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思川流域の城館巡り 小山市編 その4

2016年06月12日 | 栃木 城址

〇鷲城(栃木県小山市外城)
康暦2年(1380)から永徳元年(1382)にかけて小山氏10代の義政は、3次にわたって関東公方(足利将軍家の分家)足利氏満の軍勢と戦いました。「小山義政の乱」と言います。
この乱の原因は、勢力を拡大した小山義政を抑圧しようとする氏満の策謀があったとされ、その指令を受けた関東各地の武士たちが、小山に攻め寄せました。最初の蜂起で館(神鳥谷の曲輪か)を攻められた義政は、二度目の放棄となる康暦3年には鷲城に立て籠もって戦います。しかし義政は結局敗れ、その翌年粕尾(粟野町)で自殺しました。
鷲城は思川や谷地・低湿地に囲まれた要害で、東西約400m、南北約600mで、中城と外城との二つの郭からなり、当時としては広大な城郭でした。中城の空堀・土塁が明瞭に残存し、鷲城の名の由来となった鷲神社が鎮座しています。南北朝時代の城郭がこれほどよく遺存し、関連する文献資料が多数伝来しているのはきわめて稀な例で、貴重な史跡と言えるでしょう。
平成3年3月12日 国指定 小山市教育委員会(鷲城解説板)

鷲城の虎口は中城東側の鷲神社参道入り口付近と鷲宮神社の南から崖線を西へ下る通路部分で、この通路を塞ぐように長~い土塁が残っていました。
今回外城側は探索しなかったのですが、中城と外城を区切る長大な三日月状の土塁と空堀が残っています(^_^)
鷲城の南~東側では発掘調査により数ヵ所で奥大道と推定される中世の古道が発見されています(外城遺跡)

   

   


〇長福寺城(栃木県小山市八幡町)
鷲城と祇園城との間に位置するつなぎの城と考えられている。
名前の由来となった長福寺の創建については、鎌倉中期、小山時長の時代とする説と、南北朝期、小山氏政が開基となったとする説に分かれている。
南北は内堀によって大きく二つに区画され、このうち南側は内堀でさらに東西に分かれているので、全体としては三つの曲輪から構成されていたことになる。
そしてこれらの東側と南側には、おそらく戦国期に拡張された部分が存在した模様である(南北朝期の都市小山と城館群 小山氏の盛衰より)

やはた公園に長福寺城の石碑が建っていて、道路を挟んだ反対側と、小山第二中学校第二グランドの道路を挟んだ西側に土塁が残っていました。
この土塁は戦後の空中写真で確認すると、グランド西側の道路~グランド北西を斜めに貫いているように見えました。

   

続く~

〇参考資料
・「南北朝期の都市小山と城館群」小山氏の盛衰 松本一夫著 戎光祥出版
・「遺跡が語る中世の小山」下野小山氏 松本一夫著 戎光祥出版
・おやまわが街ガイドマップ web 埋蔵文化財情報
・小山市史 通史編1 自然・原始・古代・中世
・国土地理院 地図・空中写真サービス


 


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2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
こんばんは。 (小頭@和平)
2016-06-12 19:29:37
毎週末の更新、お疲れ様でございます。

小山市へお連れいただいてから、もう一月近くになるのですね。
お陰様で、あの後から勢いがついたらしく、自分としては珍しく6月に2度も城館探訪に出かけることができました。
例年ですと、この梅雨から秋口までは活動停止が常なのですが、よい刺激をいただき御礼を申し上げます。
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お城が恋しいです (みかづきぼり)
2016-06-12 20:43:44
小頭@和平さま
こんばんは~コメントありがとうございます。
あれ~ご一緒させて頂いてからもう一月たってしまうのですね、時間が経つのは早いですね。
私の方はあれから訪城しておらず、今だにぶろぐ後進、もとい更新作業中で恥ずかしい限りです(汗)
これからは訪城に向かない季節になりますが、また和平さまの射出機になります(プシュュュ~~)
あっ、オイタが過ぎたようです、失礼致しました(謝)
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