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三日月堀のぶろぐ

お城・歴史の記事がメインのぶろぐです〈(_ _)〉

滝山城~鎌倉街道~高月城を歩く

2017年12月11日 | 東京 城址

先日、東京都八王子市の滝山城と高月城へ行って来ました。
今回の1番の目的は滝山城から高月城へと続く鎌倉街道を歩く事でした(^^ゞ 

〇滝山城 東京都八王子市高月町・加住町1丁目・丹木町1~2丁目
大永元年(1521)に武蔵守護代大石定重が築城し、後に大石氏の養子になった北条氏照が拡張・改修したとされてきました。しかし近年の研究により、北条氏照は由井領を支配していた大石綱周の養子になり、浄福寺城(由井城)に居住し、その後永禄10年(1567)までに滝山城を築城して移転したと考えられています。滝山城は東西に長い加住丘陵に築かれ、北は多摩川に浸食された断崖、南は谷戸が入り組んだ複雑な地形になっています(滝山城跡パンフレット)
滝山城へ訪れたのは今回で2回目?か3回目?(^_^;) 前回訪れた際にはなかった滝山城専用の駐車場が大手口付近の交差点角にあり、そこから城内へと向かいました。駐車場には滝山城跡群・自然と歴史を守る会発行のパンフレットがあり、パンフレット掲載の縄張り図を参考にしながら巡りました。

    

午前中は主要な場所を巡り昼食を摂った後、本丸と中の丸の間の堀底道(鎌倉街道)を多摩川へ向かって下り搦め手口へと向かいました。

  

〇滝山城と高月城を結ぶ鎌倉街道
滝山城城下の八幡宿の西端から加住丘陵に上がり、丘陵上の滝山城を抜け高月方面へ降り、高月の渡しで秋川を渡河してあきる野市二宮に至る道で、かつては鎌倉街道と呼ばれていた伝承があるそうです(八王子市史下巻・新八王子市史通史編2・中世)
高月城へ向う鎌倉街道は丘陵の麓沿いを通過していて舗装はされていますが道幅も場所によっては狭く、また街道沿いには樹齢約400年のクワや板碑がある不動院など古道の面影を残していました。

   

〇円通寺と中里集落 東京都八王子市高月町
円通寺は天台宗寺院で、延喜3年(903)創建と伝えられ、五日市、秋川、福生を転々として現在地に移ったそうです。
高月城北東側の裾にあり、大石氏の居館があったとも伝えられています(歴史と浪漫の散歩道「改訂版」八王子市文化財ガイドブック)
現在は円通寺の前を都道166号(瑞穂あきる野八王子線)がなだらかにカーブしながら通過していますが、鎌倉街道は滝山城方面から円通寺墓地の脇を北上し高月集会所脇の道の先で鍵の手に通過し円通寺を過ぎると中里集落~高月の渡しへと続きます。中田正光さんの「戦国の城は民衆の危機を救った」によると、中里集落はブロック状地割が多く道筋もカネ折れ(直角になった道)が幾つか認められ城と同様に防御機能をもった空間で城(高月城)と一体化した家臣居住区(根小屋)である、と述べられています。中里集落を歩いているとたしかにカネ折れ状の場所があり、また集落中程に貞和5年(1349)の板碑があったという正八幡宮がありました。

   

   

〇高月城 東京都八王子市高月町
高月城は大きく蛇行する秋川と多摩川の合流点近くに位置し、流れに突き出るような形になった加住丘陵の自然の要害を利用した山城です。「大石氏系図」には、武蔵国守護代大石顕重が長禄2年(1458)に高月に移り築いたとされています(歴史と浪漫の散歩道「改訂版」八王子市文化財ガイドブック・戦国の城は民衆の危機を救った)
中里集落から高月ホテルへと向かう切通しの道沿いに真新しい解説板がありました。ここから城内に入り土塁や段状の郭を眺めながら登っていくと、山頂の主郭につきました。ここにも解説板があり縄張り図には主郭南面には空堀や馬出遺構もあるようですが、藪などで確認する事が出来ませんでした(城内は私有地ですので見学路以外には立ち入らない様ご注意下さい)

   

    

