
東京国立博物館の敷地を出てJR上野駅へ向かいます。竹の台広場に差し掛かるとちょうど噴水が稼働していました。この噴水も再整備工事に合わせて稼働が中止されたいたのですが、2012年5月12日に完成記念式典が実施されてその日から新しい噴水が稼働しています。

広場全体を三千人規模の大イベントも開ける「文化の森」の中核として、東京都が二年がかりで整備した事業の一つであるこの噴水。新しい噴水は普段は高さ七メートルまで勢いよく水を噴き上がります。一方で、広場での野外オペラ公演などを想定し、水を抜けば観客席や舞台として使えるよう階段状の構造になっています。

改修に当たり、利用者から「噴水越しに国立博物館を望む思い出深い景観を残してほしい」との声が数多く寄せられたことから、昔の噴水の面影を残しつつ、多用途に使えるようデザインされています。四百七十トンの地下貯水槽や三カ所の防災トイレ、ヘリポートなど防災機能も加わっています。

JR上野駅へ向かって歩いて行くと「国立科学博物館上野本館」の建物が見えてきました。旧東京博物館上野新館として建設されたこの建物は昭和6年(1931年)に竣工しました。当初は1887年(明治10年)教育博物館として開園しました。 当初の建物は、1923年(大正12年)の関東大震災により全焼したため、新たに再建されました。

平成20年(2008年)には日本館(旧東京科学博物館本館)が重要文化財に指定されています。しばらく建物を観察していると小学生の集団が校外学習か何かで正門から敷地内に入って行きました。

時刻は午後1時過ぎ、強烈な日差しが公園内に照りつけてきますが、新緑の木々がガードしてくれます。それでも水分を取らないと脱水症状の危険性を感じます。

しばらく歩くと「国立西洋美術館」の敷地に到着しました。以前の上野の散策の時は午後4時半過ぎに訪れたので、敷地内は閑散としていましたが、午後の時間帯ですと修学旅行生の生徒さん達がいるなど賑やかでした。以前の記事で「国美」の歴史などを述べたことがありますが、もう一度詳しく調べてみました。

皆さんは「松方幸次郎」という人物をご存知でしょうか。鹿児島県出身で東京帝国大学・フランスのエール大学を卒業して明治29年(1896年)川崎財閥創設者・川崎正蔵に要請されて株式会社川崎造船所初代社長に就任します。それをきっかけとして大阪舎密鉱業(31年)、神戸瓦斯(同)、神戸新聞(32年)、神戸桟橋(41年)、九州電気軌道(同)、九州土地信託(同)、川崎汽船(大正9年)、国際汽船(同)、神港倶楽部、ベルベット石鹸、日本ゴム蹄鉄、の社長に就任し、その他11社の役員をつとめ、一方神戸商業会議所会頭、明治45年(1912年)衆議院議員に当選し神戸の政財界の巨頭でありました。

ちなみに松方幸次郎氏の父親は第6代内閣総理大臣の松方正義氏です。明治新政府樹立の頃から内閣総理大臣や大蔵大臣などを歴任し、日本銀行を設立するなど明治時代の日本国家の運営に尽力を尽くした人物です。その息子である松方幸次郎氏は川崎造船所の社長時代(年代的に第一次大戦前後)にヨーロッパで絵画、彫刻、浮世絵を買い集めており「松方コレクション」と呼ばれていました。

昭和2年の金融恐慌で川崎造船所は破綻し、川崎造船所に巨額の融資を行っていた兄の松方巌が頭取を務める十五銀行も破綻し川崎正蔵が築き上げた川崎財閥は崩壊します。コレクションの一部は売り払われたりしてしまいましたが、パリに残された約400点の作品は、リュクサンブール美術館(当時のフランス現代美術館)の館長レオンス・べネディットに預けられ、彼が館長を兼任したロダン美術館の一角に保管されていました。この作品群は第二次大戦の末期に敵国人財産としてフランス政府の管理下に置かれ、1951(昭和26)年、サンフランシスコ平和条約によってフランスの国有財産となります。

昭和25年(1950年)から日本政府によって松方コレクションの返還交渉が始まったが、難航してました。1951年のサンフランシスコ講和会議の際に、首相吉田茂がフランスの外務大臣に要求し、返還されることが決定します(平和条約によれば、連合国に管理されている日本の財産はそれぞれの国が没収するが、個人の財産は所有者に返還されるはずであった)。しかしその後の交渉の中で、コレクション中、重要なゴーギャンやゴッホなどいくつかの作品についてはフランス側が譲らず、結局、絵画196点、素描80点、版画26点、彫刻63点、書籍5点の合計370点の作品が、美術館を建設して展示するという条件付きで返還されました(フランス側は「寄贈だ」と主張したため、「寄贈返還」という言葉が使われた)

1954年11月には補正予算で建設費5千万円が認められます。建設地はいくつかの候補地の中から、上野公園内、寛永寺の子院の凌雲院跡地と決まり、建物の設計は20世紀建築の巨匠ル・コルビュジエに依頼することも1954年に決定します。195年(昭和30年)3月には建設予定地にて鍬入式を挙行されます。同年11月にはル・コルビュジエ本人が来日して、建設予定地を視察しました。

1959年(昭和34年)1月23日、フランス外務省にてコレクションの日本への引渡式が行われ、4月には作品が船で日本へ到着しました。国立西洋美術館の本館の建物自体は同年3月に既に竣工しています。同じ4月、国の機関としての国立西洋美術館が設置され、富永惣一氏が初代館長に就任しました。同年6月10日、高松宮宣仁親王夫妻や岸信介首相らの臨席のもと、開館式が挙行され、6月13日から一般公開が開始されました。

1959(昭和34)年3月に竣工した本館の建物は地上3階、地下1階、棟屋1階建ての鉄筋コンクリート造りとなっています。1964年に開催された展覧会「ミロのビーナス特別公開」は話題を呼び、4月8日から5月15日まで、38日間の会期中に83万人が来場しました。その後昭和54年(1979年)には新館が竣工し、平成6年(1994年)には企画展示室が増設されています。

国立西洋美術館の脇を通り抜けて50メートルも歩くと、JR上野駅の公園口の駅舎が見えてきます。

国立西洋美術館の裏側にはJRの線路が走っており、上野駅から歩いても5分もかからないです。