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府中市西府の屋敷群は津戸氏の拠点なのか? ~府中市本宿町遺跡~ 東京都府中市本宿町一丁目・西府町一丁目

2016年10月09日 | 東京 城址

『企画展 発掘された中世遺跡 ー府中市西府の考古学ー 府中市郷土の森博物館』の現地編です。
以下、一部を除き企画展の展示解説をほぼ引用して記します。

2009年、JR南武線に新しく西府駅が誕生しました。
駅舎やマンション、商業施設の建設に先立ち発掘調査が行われると、中世の屋敷群(12世紀~17世紀の初頭)が新たに発見されました。
屋敷群の範囲は御嶽塚を中心に東西約300m南北約190mで幅2mを超える大きな溝が縦横に巡っていますが、溝に伴う土塁はないので軍事的機能は低かったと考えられます。
屋敷の姿が明らかになるのは14世紀後半からで、掘立柱建物や井戸で構成される複数の屋敷が存在しました。
区画溝は複数あってそれらは同時に存在したわけではないので、屋敷群の変遷があったと考えられます。
出土した遺物には香炉や茶臼も出土しており、抹茶や香を嗜む富裕層が居住していたようです。
屋敷群の出土遺物は16世紀後葉~17世紀初頭のものを最後に見られなくなります。
付近を通る甲州街道は当初台地下の低地を横断していましたが、江戸時代に入って間もなく台地上に移設され、その後集落も甲州街道沿いに移ったのだと伝えられています。
西府駅周辺の屋敷群は甲州街道の移設という外的要因によって移動し、姿を消したと考えられます。

 
〇段丘下の市川緑道と段丘上の府中崖線西府町緑地
屋敷群は立川段丘崖の段丘面に位置し、中世都市・府中の中心部から西におよそ2km、当時の幹線道である鎌倉街道からもおよそ800m離れています。
江戸時代初めまでは崖線沿いに多摩川が流れていました。

   
〇御嶽塚
西府駅の南側に位置し、もともと古墳時代後期の円墳です。
中世には信仰の場として機能し、加持祈祷などを行う修法壇の可能性が指摘されています。
1972年の発掘では、12~14世紀の陶磁器が出土しています。

 
〇弥勒寺跡と延文五年の板碑
府中第五小学校やその東側隣接地の一帯が、弥勒寺の旧地と伝えられています。
開創は不明で永正五年(1505)中興、明治に廃寺になりました。
安永六年(1777)弥勒寺の古屋敷より茶壺・茶釜・短刀・経文・矢の根(鉄鏃)そして板碑が出土しました。
※短刀・鉄鏃は後期古墳の副葬品
板碑は刻名から延文五年(1360)津戸勘解由左衛門尉菅原則継の菩提を伴う為に沙弥道継が造立したものです。
※谷保天満宮の宮司が津戸姓である為、現在は天満宮の所蔵

〇津戸氏の拠点か
津戸則継や道継の名を同時代の史料に見出すことは出来ませんが、鎌倉~室町時代の初期に武蔵国の武士として確認出来る著名なのは浄土宗の開祖法然上人に帰依した津戸三郎為守です。
その本拠地については埼玉県鴻巣市吹上下忍の字角戸とする説が有力です。
しかし板碑の出土からすると、西府駅周辺に津戸氏の墓を営むような拠点があったことも間違いありません。
近年の発掘調査を交えれば津戸氏は西府駅周辺に12世紀頃から拠点のひとつを形成し、その後一帯に勢力を扶植していった可能性が浮かびます。

参考資料
〇企画展「発掘された中世遺跡 ー府中市西府の考古学ー」府中市郷土の森博物館 展示解説
〇府中市郷土の森博物館だより「あるむぜお」NO.116
〇府中市史上巻
〇現地解説板

※地図は後ほど掲載します_(._.)_

※2016年10月12日追記 訪れた場所をグーグルマップに落としました。


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