
四半世紀(以上)前の『お兄ちゃんと妹』(^^)。
先日実家に帰ったとき、結婚式で使う「小さい頃の写真」を何枚か探してきたのですが、その中の一枚です。二人がもうちょっとくっついてたら良かったのだけど、「ずんぐりむっくり具合」がなんとなく可愛くて載せてみました。
…恐らく、お兄ちゃんの真似をしているところの写真だと思われます。
…よく見ると私の重ね着っぷりが徹底してます。お母さん、ありがとう(^▽^)
この頃の私はもう既に腎臓の病気を発症して何年かたっていて、毎日が「死と隣り合わせ」とまでは言わなくても「命の危険は遠からず」でした。毎日毎日、強い薬を浴びるほど飲んで保たれてた日常生活。薬と注射と病院通いは小さい頃の私にとって、ご飯を食べることと同じくらいの「日常」でした。「18歳まで生きないかもしれない」と医師に宣告され、一つの風邪が命取りになる状態でした。
両親は私が18歳の誕生日を迎えた夜、二人でこっそり祝杯をあげたそうです。それくらい特別な日だった、と教えてくれました。
…私が両親に感謝してるのは、どんな状態でも「特別扱い」せずに育ててくれたことです。病気なのも、病院通いのため幼稚園をお休みしなきゃいけないのも、毎食後に薬を飲まなきゃいけないのも、みんなみんな「特別なことじゃないよ」と言われてました。父はいつも冷静で思慮深くて、母はいつも明るくて強くて、兄はしっかりと私を守ってくれました。だから私の病との闘いは悲しい記憶としては残っていません。『思い出すのも忌まわしいくらい痛かった』とか、『んもぅ、お願いだから、一思いに楽にしてくれ、と思うくらい辛い検査だった』とかいう記憶はあるのですが、自分を可哀相だと思ったこともありませんでした。
体を病んでる場合、「心まで病気に支配されない」というのは、実はそう簡単なことではありません。そこは家族に救われました。いっつも明るい家族でした

。…本当は「治る見込みのない日々に、気がおかしくなりそうなこともあった」と母は言いました。渡米後、あまりの私の難病具合に病院から「原因も治療法も不明」という診断が下ったことがあります。ドクターが私を抱きしめて「もう日本に帰りなさい」と言ったときは目の前が真っ暗になった、とも言いました。父もそんな娘を置いて出張で度々家を空けるのは辛かっただろうなぁ、と思います。。幼い兄は、私の通院のときはじーっと一人でお留守番をしてました。寂しかっただろうな、と思います。我慢したんだろうなぁ、と。…何を思い出しても、家族に感謝、感謝なのです。

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そして家族はもちろん、それ以外でも色々な人に支えられ、救われて今の私の命があります。
・・・だから、本当は私は知っているのです。
健康を害してまで「しなければならないこと」なんて、すごく少ないんだってこと。
だから自分が下すべき結論についてもちゃんと分かっています。あとはただ、納得するだけ。自分が「うん!」って自信を持って決断を下せるよう、納得するだけ。
…もうちょっと時間がかかるかなぁ。うん。
ちなみに、アメリカ時代、お医者さんに「もう日本に帰りなさい」と言われたとき。。いや、違うな。あの時じゃなくて、他の「原因不明病」で私の右足が激痛と共に動かなくなり、松葉杖をつくという生活に陥ったことがありました。そのときにうちの両親がとった行動は何でしょう?(^^)
答え:「めげてても始まらない、ハワイにでも行こう!」と娘を車椅子に乗せてハワイ旅行に行った。(発案者:母)
・・・そのハワイ旅行は、とても楽しかったのです。どこまでも明るい家族でありました。
そんな家庭を、私も築きたいと思ってます