〇高月城と周辺の航空写真


※参考資料・グーグルマップは後日掲載致しますm(_ _)m
※H29年12月14日 参考資料・グーグルマップを追加しました

〇参考資料
関東の名城を歩く南関東編 吉川弘文館
歴史と浪漫の散歩道「改訂版」八王子市文化財ガイドブック 八王子市教育委員会
八王子市史下巻
新八王子市史通史編2中世 
新八王子市史資料編2中世                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                              
戦国の城は民衆の危機を救った 揺籃社
よみがえる滝山城 揺籃社
滝山城戦国絵図 揺籃社
東京都の中世城館 戎光祥出版
多摩丘陵の古城址 有峰書店新社
日本城郭大系5埼玉・東京 新人物往来社


府中市西府の屋敷群は津戸氏の拠点なのか? ~府中市本宿町遺跡~ 東京都府中市本宿町一丁目・西府町一丁目

2016年10月09日 | 東京 城址

『企画展 発掘された中世遺跡 ー府中市西府の考古学ー 府中市郷土の森博物館』の現地編です。
以下、一部を除き企画展の展示解説をほぼ引用して記します。

2009年、JR南武線に新しく西府駅が誕生しました。
駅舎やマンション、商業施設の建設に先立ち発掘調査が行われると、中世の屋敷群(12世紀~17世紀の初頭)が新たに発見されました。
屋敷群の範囲は御嶽塚を中心に東西約300m南北約190mで幅2mを超える大きな溝が縦横に巡っていますが、溝に伴う土塁はないので軍事的機能は低かったと考えられます。
屋敷の姿が明らかになるのは14世紀後半からで、掘立柱建物や井戸で構成される複数の屋敷が存在しました。
区画溝は複数あってそれらは同時に存在したわけではないので、屋敷群の変遷があったと考えられます。
出土した遺物には香炉や茶臼も出土しており、抹茶や香を嗜む富裕層が居住していたようです。
屋敷群の出土遺物は16世紀後葉~17世紀初頭のものを最後に見られなくなります。
付近を通る甲州街道は当初台地下の低地を横断していましたが、江戸時代に入って間もなく台地上に移設され、その後集落も甲州街道沿いに移ったのだと伝えられています。
西府駅周辺の屋敷群は甲州街道の移設という外的要因によって移動し、姿を消したと考えられます。

 
〇段丘下の市川緑道と段丘上の府中崖線西府町緑地
屋敷群は立川段丘崖の段丘面に位置し、中世都市・府中の中心部から西におよそ2km、当時の幹線道である鎌倉街道からもおよそ800m離れています。
江戸時代初めまでは崖線沿いに多摩川が流れていました。

   
〇御嶽塚
西府駅の南側に位置し、もともと古墳時代後期の円墳です。
中世には信仰の場として機能し、加持祈祷などを行う修法壇の可能性が指摘されています。
1972年の発掘では、12~14世紀の陶磁器が出土しています。

 
〇弥勒寺跡と延文五年の板碑
府中第五小学校やその東側隣接地の一帯が、弥勒寺の旧地と伝えられています。
開創は不明で永正五年(1505)中興、明治に廃寺になりました。
安永六年(1777)弥勒寺の古屋敷より茶壺・茶釜・短刀・経文・矢の根(鉄鏃)そして板碑が出土しました。
※短刀・鉄鏃は後期古墳の副葬品
板碑は刻名から延文五年(1360)津戸勘解由左衛門尉菅原則継の菩提を伴う為に沙弥道継が造立したものです。
※谷保天満宮の宮司が津戸姓である為、現在は天満宮の所蔵

〇津戸氏の拠点か
津戸則継や道継の名を同時代の史料に見出すことは出来ませんが、鎌倉~室町時代の初期に武蔵国の武士として確認出来る著名なのは浄土宗の開祖法然上人に帰依した津戸三郎為守です。
その本拠地については埼玉県鴻巣市吹上下忍の字角戸とする説が有力です。
しかし板碑の出土からすると、西府駅周辺に津戸氏の墓を営むような拠点があったことも間違いありません。
近年の発掘調査を交えれば津戸氏は西府駅周辺に12世紀頃から拠点のひとつを形成し、その後一帯に勢力を扶植していった可能性が浮かびます。

参考資料
〇企画展「発掘された中世遺跡 ー府中市西府の考古学ー」府中市郷土の森博物館 展示解説
〇府中市郷土の森博物館だより「あるむぜお」NO.116
〇府中市史上巻
〇現地解説板

