思いのほかしっくり落ち着いて見える。
何を飾るか?
考えた末に、私の人生の思い出を詰め込むことにした。
妻との結婚、スキーに没頭した20代、仕事と子育てに忙殺された30代、40代、そして本と教科書執筆に没頭した50代、60代。

セピア色の地球儀は20年以上前に買ったものだが、非実用的なだけにこれまではどちらかと言えば邪魔者だった。
しかし、こうして飾ってみるとなかなかいい雰囲気である。
ようやく本来の場所を得たか。

趣味にしている囲碁の免状は、ここでは飾る場所がない。
そこで、森野先生(関西棋院9段)からいただいた扇子をステレオの上に飾ってみた。
この扇子は3子の指導碁で初めて勝たせてもらった時、その記念としていただいたものである。

60代も残すところあと半年になった。
人生、夢幻の如しと改めて思う。





エレクトーンを買う

2020年07月30日 | 日常の風景
 今年で69歳になる。私の職業人生ももうそんなに長くはない。そろそろシュウカツに取り掛かってもいい時期になってきた。
仕事が趣味みたいになって久しい。
仕事がなくなったら一気にボケるのではないか。
完全に引退したら何を生きがいにしようか?

そんなときふと思ったのが、若いころちょっとかじったエレクトーンを再開することだった。
音楽のある人生もまた楽しいではないか。
エレクトーンで「情熱大陸」を演奏したらきっと楽しいだろうなあ。
そう思ったらもうエレクトーンを買いたいという衝動を抑えることができなくなった。
そうだ、エレクトーンを買おう!

しかし、置く場所がない。
家族もみんな反対する・・・

本箱を一つ処分すれば、何とか書斎に置くことができそうだ。そうすれば家族に迷惑はかからない。
というわけで、5回目の本の大処分を行なうことにした。


(2020年7月の処分)


かくしてようやく、置く場所を確保した。






本当は本棚も処分するつもりでいたのだが、この本棚は、かつて娘のために買った思い入れのある本棚ということで妻が猛反対をする。そこで、本棚をリビングの飾り棚として再利用することにして、ついでにリビングの大改造も行なった。



うん、なかなかいい感じだ。
反対していた妻には、北海道旅行をプレゼントすることで買収に成功(笑)。
かくして、待望のエレクトーンを購入。


本を棄てる

2020年07月30日 | 日常の風景
 若い時から本に囲まれて仕事をすることが夢だった。だから、戸建ての家を買った時も、今のマンションに移った時も、書斎には天井まで届く本棚を作った。


(戸建てに住んでいたころの書斎)


しかし、収納には限界がある。だからこれまでに何度も大量の本を処分せざるを得なかった。本は全部読んで線を引いてある。だから売ることもできない。もったいないがゴミとして捨てるしかない。


(2005年の処分)

2014年には廊下に新しい本棚を作った。これで十分なスペースは確保できたはずだった。


それでも本は増え続け、処分は続いた。

(2014年の処分)

(2017年の処分)



(2019年の処分)


最近は、本を買っても汚さないように読み、メルカリで売ることが多くなった。
7月だけで20冊近く売れた。
便利な世の中になった半面、ますます新刊本が売れない時代になってきたともいえる。









財政政策に対する考え方の変化

2020年07月17日 | 日常の風景

 白川方明前日銀総裁(任期2008年~2013年)の著書『中央銀行』を読んだ。自身の軌跡をたどり、中央銀行の本質を再考した全758ページにおよぶ大作である。日銀の独立性の問題、統合政府という概念、非伝統的な金融政策の評価など、慎重な言い回しながら有益な記述が随所に見られた。

興味深かったのは、財政政策に対する考え方が、この30年ほどの間に変化してきたというくだりである。
バブルが崩壊して29年。
崩壊直後は伝統的なケインズ的財政政策が採用された。
しかし、2000年代以降はケインズ的な財政政策を本格的に採用することは少なくなっていったという。
理由は二つある。
第一に、財政赤字が巨額に上り、ケインズ的な財政政策を許さないほど厳しくなったことである。
第二に、財政政策の乗数効果が小さいという実証研究などから、経済学界の考え方が変化したことである。

