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三日月堀のぶろぐ

お城・歴史の記事がメインのぶろぐです〈(_ _)〉

金山衆関係者の屋敷跡か ~村田氏屋敷~ 山梨県塩山市千野字鳥居原

2016年11月26日 | 山梨 城址

塩ノ山の東麓、塩川の左岸に位置し、屋敷の東側には青梅街道が通っています。付近には武田信春館跡や金山衆の一員であった古屋清左衛門屋敷があります。また屋敷の東隣には臨済宗向嶽寺派の昌寿院があります。
『甲斐国志』士庶部は「村田弥三」の項を立て、元亀二年の深沢城攻めに軍役衆として活躍し武田家朱印状を所蔵している旨を記しています。古くから金山衆関係者の一人と言われており、また村田昌継を願主とした千野の飛宮造立のための慶長年間の願文もあり、この頃村田氏がこの地域で勢力を張っていたことがわかります。
千野鳥居原のある村田氏の宅地内が比定されており、東西68メートル、南北38メートルのほぼ方形の形状をもちます。北側には土塁と用水がめぐり、土塁は幅約3メートル、高さ2メートル程度を測ります。屋敷の東北土塁状には五輪塔などが多少残ります。明治3年宅地内より吹金17粒が出土しています。

 
〇屋敷北側の土塁と水路


〇屋敷西側の石垣
石垣は当時のものではないと思うのですが、隙間なくビッシリと積まれていました(^_^;A



〇飛大(飛宮)神社
屋敷跡の南方にあり、永禄3年武田信玄より府中八幡勤番を命じられた社のひとつです。


〇屋敷跡付近から望む塩ノ山
写真手前には太陽光発電用のパネルがズラリ~並んでいました。
この日は曇り空でったのでどれくらい発電していたのかな・・・(^^;;)

屋敷跡を示す解説板・石柱などはなく、屋敷跡に沿ってぐるりと巡ってみたのですが、遺構と分かるものは北側にある土塁と水路くらいでした(^_^;)
飛大神社は前を素通りしてしまい参拝しなかったのですが、後で調べてみると武田信成が抜隊禅師を開山として向嶽寺を創建した際、境内の大木を仏殿の棟木として寄進したそうで武田氏とも深い関わりがある神社のようです。

〇参考資料
・塩山市史 通史編 上巻

・塩山市史 資料編 原始・古代・中世
・山梨市史 通史編 上巻
・図解山城探訪 山梨峡中・峡東地区資料編 宮坂武男著


武田信春館跡(千野館) 山梨県甲州市塩山千野字八桑田

2016年11月21日 | 山梨 城址

柳沢山慈徳院の境内が武田信春の館跡といわれています。
塩ノ山の東、重川右岸の台地上にあり、付近には青梅街道も通り交通の要衝に位置します。
武田信春は武田信成の子で南北朝時代、祖父信武・父信成と共に北朝方に属して活躍し、甲斐守護を継いでいます。
武田氏とこの地域の関わりを見ると、信春の父信成は抜隊禅師を開山として向嶽寺を創建し、また千野の継統院を菩提寺とするなど、両者の結びつきは強いものがります。
『甲斐国志』や『東山梨郡誌』によれば、応永20年2月の乱によて館が陥落したために、信春は萩原山中に逃れて柳沢に城を築いて居住し、同年10月23日そこで死去したと伝えられています。
また遺命によって館に寺を建立して、慈徳庵と名付けたといわれています。
館の規模は慈徳院の境内を中心に東西100メートル、南北147メートルの長方形を呈し、周囲には水路がめぐっています。
館の東側には「諸氏屋敷」「鹿子(かのこ)屋敷」西側には「馬場」、さらに北西には「女中屋敷」等の地名が残っています。
郭内と想定される境内は現在、墓地と果樹園になっていますが、東北隅には土塁の痕跡が残ります。
※以下の解説は主に「護郷会」建立の石碑から引用しました。

〇慈徳院 別名を千野館と呼び、武田信玄より七代前の甲斐国主・武田信春公の館跡
臨済宗の寺院で、境内には武田信春を供養する宝篋印塔がありました。
訪れた時は気づかなかったのですが、供養塔の後ろには家臣のお墓もあるそうです。
また境内東北隅の墓地には土塁の跡と思われる高まりがありましたが、石垣によってガッチリ固められていました(^_^;)
この後慈徳院周辺を探検して来ました。
   
 

〇千矢の堀跡 
千野館東側の堀で、優良な矢竹となる竹林が茂っていた
館跡の東側にあり、南北に水路が流れていました。


〇御台屋敷跡 
甲斐国主武田信春公の奥方や女中衆の住居跡
石柱はJAフルーツ山梨千野出張所の西側にありますが、「図解山城探訪 山梨峡中・峡東地区資料編 宮坂武男著」によると道を挟んだ北側が正しいようです。

