京北トンネルが昨年12月21日に開通した為、歩行者と自転車専用道になったバス道を歩きました。
以前京北観光ボランティアガイド養成講座で細野の石井敏雄さんから、「栗尾峠から見えるもの」と題した講義を聴いたことを思い出し、ゼミナールハウスの西の鯖街道講座に取り入れました。今回、勿論この石井敏雄さんに案内をお願いしました。
この街道歩き、スタートは小栗尾峠です。栗尾バス停の近くから5分程上るとちょうど現在の栗尾トンネル(青風洞隧道)の真上です。
小栗尾峠
お地蔵さん2体と経塚の碑があります、大きな方の地蔵さん何故か通りの方を向かずに周山の方を向いて立っておられます。
経塚ですが、石碑の下に「文化十三」という文字がありました。江戸時代の末期のものなのでしょうね。興味を抱いたのは碑の側面に「弐石一字」と書かれています。一石一字経が普通なのですがねぇ。そもそも一文字を二石にどうやって書くのでしょうね。
すぐ先は大きく切り通しされた峠で、昔の人の往来を感じさせてくれます。昔はこの小栗尾峠から大栗尾峠を越えて細野へと街道があったのでしょう。大栗尾峠のすぐ下には茶屋跡と思われる平削地や弘法大師の石碑があり、ここも昔の往来を往来を感じさせてくれますが、私はこの栗尾峠越えは近世以降に多く利用されたのではという仮説をもっています。それまでは河原谷を利用して細野の余野へのルートが主ではなかったろうか?という考えです。伏見坂・雲月坂を越えて大森~真弓~前坂~長坂から長坂口へ向かうのが合理的だったのではという考えです。
これを書き出すと長くなりますので別の機会に、ということで、今回はトンネル開通前のバス道を歩きます。
自然観察がすぐ始まります(^_-)これはマタタビの観察でしょうか。
いつもは車で通っていると目に入らないことを石井さんに教えて貰いました。車道として整備されていった跡が残っているのです。尾根が張り出した部分などは最初はその地形通りに道をつけたが、来るだけショートカットされて昔のルート跡が残っている部分です。これは歩いてみないと分からないですね。車社会といっても今の自動車用の道は明治も後半以降で、まずはベタ(牛に引かせる荷車)が通れるようにするというのが課題であったと思います。
展望台が出来ていました。
ここらの眺望を前に石井敏雄さんに多くを語っていただきました。丹波の赤海伝説と八津良神社・城山(周山城趾)・真下を流れる大堰川(桂川)と杣御料や筏の話、魚が淵や鮎の話、、、話題が多すぎて全部覚えてられませんでした。
京北をガイドする人に、この景色を前にしてどれだけの話が出来るかをテストしてみれば、その人が京北の過去と未来について常日頃どれだけ勉強しているかが分かることでしょう。
私はこの景色を前にして、大陸文化の窓口だった若狭と京の都への道が通る地、豊富な森林資源、この二つで京北の地政学的意義を語ることでしょう。この二つで京北の過去のかなりのことが語れます。いずれにしてもこの地がなければ平安京は出来なかったといっても過言ではないでしょう。
六部塚もゆっくり眺めることができました。
六部さんの言い伝えは全国各地にあり、ここ京北でも塔地区にも塚があります。祠がきれいに維持されているのは杣人のおかげでしょうか。
その後峠まで歩いて大川表林道に入ってお昼の弁当をいただきました。周山城趾のある城山が真ん前に見えます。
少し西へと歩き京北トレイルの細野は高間谷へと下りました。この道は自然林も残る足に優しいルートです。二条さんの散歩道とも鮎師の道ともいわれます。
細野に下りてまず二条家屋敷や細野城があったと言われる御殿山を目指しましたが倒木に阻まれました。続いて薬師寺へ。若き女性住職さんがおうすと羊羹で迎えていただき、お寺の由緒書きの絵巻を広げていただき、石井さんの説明を聞きました。この寺については京北の歴史を語るに多くのことを提供してくれますし、それよりも人が手を回しても抱えきれない太い立派な欅の柱には圧倒されます。柱の傷跡にも周山城にまつわる伝承もあり、古い鐘など話題いっぱいですが今回はパスしておきます。
上にも書きましたように、この峠越えで書き始めるとテーマが多すぎて書き切れませんので、本日はここまでにしとうございます。
以前京北観光ボランティアガイド養成講座で細野の石井敏雄さんから、「栗尾峠から見えるもの」と題した講義を聴いたことを思い出し、ゼミナールハウスの西の鯖街道講座に取り入れました。今回、勿論この石井敏雄さんに案内をお願いしました。