その結果、マクロ経済の安定化はもっぱら金融政策の役割とされるようになった。
とくに安倍政権が誕生した2012年以降は、日銀総裁を白から黒にすげ替え、金融緩和政策を実行し、ついには非伝統的な金融政策を推し進めるまでになった。

では、非伝統的な金融政策の効果はどうだったのだろうか?
白川は、「非伝統的金融政策が実体経済に与えた効果はかなり限定的であった」と述べる(p606)。
さらに、「非伝統的金融政策の効果とコストのうち、コストや副作用は時間をかけて顕在化する」とも述べている。

黒田総裁をはじめリフレ派と呼ばれる人たちは、2%のインフレを引き起こし、現金を持っていると損をする状況を作り出し、それにより消費と投資を増加させようとした。ところが、インフレは生ぜず、いくら買いオペをやっても日銀の当座預金に「ブタ積み」されるばかりで、その金額は427兆円(2020年6月)に達している。

業を煮やしてマイナス金利という課徴金を課してみたものの、銀行の収益を圧迫するばかりで、ブタ積みされた預金は一向に減らない。日銀はマネタリーベース(現金+日銀当座預金)は操作できても、マネー・ストックまでは操作できないことをくしくも実証した形である。

白川はこの後副作用がどういう形で表れてくるのかまでは言及していない。日本経済はフロントガラスが曇ったまま自動車が前に突き進んでいく姿に似ている。さて、この後どうなるのか。経済は最高に面白いドラマである。

藤井フィーバー

2020年07月17日 | 日常の風景
 家から歩いて5分くらいのところに将棋会館がある。昨日、ここで棋聖戦が行なわれた。
29連勝したときはたくさんの報道関係者や中継車でごった返していたのだが、昨日はそんなことはなかった。
もはや、タイトルを取ってもそれほど大騒ぎするほどのことではないという証なのだろう。

それにしても見事なものだ。
私は将棋は全く分からない。
でも、囲碁も将棋も勝負師の世界は同じだ。
冷静さと同時にものすごい精神力も持っているのだろう。
囲碁や将棋もある種のスポーツに近いものがある。
だから、最後にものをいうのは精神力である。
藤井棋聖にはもっともっと活躍してほしいと思う。
それと同時に、将棋や囲碁を楽しむ人がもっと増えてほしいとも思う。

囲碁人口はかつては1000万人と言われた。
それが今では、300万人を割っているとも聞く。
忙しすぎてゆとりを失ってしまったのかもしれない。
近隣付き合いがなくなり、対局する相手が周りにいなくなったのかもしれない。

中国ドラマを見ていると、どの時代のドラマにも必ず囲碁を打っている場面が登場する。
忙中閑あり。
職場でも囲碁を楽しむくらいのゆとりがあってほしいと思う。

社会主義というライバルの崩壊

2020年07月15日 | 日常の風景
 先日の高校3年生に出した中間考査の論文問題は次のような内容だった。

「政治学や経済学の目的は、なるべく多くの人が幸せに暮らせる社会を実現することである。産業革命以降、私たちの社会はどのように発展してきたか。スミス、マルクス、ケインズを中心に、政治・経済両面から論ぜよ」(配点50点、字数制限なし)

今までもスミス・マルクス・ケインズについて説明せよという問題は何回も出したことがある。しかし、今回は『政治・経済両面から論ぜよ」として、さらにグレードアップして出してみた。私の人生の中で最もハイレベルの出題であるといっていい。

市民革命、国家からの自由、自由権、アダムスミスの自由放任主義、小さな政府、資本主義の発展と弊害、マルクスと社会主義、社会権、世界恐慌、ケインズの有効需要の原理、修正資本主義、大きな政府・・・、こういったキーワードを適切に使って説明できているかどうかで採点をする。

