Benedeictus Iesus in sanctissimo altaris Sacramento.

いと尊き聖体の秘蹟に在し給うイエズスは、賛美せられさせ給え。

ありがとう・・・。Pope

2013-03-01 00:09:03 | FIDEI
ありがとうございました。・・ベネディクト16世!神の代理者としての役務に感謝いたします。
地上の戦闘教会でのかくも困難な状況の中、2007.7.7を忘れません。SUMMORUM PONTIFICUMによってペトロの固い岩盤の要の奥義との連続性は担保されました。
ペトロの岩盤は続きます。危うくも負けません。イエズス・キリストの唯一の教会、聖、普遍、使徒継承の公教会。霊魂の救いのためにイエズス・キリスト御自身がペトロの岩盤の上に建てられた教会は続きます。教会の目的は霊魂の救いです。目的からも実質からも、教会の神秘体(ミサ聖祭と御聖体)の信仰を構成している核に留まる限り不滅です。

・・・聖ペトロの後継者、ローマ司教、母なる唯一の教会の頭、地上におけるイエズス・キリストの代理者の選出のために・・・

(マテオ16.13-19)「あなたはペトロである。私はこの岩の上に、私の教会を建てよう。地獄の門は、これに勝ち得ないであろう。私は、あなたに天の国の鍵を与えよう。」・・・アメン。


SUMMORUM PONTIFICUM (ROME)



第4ラテラン公会議1215年月11日~30日

800~802第1章 カトリックの信仰について

800 我々は次のことを固く信じ、はっきりと宣言する。唯一の真の神、永遠、無限、不変、理解できない、全能、言い表すことができないもの、父と子と聖霊を。位格は三位であるが、本質、実体、本性は全く単純で唯一であることを。父は誰からも生まれず、子は父だけから、聖霊は父と子から、始めなく、終りなく、常に存在する。父は生み、子は生まれ、聖霊は発出する。父と子と聖霊は同じ実質、同じように永遠、平等、全能であり、全てのものの唯一の原理である。見えるものと見えないもの、全ての霊的および物質的なものの創造者である。その全能の力によって、時の始めにあり、全ての霊的ならびに物質的なものを無から作った。すなわち、天使と世界とを創り、それから、霊魂と肉体とから成る人間を創った。悪魔およびその他の悪霊も、神によって本性上は善いものとして創られたが、自分で悪となったものである。人間は悪霊の誘惑によって罪を犯した。この三位一体は本質においては共通であって、位格の特有性において別のものである。まずモーゼと聖なる預言者その他を通じて、時の必要に応じて、救いの道-を人類に伝えたのである。

801 神のひとり子イエズス・キリストは、三位一体のすべての共通の行い全部から受肉し、聖霊の協力によって終生処女であるマリアに受胎し、理性的霊魂と人間の体から成るまことの人となり、二つの本性が一つの位格に結合し、生命の道を明らかに示した。神性においては死ぬことも苦しむこともなかったが、人性において苦しみ、死ぬ者となった。人類の救いのため十字架の木にかけられて苦しみ、死し、古聖所に下り、死者の中から復活し、肉体と霊魂とが昇天した。生者と死者とを裁くため世の終りに来て、呪われた者も選ばれた者も一人一人をその行為によって裁くであろう・・・。

802 信者の普遍教会は一つであり、その外においては誰一人として救われない。この教会においてイエズス・キリストは司祭であると同時に生贄であり、その体と血が祭壇の秘蹟の中において、パンと葡萄酒の形色のもとに実際に含まれている。すなわち、神の力によってパンは体に、葡萄酒は血に全実体変化をするのである。キリストが我々から受けたものを、我々は一致の秘儀の中に受けるのである。イエズス・キリスト自身が使徒とその後継者に与えた教会の権能によって、合法的に叙階された司祭以外は誰一人としてこの秘蹟を挙行ですることはできない。(三位一体の神、すなわち父と子と聖霊との名を以って水によって聖別する)洗礼の秘蹟は、誰によっても教会が定めた形式で授けられたものであれば、幼児も大人も救いに至らせるものである。洗礼を受けた後に再び罪を犯しても、罪を心から悔い改め告解の秘蹟によって回復することができる。童貞と節制者だけでなく、既婚者も正しい信仰と善業とによって、神を喜ばせ、永遠の幸福に達することができる。

トレント公会議 第22回総会(1562年9月12日)
a)犠牲としてのミサの祭儀について
 1738 聖霊によって合法的に召集されたこの聖なるトレント公会議は聖なるカトリック教会において、この偉大な聖体の秘蹟に関する古代からの信仰を完全に守り、誤謬と異端を排斥して教義を汚れなく守るために、聖体の秘蹟が真の唯一の生贄であることを聖霊の光によって教えられて、次に述べることを教え、宣言し、信徒に教えるべきであると決定する。

第1章 ミサ聖祭の制定について
1739 使徒聖パウロによれば、旧約時代にはレビ族の司祭職は完全なものではなかったため、慈悲深い父である神の計画によって、メルキセデクの位に等しい他の司祭を立てる必要があった。(創世記14.18、詩篇109.4、ヘブライ7.11)。
それがすなわち、我々の主イエズス・キリストであって、キリストは「聖化すべき全ての人々を完全なもの」(ヘブライ10.14)にすることができた。
1740 我々の神であり、主であるキリストは、十字架の祭壇の上で死に、「一度で永久に」(ヘブライ0.14)父である神に自分を捧げて、救いの業を完成した。しかしキリストの司祭職は死によって消え去るものではなかったので(ヘブライ7.24,27)、敵の手に渡される夜(1コリント11.13)、最後の晩餐において、自分の愛する花嫁である教会に目に見える供え物を残したのである。(人間のためにこれが必要であった)(第1条)。この供え物によって、十字架上で一度血を流して捧げたものが表され、その記憶が世の終りまで続き(1コリント11.23以下)、その救いの力によって我々が毎日犯す罪が赦されるのである。キリストは「メルキセデクの位に等しい永遠の司祭」(詩篇109.4)であると宣言して、自分の体と血をパンと葡萄酒の形色のもとに父である神に捧げた。そして、使徒達を新約の司祭として制定し、パンと葡萄酒の形色のもとに拝領するように自分の体と血を与えた。使徒達とその後継者たる司祭職に、「私の記念としてこれを行え」(ルカ22.19、1コリント11.24)という言葉で、それを捧げるように命じた。これはカトリック教会が常に理解し、教えてきたことである。(第2条)

引用:
デンツィンガー・シェーンメッツァー カトリック教会文書資料集 信経および信仰と道徳に関する定義集 A・ジンマーマン監修 浜 貫五郎訳 エンデルレ書店