Benedeictus Iesus in sanctissimo altaris Sacramento.

いと尊き聖体の秘蹟に在し給うイエズスは、賛美せられさせ給え。

カトリックの信仰(倫理篇)  「守るベき事」の意義

2014-07-07 23:12:26 | 資料

野田時助著

カトリックの信仰(倫理篇) 中央出版社刊行

(旧漢字、旧仮名使いは出来るだけ原文儘として引用しています。)

「守るベき事」の意義

天啓は眞理をへる。しかし人間に無關係な眞埋や、無益無意義な真理をへるのではなくて、人間の完成に缺くことのできない真理をへるのである。それならば、いったい何が人間の完成に必要かと問ふならば、それは人間の目的であるといふほど第一義的な、根本的な、そして包括的な答は他に見出し得ないであらう。人類は天啓を離れてこの問題に解決を與へ得なかった。それもそのはずで、神は人間の目的を自然界に限らず、超自然界にまでこれを引き上げ給うたからである。人間の超自然的目的が神を直観して、それと同時にこの直観より生ずる愛と歓喜とによつて完全に幸福な者となるところにあるとは、天啓に依って定理神學はこれを證明し、會はベネディクトゥス十二世及びフロレンス公會議をもって天國の幸福は神を直観 することに存すといふ信條を制定してゐる(Denzinger: 530, 693)。しかし人間の目的の何たるかを知るのみが人間の完成にはならない。それを知り且つそれに達してこそ始めて人間の完成は成就されるのである。隨つて天啓は目的のみならず、それへの道をも我々に示してをり、「汝もし生命に入らんと欲せば掟を守れ」(マテオ、一九ノ一七〕といはれてゐるやうに、この道は實踐である。そしてこの實踐の對象をへるのが倫理神學であり、公教要理第二部なのである。定理神學の對象が思索眞理であるに封して、倫理神學の對象は齊踐眞理である。そしてこれが「守るべき事」において説かれ、雙方の對象は真理たる點において一つであるけれども、後者は實踐へ關係づけられた眞理として前者から區別される。


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