一般に、生徒は政治学分野と経済学分野を切り離して勉強している。しかし、本来両者はコインの表裏の関係にあり、切っても切れない関係にある。両者を統合して初めて歴史のダイナミックな動きを理解することができる。
 残念ながら、私の出題意図を察した答案はほぼ皆無であった。たぶん、私の教え方がまずかったのだろう。答案を返した後で丁寧に解説をした。上の教科書の図も、政治・経済両面から説明したものに書き換える必要があるかもしれない。

ところで、1991年にソ連が崩壊して資本主義対社会主義の対決に決着がつき、その後29年が過ぎた。社会主義が崩壊したことの意味を問う本はまだほとんど見かけないが、そろそろ、社会主義というライバルが消えた後の資本主義という視点からの分析が出てきてもおかしくはない。

一般に、ライバルが存在し両者の間に競争が起きれば、双方にとっていい結果をもたらすことが多い。19世紀までの資本主義が20世紀になって修正資本主義に脱皮できたのは、ひとえに社会主義という良きライバルがいたからだと考えても間違いではなかろう。ひょっとしたら、「社会権」という概念そのものも社会主義というライバルがいたからこそ誕生したのかもしれない。

ところが、その社会主義が崩壊してしまった。その結果、一人残された資本主義は再び牙をむきだした。競争・競争・競争・・・。あらゆるところに競争原理が持ち込まれ、すべての結果が「自己責任」に帰される。給料が上がらないのは自己責任、失業するのも自己責任、野宿するのも自己責任。勝ち組と負け組が生まれ、貧富の差が少しずつ拡大している。

いま、働き方改革が進められている。なんのことはない、経営者側に都合のいい労働環境を作ろとしているだけではないのか。なぜ「働きすぎ改革」をやらないのか。グローバル競争が展開される中で、労働者はますますゆとりを失っている。時計が逆回転を始め、時代は確実に19世紀に向かっている。

最近、書店でマルクス関係の本をたくさん見かけるようになった。さもありなん。歴史は振り子のように右へ行ったり左へ行ったりしている。


MMT

2020年07月12日 | 日常の風景

 
 2018年ごろからMMT(Modern Monetary Theory または Modern Money Theory )、すなわち「現代貨幣理論」が注目されている。
この理論に対する賛否は専門家の間でもわかれており、今のところこの理論を支持するのは少数派である。

主流派経済学と根本的に異なるのは2点ある。
第一に貨幣に対する定義の違いである。
主流派経済学は、物々交換 → 金・銀 → 金と交換できる兌換紙幣 → そして現在の紙幣(=不換紙幣) といういわゆる「商品貨幣論」を展開する。
 一方、MMTは貨幣に対する見方を根本的に再定義する。すなわち、「お札という紙切れに通貨としての価値があるのは、その紙きれで税金が払えるから」であり、「政府は無から貨幣を創造でき、一定の条件の下でほぼ無限に発行できる」とする。

その結果、第二の政策面での違いが生じる。
主流派経済学は「基本的に財政赤字は好ましくない」「財政規律を守れ」と説くのに対して、MMTは「インフレを起こさない限り、財政赤字など気にする必要はなく、景気対策として積極的な財政政策を行なうべきだ」とする。れいわ新選組の山本太郎氏の経済政策のよりどころになっているのはこのMMTである。

MMTと主流派経済学を次のように比較する学者もいる。

出所『MMTの教科書』真壁昭夫(法政大学教授)



 国債を国内で消化している限り問題はない。それは「身持ちの悪い亭主の借金を、奥さんのへそくりで穴埋めしている」ようなものだ。そういう理屈は以前からあった。MMTはそうした論理とも近い。

主流派の多くの人はMMTは暴論だと考えている。少なくとも長く続けることができない。そもそも財政を借金で賄えるという理論が正しいなら、「無税国家」が成立してもおかしくはない。しかし、そんな国家が存在したためしはない。借金はいつかは返さなければならなないのだ。だから、MMTは「らいはっといへん」理論だと揶揄されるのである。

そして、もう一つ確実に言えることは、1000兆円を超える国の借金はどうあがいても「まともには返せない」ということである。MMT論者は、インフレはコントロールできると言っているが、結局はハイパーインフレになって、MMTは消えていく運命にあると私は見ている。

(追加資料)