〇橋立天神 館の鎮守天満宮と現在の主(=^・^=)
 

〇馬渡り 武田時代、この付近は馬に乗って渡るような湿地地帯で、千野館の西側の防備に役立った


〇陣屋街道 武田時代、千野と恵林寺十組屋敷方面を結ぶ主要交通路
 

〇札の辻 
武田時代、この地に千野館からの伝達を掲げる掲示場が設置された
札の辻と御台屋敷の間の畑に古そうな五輪塔がありました。
五輪塔の先に見える墓塔には「応永・・・」と読めそうな感じですが、詳細は不明です(^_^;)
 

〇千野八桑田 武田時代より、この付近を「はちかた」と呼び、千野村の中心地であった
道路の反対側には金山衆の関係者の一人と言われている村田氏の屋敷があります。


〇千貫堀跡 千野館の正面の防衛に役だった堀
 

〇千野六地蔵幢 甲斐国主・武田信春公の寄進といわれる優美な石塔彫刻(県指定文化財)
青梅街道沿いにあり、石幢の中にはお地蔵様が佇んでいました(-人-)
   

〇下街道 千野館に向かう正面通路
青梅街道から左に入る道(下街道)を進むと館跡へ向います。


〇馬場街道 千野館の兵馬の訓練場所
 

館跡の遺構は慈徳院墓所の土塁状のかたまりと周辺を流れる水路(堀跡?)くらいでしたが、千野の集落と塩ノ山の間を南北に塩川が流れ、その台地上に館跡が位置し、周辺には館跡に関連すると思われる地名や道が鉤の手状に曲がっていたりと、館と集落がセットになり存在していたのかな~と周辺に建つ石柱の碑文を読み妄想を膨らませながら巡りました(^_^;)
また探検の途中軽トラを運転中のおじいさんから声をかけて頂き、少しだけ千野の歴史を教えて頂きました
ただすべてをくまなく探検したわけではないので、見落とした場所があるかもしれませんので、また機会があれば訪れてみたいと思います 。
最後になりますが、石柱を建立した「護郷会」の皆様には感謝致します。
千野の歴史を知る上で勉強になりました。
いつまでも千野の歴史が語り継がれる事を願っています

〇参考資料
・塩山市史 通史編上巻
・塩山市史 資料編原始・古代・中世
・図解山城探訪 山梨峡中・峡東地区資料編 宮坂武男著
・現地石柱 護郷会


栗原氏館 (山梨県山梨市下栗原)

2015年07月13日 | 山梨 城址

栗原氏の館は栗原宿の北側、大翁寺とその周辺が伝承地とされています。一帯は西向きの緩傾斜地で、栗原宿の南側を日川が東から西へ流れています。


〇大翁寺本堂の武田菱
大翁寺は曹洞宗の寺院で「甲斐国志」によると、寛永8年(1631)栗原信盛死後、家が断絶したため館跡に大翁寺が創建されたそうです。
栗原氏は武田氏支族で、甲斐守護武田信成の子武続を祖とする、有力国人領主です。


〇大翁寺北辺から東側を望む
周辺はぶどう畑、すももなど果樹園が広がっています。
写真の後側に墓地があり、土塁が残っていましたが、撮り忘れちゃいました(T_T)
大翁寺の東側の木の辺りにも土塁が残っていました。


〇館の鎮守 弁財天
大翁寺の南西にあり、北東の妙善寺境内にあった荒神堂と共に、館の鎮守と伝えられています。
日本城郭大系(第8巻長野・山梨)に掲載されている分間図(地籍図)を確認すると館の隅にあたり、周辺より一段高い位置にありました。土塁の跡、あるいは矢倉台があったのでしょうか・・・ (・_・?)


〇弁財天前の堀跡
堀の痕跡がありました。


〇大翁寺東側に残る土塁
大翁寺北辺から撮影した写真、木の辺りの土塁です。
道がクランクに折れ曲がっている場所に残っていました。
この土塁、道路と並行ではなく、すこ~し曲がって残っているようにも見えます・・・(._.)
城郭大系掲載の分間図にも、道路と直角ではなく西から東に向かって斜めに描かれています。

日本城郭大系では近接する海島寺・妙善寺・大法寺もそれぞれ一町四方の地割を推定し、館の範囲内と推定しています。
その他に中村の養安寺、東後屋敷の武田金吾屋敷も栗原氏の屋敷だったようです。

次回へ続きます・・・(^^;


※少し前にGoogleマップの仕様が変わってしまい、kmlデータが取り込めなくなってしまいました(T_T)
とりあえず、マップのみ掲載しておきます。