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思川流域の城館巡り 小山市編 その5

2016年06月20日 | 栃木 城址

〇小山御殿と小山評定(栃木県小山市中央町)
小山御殿は、徳川将軍家の日光社参の際の休憩・宿泊所として設けられました。慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いの直前におこなわれた「小山評定」の吉例にならったものといわれています。
徳川家康は元和2年(1616)4月17日に没し、翌年日光東照社(後の日光東照宮)にその遺骸が改装され一周忌が営まれます。それ以来、日光は徳川将軍家の聖地となります。将軍家の日光社参は19回に及び、なかでも、三代将軍家光は10回、日光参詣をおこなっています。
小山御殿はかなり厳重な配置になっていたようで、周囲に堀が廻り、土塁が二重に築かれ、敷地内には16ヶ所に御番所が設けられていました。
将軍家の日光社参は寛文3年(1663)に四代将軍家綱行って以降、八代将軍吉宗が享保13年(1728)に再開するまで財政難のため中絶します。この間、大風によって建物の一部が壊れてしまったこともあり、小山御殿は天和2年(1682)、古河藩によって解体されました(小山御殿広場解説板)

小山市役所とその周辺が小山御殿で、芝生のある広場になっていました。
広場の所々にブロックで区画された場所や通路があり、これは後日調べて分かったのですが現存する平面図や発掘調査などから、土塁・空堀・建物跡などの位置や大きさを推定し、インターロッキングで色分けして平面表示しているとの事でした (^_^;)
また市役所の敷地内には小山評定の石碑が建っていました~

   

 


〇祇園城(栃木県小山市城山町)
平安時代に藤原秀郷が築いたという伝承もありますが、正確な築城年代は不明で、記録に見えるのは14世紀後半のころからです。この城を築いたとき、城守りの神として祇園社(現在の須賀神社)をまつったことから、祇園城と呼ばれるようになったと伝えられています。
西に思川をひかえた丘陵を利用して築かれ、築城されたころは現在の城山公園程度の規模と思われ、小山氏の本拠となったのは15世紀になってからのことでしょう。
戦国の動乱にさいして、小山氏は越後の上杉氏や小田原の北条氏といった有力な戦国大名に攻略され、天正3年(1575)北条氏照によって祇園城は陥落、小山秀剛は追放されました。その後氏照が大規模に拡張・整備を行ったと思われます。
やがて北条氏も滅亡し、江戸幕府成立後本多正純が3万石で城主となり、最終的な縄張りを完成させ、東西約400m、南北約700mにおよぶ城郭となりました。この正純も元和5年(1619)宇都宮へ転封となり、祇園城は廃城となりました。 平成3年3月12日 国指定 小山市教育委員会(史跡祇園城跡解説板)

祇園城は現在公園となっていて南北方向に曲輪が配置されており、深い空堀が曲輪を区切っていました。
小山氏の居城として整備され、南北は天翁院~小山御殿、東西は思川~国道50号線付近まで城域が拡張されていたようです。

   

   

やっと次回で終わりです~(^_^;)

〇参考資料
・関東の名城を歩く 北関東編 吉川弘文館
・中世小山一族 パンフレット 小山市役所企画政策課歴史のまちづくり推進担当
・現地解説板
・おやまわが街ガイドマップ web 埋蔵文化財情報


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2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
こんばんは。 (小頭@和平)
2016-06-21 22:33:28
毎週末のブログ更新お疲れ様です。

あのインターロッキングはそういう意味だったのですね。
ありがとうございました。

さてお陰様で、横浜方面の東急東横線、小田急田園都市線、JR横浜線、横浜市営地下鉄グリーンラインなどの各線が路線地図としていつでも頭に浮かぶようになってまいりました。

あくまでも電車利用ですが、横浜方面限定でしたらいつでもご案内可能です^^
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鎌倉府と相模武士(下)買いました~ (みかづきぼり)
2016-06-22 20:36:19
小頭@和平さま
こんばんは~
お返事遅くなりました(謝)
小山御殿広場を調べてたら、去年の広場開園ニュース記事の中に、ブロックの事が載っていました~
安全面とか色々制約があるとは思うのですが、市役所の屋上から広場を眺める事が出来れば、もっと分かりやすいな~と思いました。
ヨコハマ方面、着実に版図拡大されていますね。
電車はかれこれ10年近く乗っていないので、乗れるかどうかチョット心配ですが(汗)、またご一緒させて頂ければ幸いです。
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