MMTは何が間違いなのか? - 南英世の 「くろねこ日記」 (goo.ne.jp)

 

 


世界一の金持ち? 日本 (再掲)

2020年07月12日 | 日常の風景
(財務省資料)


 外国為替市場で円は「安全資産」とされる。1000兆円もの財政の借金を抱える日本円が何故「安全資産」なのか。その根拠とされるのが世界一と言われる「対外純資産」である。大雑把に言って、現在日本は海外に1000兆円の資産を持っている。反対に外国人が日本に650兆円の資産を持っているから、その差額約350兆円が日本の対外純純資産というわけである。いざとなれば海外にあるこの350兆円の資産をすべて引き上げることもできるはず。だから円は「安全資産」だというのである。

分かりやすく言えば、対外純資産とはこれまで日本が輸出で稼いできた「儲け」のことである。戦後日本は輸出主導型の経済政策をとり、毎年巨額の貿易黒字を続けてきた。通常、国際取引の決済はドルで行なわれる。だから、黒字もすべてドルで貯まる。そうして積もり積もった対外純資産が3兆ドルというわけである。341兆円というのは、財務省が円換算しただけであり、実際には外貨で日本の誰かが所有していることになる。

貿易で稼いだ「儲け」をどのように使うか。二通りある。
一つは、対外資産としてのドルを円に交換して国内に還流させ、日本の生活を豊かにするという使い方である。トヨタ自動車が稼いだドルを円に交換し、従業員の給料に充てるというイメージである。しかし、残念ながらこうした使い方はできない。なぜなら、3兆ドルものドル資産を売りに出せば、ドルは暴落する。アメリカがそんなことを許すはずがない。

1997年6月23日、当時の橋本龍太郎首相が「米国債を売りたい衝動に駆られることがある」と発言した。その結果、アメリカの株価は急落した。「もし売るようなことがあれば米国への宣戦布告とみなすと脅された」とも言われる。これではせっかくの「お宝」も「宝の持ち腐れ」である。

せっかくの「お宝」を売れないとすればどうするか。少しでも利益を稼げるように運用するしかない。そこで、日本が稼いだドルをアメリカへの投資(直接投資や証券投資など)で運用する。こうして貿易黒字国が貿易赤字国に投資することによって、国際経済は円滑に回る。すなわち、世界の貿易は全体としてみれば黒字額と赤字額は相殺されてゼロになる。上の資料にあるようにアメリカの対外純資産は-1076兆円、すなわち10兆ドルの赤字である。それでも経済活動が円滑に行なわれているのは、黒字国が赤字国に投資をしているからである。


では、対外純資産を積み上げるとは、そもそも何を意味するのだろうか。為替レートはかつて1ドル=360円だったが、今では1ドル≒108円である。円高になれば輸出はしにくくなる。それでも貿易黒字を達成するために、日本企業は生産コストを下げて、円高でも利益が出るように乾いたぞうきんを絞るような努力を続けてきた。残業代もまともに払わず、非正規雇用を増やして賃金を低く抑えてきたのだ。何のことはない。日本人は国民生活を犠牲にして対外純資産を積み上げてきたのである。

その結果、日本は世界一の金持ち!
笑わせるではない。お金は使えるからこそ豊かさを実感できるのである。使えもしないお金をいくら持っていても、金持ちとは言えまい。一生引き出せない定期預金をいくらたくさん持っていても、国民の生活は豊かにはならない。

マクロ経済学の基本公式で示せば

 GDP=C(消費)+I(投資)+G(政府支出)+EX(純輸出)

において、EXが増えてGDPが増えたとしても、国民の生活は豊かにはならない。むしろ、EXを増やすために国民が低賃金で働かされ、それが消費に悪影響を及ぼす可能性のほうが大きい。GDPを増やすのは国民を豊かにするためであり、国民を犠牲にしてGDPを増やすというのは本末転倒である。

企業の内部留保は400兆円ともいわれる。そのうち対外資産がどのくらいあるのか知らないが、この際、対外資産を2兆ドル分くらい売却して、それを従業員の給料に回したらどうか。1ドル=50円くらいになれば貿易は赤字になるかもしれない。しかし、その分消費は大幅に増えるはずである。国が亡びるとき自国の通貨は暴落するが、自国の通貨価値が上がって滅びた国はない。暴論だよね(笑)。

