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三日月堀のぶろぐ

お城・歴史の記事がメインのぶろぐです〈(_ _)〉

菅谷城(菅谷館)の石積?遺構 埼玉県比企郡嵐山町

2018年02月08日 | 埼玉 城址

先日埼玉県比企郡嵐山町の菅谷城(菅谷館)に行って来ました。

目的は西の郭にある石積を確認する為でした。
西の郭の北方、土塁の内側裾に15~20メートルの幅で所々ですが石の存在を確認する事が出来ました。

  

  


石の形は角が取れた丸い石(川原石?)が多かったのですが、中には板状の石などもありました。
石の大きさは大きいものでも直径20センチ前後、もう少し小さい石が多かったです。
土塁の裾から1メールくらいの高さまで目視で確認出来ましたが、土塁の上方にも小石などが確認出来ました。

石がある土塁の裾部はゆるやかな傾斜で、見た目は石が積まれたというよりは石を土塁裾にペタペタと張り詰めたような感じでした(;^_^ A
石の積み方や石材の種類などを調べてみるのも面白そうです(^^ゞ
※距離や石の大きさなどは歩測や手のひらでのおおまかな計算です。

菅谷城内にある嵐山史跡の博物館では2月18日まで企画展「武蔵武士とその本拠」を開催中です。

〇参考資料
・石川安司「北武蔵の城郭石積み」 中世東国の世界3 高志書院
・水口由紀子「菅谷城跡」 戦国の城 高志書院
・関東の名城を歩く南関東編 吉川弘文館


土呂陣屋へ行って来ました

2017年12月29日 | 埼玉 城址

先日埼玉県大宮市の土呂陣屋に行って来ました。
といっても本来の目的は伯父の入院している病院へお見舞いでした。
病院は土呂陣屋の敷地内にあり、目の前には土塁が確認出来ました。
周辺は開発が進んでいるようですが、この土塁もその波にのまれてしまうのでしょうか・・・
なんとかこのまま保存して欲しいです。

この後、岩槻の叔母宅にも立ち寄りました。
叔母は認知症なのですが、昔の事や私の父の事など話をして来ました。
今月は難聴の叔母の付き添いで耳鼻科に行ったり、私の母が急性の肝炎で入院したりといつも以上に忙しい年末でした。

 


児玉(本庄市)の中世を訪ねる

2017年10月10日 | 埼玉 城址

2週に渡り埼玉県本庄市児玉町に行って来ました(^^ゞ

〇恵日寺 本庄市児玉町長沖
臨済宗寺院で創建時期は不明ですが、境内には中世石造物が多く現存します。
「児玉町の中世石造物」に本堂裏手に細長く池があり中世の館跡の堀であろうか、との記述があります。
現地を探検すると池のさらに裏手の一段上がった場所にはいくつかのマウント状の塊がありました。
後で調べるとこの辺り一帯は長沖古墳群として知られ、どうも古墳のようです (^-^;)

  


〇円通寺 本庄市児玉町金屋
真言宗寺院で円通寺のある金屋地域は中世以降金屋鋳物師が居住した地域です。
寺の由緒は不明ですが、金屋鋳物師の檀那が多く近世規期の宝篋印塔や石殿がみられ、さらに中世石造物も現存しています。
本堂裏手の竹林に沿って溝状の遺構がありましたが、遺構の用途やいつごろのものなのかは不明です(._.)

 


〇田端南屋敷遺跡と田中供養地 本庄市児玉町田端
鎌倉街道上道から児玉で分岐する上杉道(関東管領上杉氏の居城であった群馬県藤岡市の平井城方面へと続く古道)が田端の集落をクランク状に曲がりながら通過しています。
「塩谷氏館跡と児玉党の形成(真鏡寺後遺跡3)」によると集落の東端に120×150メートルほどの方形の地割があり、塩谷の真鏡寺館及び赤根川から引水した水の合流した水路による水流が認められるところから館跡である可能性が指摘できる、とあります。
十二社のある墓地には田中供養地と呼ばれる板碑・中世石塔がありました。
以前は十二社のある前の道路の三角地にあったようです。
館跡と推定される場所は人家・水田・畑となり遺構は確認出来ませんでした。

 


〇真鏡寺館 本庄市児玉町塩谷
天台宗寺院で境内には渋谷金王丸の墓と伝えられる五輪塔のほか板碑や中世石塔が散在します。
児玉党塩谷氏の館跡といわれ東西250メートル、南北240メートルの方形館です。
本堂裏手にあった空堀は埋められてしまったそうですが、土塁の一部と空堀が確認出来ました。

   


〇篠城 本庄市児玉町塩谷
室町時代を中心としする城跡と推定されます(田端中原遺跡)
色々調べてみたのですが篠城の歴史・遺構等詳細が分からず、また現地は畑や藪になっており道路から眺めるだけでした(T_T)




〇別所城 本庄市児玉町金屋
南北朝期を中心に機能していたと推定されています(田端中原遺跡)
篠城同様歴史・遺構等は分からず、現地もやはり畑などになっており詳細は不明でした。




