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南英世の 「くろねこ日記」

スペシャリストとジェネラリスト

 昔、就職試験で日銀を受けた。そのとき面接で聞かれた質問の一つが「あなたはスペシャリストになりたいですか、それともジェネラリストになりたいですか?」というものだった。私は迷うことなく「スペシャリスト」と答えた。
結果は不合格だった。むこうが求めていたのはジェネラリストだったようだ。もちろん、それだけが不合格の理由ではないだろうが・・・

日本がアメリカをモデルに経済成長を目指していたころ、社会が求めていたのはジェネラリストだった。なんでもそつなくこなし、協調性があってチームとして共通の目的に貢献する。そんな人間を時代が必要としていた。東大はそういう人材を育成する頂点であり、大学入試も共通一次試験・センター試験などがジェネラリストを養成するための手段として有効に機能していた。

しかし、時代は変わった。
いま日本に求められているのはスペシャリストである。今風に言えば「尖った人間」である。
日本が先進国アメリカに追いつき、モデルとするお手本がなくなった今、日本は独自の技術開発を迫られている。

しかし、日本の教育システムは旧態依然としていて、一向に変わる気配がない。
今年度から「共通テスト」が実施されるが、それとて今まで実施されてきたセンター試験と本質的に変わるところはない。

高校生のときに習った漢文の中に、孟嘗君の話があったのを思い出す。中国の戦国時代に活躍した政治家である。彼は一芸に秀でた食客3000人を集めていた。秦の宰相となった孟嘗君は、あるとき秦王の昭襄王から命を狙われ、秦からの脱出を試みる。夜中に国境の函谷関までたどり着くが、函谷関は夜間は閉じられており、朝になって鶏の声がするまでは開かないという。

そこで、物まねのうまい食客が「コケコッコー」と鳴きまねをしたところ、それにつられて鶏も一斉に鳴きだし、門が開けられ無事脱出できたという。つまらないことでも一芸に秀でた人間を大切にしてきたおかげで、窮地を脱したというわけである。

人間にはいろんな才能がある。
100メートル走るのが得意な人、42キロ走るのが得意な人、どちらも苦手な人・・・
おそらく、社会の大半の人はジェネラリストを目指したほうが無難であろう。しかし、中にはスペシャリストを目指したほうが向いている人もいる。

スポーツの世界ではジェネラリストは通用しない。陸上競技、野球、サッカー、テニス、相撲、水泳など、細分化されたスペシャリストでないと生き残れない。それなのに、勉強の世界ではいまだにスペシャリストは大学入試の段階ではじき飛ばされてしまう。

どの科目もまんべんなく点数を取ることができないと大学入試を突破できない社会っておかしくないだろうか。18歳のときの偏差値が、その後の人生を決めてしまう社会っておかしくないだろうか。
もう少し人間の多様性(=diversity)を大切にする社会であってほしいと思う。
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