(追記)
 為替市場では、世界経済が不安定になると「安全資産」である円が買われる。確かに対外純資産で見れば、2位の中国(含む香港)は通貨に対外交換性がないし、3位のドイツはユーロ圏自体が危機の震源になりうる。そんなことを考えれば、相対的には円が安全資産ということになるのかもしれない。
 しかし、これには長い間疑問を抱いていた。最近読んだ記事の中に、円は安全資産として買われているのではなく、米国に投資している日本の機関投資家が投資を縮小し、資金を日本円に戻すために円買いを行なう結果円高が生じているのだと書いてあった。なるほど。これなら納得できないこともない。

(この文章は2019年7月に投稿したものです。なかなか良く書けていると思うので(笑)一部修正して再掲しました。)

歴史教育で学ぶべきこと

2020年07月10日 | 日常の風景

 学問というのは感動することが出発点だと思う。歴史の勉強も同じではないか。
しかし、私自身の体験を振り返って、歴史の授業を受けて感動したという覚えは、少なくとも高校時代には全くない。世界史の先生の「知識量」に感心することはあっても、分析の鋭さに感動した覚えはない。

そうした感動は、大学で習ったことの中にはあった。
一つは、慶応で西洋史を受講していた時である。先生がルネサンスを説明する際に、ギリシャ文化、中世、ルネサンスを漢字三文字で表せば「生」「死」「再生」だと言われた。
それまで「文芸復興」などと聞いても今ひとつピンとこなかったのに、この一言でスっと腹落ちした。ヨーロッパ2000年の歴史をったった三文字で表現できることに感動した。このことを教えてくださった先生(名前は忘れた)には今も感謝しかない。

もう一つは、阪大の竹中先生(西洋史)が講演の中でさらりといわれた言葉である。
「ドイツという国は、歴史上存在しないことのほうが普通なんです」。
これも衝撃的な一言だった。あの大国ドイツは存在しないことのほうが普通だったとは・・・。しかし、この言葉を聞いてから19世紀・20世紀のヨーロッパ世界が良くわかるようになった。

今の高校の歴史教育(とくに進学校)は細かいことばかり教えていて、生徒を感動させることがない。いや、感動させようという発想がない。もっと骨太の本質的なことを教えてはどうか。







スペシャリストとジェネラリスト

2020年07月06日 | 日常の風景
 昔、就職試験で日銀を受けた。そのとき面接で聞かれた質問の一つが「あなたはスペシャリストになりたいですか、それともジェネラリストになりたいですか?」というものだった。私は迷うことなく「スペシャリスト」と答えた。
結果は不合格だった。むこうが求めていたのはジェネラリストだったようだ。もちろん、それだけが不合格の理由ではないだろうが・・・

日本がアメリカをモデルに経済成長を目指していたころ、社会が求めていたのはジェネラリストだった。なんでもそつなくこなし、協調性があってチームとして共通の目的に貢献する。そんな人間を時代が必要としていた。東大はそういう人材を育成する頂点であり、大学入試も共通一次試験・センター試験などがジェネラリストを養成するための手段として有効に機能していた。

しかし、時代は変わった。
いま日本に求められているのはスペシャリストである。今風に言えば「尖った人間」である。
日本が先進国アメリカに追いつき、モデルとするお手本がなくなった今、日本は独自の技術開発を迫られている。

しかし、日本の教育システムは旧態依然としていて、一向に変わる気配がない。
今年度から「共通テスト」が実施されるが、それとて今まで実施されてきたセンター試験と本質的に変わるところはない。

高校生のときに習った漢文の中に、孟嘗君の話があったのを思い出す。中国の戦国時代に活躍した政治家である。彼は一芸に秀でた食客3000人を集めていた。秦の宰相となった孟嘗君は、あるとき秦王の昭襄王から命を狙われ、秦からの脱出を試みる。夜中に国境の函谷関までたどり着くが、函谷関は夜間は閉じられており、朝になって鶏の声がするまでは開かないという。