※地図は後ほど掲載します_(._.)_

※2016年10月12日追記 訪れた場所をグーグルマップに落としました。


多摩の城館巡り

2016年05月08日 | 東京 城址

先日お城の先達お二人方と多摩の城館巡りに行って来ました~
この日は10カ所以上巡りましたが、その中から印象に残ったお城をピックアップしてみました(^_^)


〇志村館(引田館) 東京都あきる野市引田
秋川に臨んだ河岸段丘上舌状地先端に位置し、背後は殿沢が流れ舌状地先端から秋川の氾濫原へ流れ落ちる。村の伝承や、天正十七年(1589)の絵馬版木などから、後北条氏配下平山右衛門太夫の臣、志村肥前守影元の居館であろうといわれてきた(増補改訂青梅市史上巻)

 
〇戸吹城(二城城址・新城・根古屋城) 東京都八王子市戸吹町・あきる野市上代継千代崎
秋川南岸に屹立する加住北丘陵の断崖上にあるが、砂礫層の崩壊が進行している。城地の北の郭群はあきる野市、南の郭群は八王子市側に属し、八王子市側には堀が比較的よく残っている。来歴不詳(東京都の中世城館 戎光祥出版)
北の郭群は道が崩落し危険で行けませんでしたが、南の郭群は竹が少し伐採されたようで、遺構がよく分かりました~

 
〇八王子城太鼓曲輪地区 八王子市元八王子町3丁目
太鼓曲輪地区は、居館地区と城山川の谷を挟んだ南方対岸の尾根稜線を中心に展開する遺構群である。主要な堀切は深く鋭角に切れ込んで、尾根を完全に切断する。また、現状では崩落が著しいけれども、堀切に面して石積みの堡塁または櫓台を設置していたと考えてよい箇所がある。(東京都の中世城館 戎光祥出版)
堀切のありこちに石積がちりばめられていて、堀切はこんなに削ったの?と思うくらい凹でました(^_^;)

この日は日差しが強くて首回りが紅白状態になり、お風呂でヒリヒリ状態でした(>_<)
お城の先達の二人方、御同行頂きありがとうございました~<(_ _)>


楯の城と明白院の山門 (東京都青梅市日向和田)

2015年03月15日 | 東京 城址

城郭サイト「城逢人」の管理人ししん様にお願いして「三田氏の史跡」を案内して頂きました<(_ _)> 
今回は「楯の城」と楯の城の城門と伝わる「明白院の山門」を記事にしたいと思います。

 
〇楯の城を東西に貫くJR青梅線
楯の城(別名 楯沢城、宮平城、楯の柵、東木戸)はJR青梅線宮の平駅の東側、通称矢倉台の峰から続く台地上の先端部、多摩川の北岸にあります。
城の規模は東西約100メートル南北約200メートルで、東西は深い谷(東に楯沢、西に谷川)が入り自然の要害になっています。
遺構は城の北側、台地上を東西に分断する空堀と土塁、虎口とその土橋などが残っていますが、その他はJR青梅線・青梅街道・宅地などにより大きく破壊されています。
 


〇台地上を東西に走る空掘
台地続き方面(矢倉台にいたる尾根)が高くなり、城の内部を見透される形となっている為折のついた空堀で断ち切り、城内への通路は地山を彫り残した土橋を設けています。


〇矢倉台方面から城内へ入る土橋(右手が城内)
昭和52年に土橋と堀の一部が発掘されました。

・土橋の上に材を敷いて架橋した可能性(木橋?)
・橋台状の張り出しは、土橋が構築される以前の板橋の土台として使用
・焼土層や炭化物で構成された層があり、火災にあっていた可能性
・金屎(かなくそ)の出土から、城内に鍛冶遺構の可能性
・遺物は明の青磁片・16世紀の美濃灰釉皿が出土
などが分かっています。                                                  


〇明白院山門
明白院は海禅寺7世の天江東岳開山を開山とし、三田氏遺臣の野口刑部少輔秀房を開基として天正年間頃に創立された曹洞宗の寺院です。
この山門は三田氏が滅亡後、盾の館に居住した田辺清右衛門尉惟良の屋敷にあったものを孫の宇太夫の頃に移したと伝えています。
宇太夫が没したのは元禄3年(1690年)との事ですので、おそらく江戸時代になってから移した事になります。
ちなみに明白院山門の解説板では「明白院建立の際に移した」と書かれていました。
明白院建立は天正年間(1573年~1593年)との事ですので、移築の時期に差がありますね(^^;
現在の青梅街道が開通したのは昭和5年(1930年)頃で、それ以前は南側の多摩川寄りの道を通っていたそうです。
『青梅郷土誌』掲載の楯の城図には城の南側に門を設け、古道(旧青梅街道?)は門前で方向を変え、楯沢を渡って裏宿(青梅方面)に出る様子を描いています。
寛文8年検地帳に「木戸前」の地名がありこの辺りを指すと思われる、そうです。
この場所にあった門が、明白院に移築された山門なのでしょうか (?_?)