〇雉ヶ岡城(雉岡城・八幡山城) 本庄市児玉町八幡山
山内上杉氏により築城後、上杉氏が上野平井城に移ってから家臣の夏目豊後守定基が守っていました。
その後北条氏邦に奪わられ天正18年(1590)北条氏滅亡とともに落城したと伝えられています。
付近には鎌倉街道上道や鎌倉街道上杉道が通り、交通の要衝となっています。
規模は東西260メートル南北440メートルで、児玉中学校や県立児玉高校の建設などにより本丸・二の丸・三の丸などの城域西半分は消滅していますが、大手虎口・土塁、馬出の空堀、伯耆(ほうき)郭の土塁・堀などが残っています。

※規模について「日本城郭大系」・「中世の城館跡埼玉秩父・児玉地方」では東西150メートル、南北200メートルとしていますが、「中世北武蔵の城」では東西260メートル、南北440メートルとしています。
縄張図などを基にインターネット地図などで距離計測しましたが、「中世北武蔵の城」記載の規模がより近いのではないかと思われます。

  

   

  


〇八幡神社(東石清水八幡神社) 埼玉県本庄市児玉町児玉
康平6年(1063)に源義家が奥州平定の帰途、当地に立ち寄り八幡宮を勧請したと伝えられています。
鎌倉時代には児玉時国が深く崇敬して社殿を再建しました。
延徳3年(1491)夏目豊後守定基によって社領が寄進されました。
当初は八幡山雉ヶ岡の地に鎮座していましたが雉ヶ岡城が築城された際、現在地に移転してきたとも伝えられています。
八幡神社前を鎌倉街道上杉道が通り、道沿いに100メートル程土塁が確認出来ました。
隣の玉連寺は児玉時国の館跡と伝えられていますが、この土塁が館に関連する遺構なのか等々詳細は不明です。

   


〇玉蓮寺 埼玉県本庄市児玉町児玉
日蓮宗寺院で児玉党の領主児玉六郎時国の開基です。
時国の館跡とされていて日蓮が文永8年(1271)佐渡流罪の途中と文永11年(1274)佐渡流罪の斜面を得て鎌倉へ帰る途中に時国の館に泊まったと伝えられています。
境内墓地には児玉時国の供養塔との伝承がある嘉元2年(1304)造立の釈迦一尊種子板碑がありました。
館の遺構は確認する事が出来ませんでしたが、東側には鎌倉街道上道が通っています。

   

この他館・屋敷跡の可能性がある上一之堰遺跡・ミカド遺跡・枇杷橋遺跡D地点・塩谷原遺跡(現状遺構は無し)などにも立ち寄りました。

写真は塙保己一記念館で購入した「本庄市の武蔵武士」児玉党の発生から一族の事など詳しく解説されていて、館跡の事も数ページですが解説されています(^_^;)
ちなみにこれ、本庄市のホームページからPDFでダウンロード出来ますので、チェックしてみて下さい~




※参考資料・地図は後日掲載します_(._.)_

※H29.10月10日 参考資料と地図を追加しました<(_ _)>

〇参考資料
・児玉町史 民俗編
・児玉町の中世石造物
・写真で見る児玉の歩み
・本庄市の武蔵武士
・真鏡寺後遺跡Ⅲ
・真鏡寺後遺跡Ⅳ
・金屋西遺跡 
・田端南堂遺跡
・田端中原遺跡 


志木の中世を探検

2017年07月02日 | 埼玉 城址

今日は埼玉県志木市を探検して来ました~(^з^)


〇柏の城と解説板
大石信濃守(大石顕重)の居館とされます。現在は志木第三小学校の敷地になっています。




〇三の曲輪の大堀跡と解説板(一部拡大)
マンションの片隅に大堀の痕跡がありました。
大堀の写真は諸事情あって、2年前に訪れた時に撮影したものです(^_^;)



〇柏の城西の曲輪跡と解説板



〇宝幢寺(伝・大石四郎屋敷跡)
柏の城の東方に位置し、一説には大石信濃守の子息大石四郎の屋敷跡といわれる場所です。
遺構は確認する事が出来ませんでした(._.)

他に鎌倉街道跡・館氷川神社・一里塚・志木市郷土資料館、柏の城落城時に死者を埋めたという首塚(伝承地)にも行って来ました(;>_<;)
梅雨の季節とあってジメジメして気力が続きませんでしたが、資料館で頂いた「文化財まっぷ」には柏の城に関連する面白ろそうな伝承地などが載っていましたのでまた訪れたいと思います~

〇参考資料
・しきし歴史マップ~志木編~、~宗岡編~

・文化財まっぷ 伝説編Ⅰ、Ⅱ、Ⅲ


ときがわ・小川・寄居を縦断

2017年05月14日 | 埼玉 城址

本日は軍曹さんとししんさんに合力してときがわ・小川・寄居町に行って来ました~
ししんさんと合流前に軍曹さんと毛呂山町へ立ち寄りました

〇国津神神社(熊野神社)周辺に残る土塁状遺構 毛呂山町西戸

この後ししんさんと待ち合わせ場所で合流し進撃開始!


〇萩日吉神社 ときがわ町西平


〇橋倉城 ときがわ町大野


〇伝竹沢氏館跡 小川町靭負


〇吉野砦※比定地のひとつ 小川町木呂子


〇島田氏屋敷 寄居町富田

この他にときがわ町の慈光寺・寄居町の三嶋神社・赤浜の渡し・鎌倉街道跡・柳沢信俊のお墓などを巡ってきました~
お付き合い頂いた軍曹さん・ししんさん、今回もありがとうございました~<(_ _)>