そこで、物まねのうまい食客が「コケコッコー」と鳴きまねをしたところ、それにつられて鶏も一斉に鳴きだし、門が開けられ無事脱出できたという。つまらないことでも一芸に秀でた人間を大切にしてきたおかげで、窮地を脱したというわけである。

人間にはいろんな才能がある。
100メートル走るのが得意な人、42キロ走るのが得意な人、どちらも苦手な人・・・
おそらく、社会の大半の人はジェネラリストを目指したほうが無難であろう。しかし、中にはスペシャリストを目指したほうが向いている人もいる。

スポーツの世界ではジェネラリストは通用しない。陸上競技、野球、サッカー、テニス、相撲、水泳など、細分化されたスペシャリストでないと生き残れない。それなのに、勉強の世界ではいまだにスペシャリストは大学入試の段階ではじき飛ばされてしまう。

どの科目もまんべんなく点数を取ることができないと大学入試を突破できない社会っておかしくないだろうか。18歳のときの偏差値が、その後の人生を決めてしまう社会っておかしくないだろうか。
もう少し人間の多様性(=diversity)を大切にする社会であってほしいと思う。

大学のグローバル化

2020年07月04日 | 日常の風景
 今回のコロナ騒動で大学の9月入学問題が急浮上し、結局はしぼんでしまった。残念なことである。
いま日本の大学の4割が定員割れを起こし、これからの大学は斜陽産業だといわれている。特に地方の大学は厳しいといわれている。

しかし、ものは考えようである。
広く世界に目を向ければ、世界の人口は増え続けている。
日本の大学で学びたいと考えている外国の若者も多いはずである。日本の学問水準は決して低くはない。

問題は言葉の壁であろう。
大学の講義が日本語で行なわれている限り、留学生には言葉の壁が立ちはだかる。
いっそのこと、大学の講義を全部英語にしてしまってはどうか。
そうすれば、世界から留学生を呼び込める。

教員も日本人である必要はない。世界から優秀な人材を集めてくればよい。
英語で講義ができない教員や、英語の授業についてこれない学生には早々にお引き取り願う。
語学なんて必要に迫られないと身につかない。
必要に迫られれば、いやでも身につけますよ。

日本の大学をグローバル競争にさらせば、日本の教育は確実にレベルアップする。
いまの日本の大学は、偏差値による人間の格付け機関に成り下がっている。
日本の中だけで通用する偏差値など意味がない。

もちろん、明日からこんなことをやれと言っても無理なことは承知している。
しかし、方向としては間違ってはいないのではないか。
必要に迫られれば、教員も学生も必死になって英語をモノにするであろう。

かつて日本の囲碁は中国や韓国よりはるかに強かった。
しかし、残念だが、今では中国・韓国の後塵を拝している。
もし、本気で日本の囲碁界を活性化させたいなら、棋聖戦も名人戦もすべて国際棋戦とし、外国人も参加自由にすればいい。
国内だけで競っているからなかなか強くならないのではないか。

経済界がグローバル競争にさらされて既に久しい。
日本はヒトだけが唯一の資源である。
大学をグローバル競争にさらし、優秀な人材を育成して経済界に送り込めば、日本はまだまだ捨てたものではないと思うのだが。


暴論だろうか・・・

オンライン授業

2020年07月03日 | 日常の風景

  私はオンライン教育はうまくいかないと思っている。いわゆる「ここだけの話」ができないからである。そもそも教育というのは学習内容と同時に、その先生から出てくる人間臭さ・生き方みたいなものがものすごく大切である。それは、教える側と教えられる側の信頼関係があって初めて可能になる。

しかし、 誰が見ているかわからないオンライン授業では、危なっかしくてそういう授業はできない。とくに政治や経済の「きわどい」「面白い」話は、公開のオンラインでは難しい。点数を取らせるだけの知識を与えることはできるかもしれないが、それが本当の教育と言えるかどうか。

たとえ休校になっても、「学力保障はしましたよ」と行政が言いたがるのはわかるけど。