今回未訪ですが古道の位置、
また浜矢場の地名(城郭サイト「城逢人」様の「楯の城」に詳しく解説されています)や、城内にあったという「首洗井戸」(@_@;)など、楯の城の城域は青梅線・青梅街道より多摩川寄り(南側)まで及んでいた事が想像出来ます。
ここに最初に館がおかれたのは文明年間(1469年~1487年)の頃で、誰が築いたのかはわからないようですが、辛垣城の大手門(東木戸)として機能していたことが考えられるとの事です。
この記事を書いている時点で辛垣城など山上の城郭群は未訪ですので、訪れた後に楯の城との関係を改めて考えてみたいと思います<(_ _)> 


参考資料
・青梅市史(上巻)
・青梅市文化財保護指導員連絡協議会活動報告書
・青梅市の中世城館
・その他


今井城 東京都青梅市

2014年02月22日 | 東京 城址

勝沼城より直線距離で北東におよそ4km、霞川北岸の舌状台地の先端に今井城があります。
縄張りは台地先端の主郭を中心に北と西にそれぞれ郭があり、空堀・土塁・土橋・虎口などが観察出来ます。


 1 郭3西側の虎口と土橋

郭3は東西に細長い

 2 東側から見た郭3
写真左手から中央にかけて高い土塁が、右側には低い土塁が帯状に走っている。
高い土塁の向こう側は、空堀をはさんで本郭がある。

 3 本郭 
ほぼ正方形の形をしているが、東側は崖になっていて、削られた形になっている。
崩落しちゃったのかな (・_・?)
北・西・南は土塁が巡っていてそれぞれに虎口もあるが、「東京都の中世城館跡」では後世に開けられたものだろうとしている。

 4 本郭の虎口?と土塁
郭東面の南端にあり、「東京都の中世城館跡」ではここが本郭虎口の可能性があるとしている。

 5 本郭から見た2の郭
郭内は自然地形に近く土塁もないが、空堀の外側に土塁が巡り北側から土橋で連絡している。

  2の郭南端から東へ伸びる土塁と空堀
2の郭からはこの土塁上を通り、本郭へ入る。
また木橋の存在も想定している。

 城レコ(旅レコ)の記録(^^;
軌跡はだいたい合っている(と思う)けど、川に突入したりしてる(>_<)
高度は、旅レコの精度が不安定なので割愛しました。

今井城の城主として
「武蔵名勝図会」は今井氏の城として伝えているが(中略)来歴は必ずしも明らかではない、としています
※『東京都の中世城館跡 今井城 沿革・伝承』より引用

私は見ていないのですが、
今井城から数百m離れた七日市場に時宗の正福寺があり、ここに今井氏のお墓があるそうです。
昭和42年の発掘調査では、本郭北西の土塁から板碑や石塔・蔵骨器・火葬骨片とともに散乱した状態で見つかっているそうです(@_@;)

今井城は大きなお城ではありませんでしたが、本郭の虎口の入り方が凝っていて縄張り好きな方にはお勧めのお城です(^^*)

 

  • 城名 今井城
  • 所在地 東京都青梅市今井1丁目
  • 年代 大永二年以降
  • 城主 今井氏
  • 分類 平山城
  • 遺構 郭・土塁・空堀・土橋
  • 規模 90メートル×150メートル 標高160~162.5メートル
  • 文化財指定 市指定史跡
  • 訪城日 2014年1月12日

参考資料

  • 日本城郭大系5埼玉・東京
  • 東京都の中世城館跡
  • 多摩丘陵の古城址
  • 資料青梅市の中世城館跡
  • 関東の名城を歩く 南関東編
  • 青梅を歩く 『青梅市文化財地図』
  • 現地解説版