この街道歩き、スタートは小栗尾峠です。栗尾バス停の近くから5分程上るとちょうど現在の栗尾トンネル(青風洞隧道)の真上です。
小栗尾峠
お地蔵さん2体と経塚の碑があります、大きな方の地蔵さん何故か通りの方を向かずに周山の方を向いて立っておられます。
経塚ですが、石碑の下に「文化十三」という文字がありました。江戸時代の末期のものなのでしょうね。興味を抱いたのは碑の側面に「弐石一字」と書かれています。一石一字経が普通なのですがねぇ。そもそも一文字を二石にどうやって書くのでしょうね。
すぐ先は大きく切り通しされた峠で、昔の人の往来を感じさせてくれます。昔はこの小栗尾峠から大栗尾峠を越えて細野へと街道があったのでしょう。大栗尾峠のすぐ下には茶屋跡と思われる平削地や弘法大師の石碑があり、ここも昔の往来を往来を感じさせてくれますが、私はこの栗尾峠越えは近世以降に多く利用されたのではという仮説をもっています。それまでは河原谷を利用して細野の余野へのルートが主ではなかったろうか?という考えです。伏見坂・雲月坂を越えて大森~真弓~前坂~長坂から長坂口へ向かうのが合理的だったのではという考えです。
これを書き出すと長くなりますので別の機会に、ということで、今回はトンネル開通前のバス道を歩きます。
自然観察がすぐ始まります(^_-)これはマタタビの観察でしょうか。
いつもは車で通っていると目に入らないことを石井さんに教えて貰いました。車道として整備されていった跡が残っているのです。尾根が張り出した部分などは最初はその地形通りに道をつけたが、来るだけショートカットされて昔のルート跡が残っている部分です。これは歩いてみないと分からないですね。車社会といっても今の自動車用の道は明治も後半以降で、まずはベタ(牛に引かせる荷車)が通れるようにするというのが課題であったと思います。
展望台が出来ていました。
ここらの眺望を前に石井敏雄さんに多くを語っていただきました。丹波の赤海伝説と八津良神社・城山(周山城趾)・真下を流れる大堰川(桂川)と杣御料や筏の話、魚が淵や鮎の話、、、話題が多すぎて全部覚えてられませんでした。
京北をガイドする人に、この景色を前にしてどれだけの話が出来るかをテストしてみれば、その人が京北の過去と未来について常日頃どれだけ勉強しているかが分かることでしょう。
私はこの景色を前にして、大陸文化の窓口だった若狭と京の都への道が通る地、豊富な森林資源、この二つで京北の地政学的意義を語ることでしょう。この二つで京北の過去のかなりのことが語れます。いずれにしてもこの地がなければ平安京は出来なかったといっても過言ではないでしょう。
六部塚もゆっくり眺めることができました。
六部さんの言い伝えは全国各地にあり、ここ京北でも塔地区にも塚があります。祠がきれいに維持されているのは杣人のおかげでしょうか。
その後峠まで歩いて大川表林道に入ってお昼の弁当をいただきました。周山城趾のある城山が真ん前に見えます。
少し西へと歩き京北トレイルの細野は高間谷へと下りました。この道は自然林も残る足に優しいルートです。二条さんの散歩道とも鮎師の道ともいわれます。
細野に下りてまず二条家屋敷や細野城があったと言われる御殿山を目指しましたが倒木に阻まれました。続いて薬師寺へ。若き女性住職さんがおうすと羊羹で迎えていただき、お寺の由緒書きの絵巻を広げていただき、石井さんの説明を聞きました。この寺については京北の歴史を語るに多くのことを提供してくれますし、それよりも人が手を回しても抱えきれない太い立派な欅の柱には圧倒されます。柱の傷跡にも周山城にまつわる伝承もあり、古い鐘など話題いっぱいですが今回はパスしておきます。
上にも書きましたように、この峠越えで書き始めるとテーマが多すぎて書き切れませんので、本日はここまでにしとうございます。
山道は良いですね。 写真を拝見していても歩いてみたい道です。
お地蔵さんはなぜ同じ方向を向かないのでしょう? 不思議なことが起こるものですね。 誰かが大きなお地蔵さんの向きを変えたのでは?と思ってしまいます。
観音さまやほかの仏像も同じだと思いますが、写真を撮るときは、光背を付けたり付けなかったり、冠を外してみたり、といろいろなことをするそうですね。
あるときお地蔵さんを修理に出したら、光背がついて戻ってきて、檀家さんが驚いたと言ってられました。 「修理どころと寺や持ち主と話し合って決めます。」と言ってましたが、檀家さんは話し合いに参加できないようです。
この街道歩きには山紫陽花や岩がらみの群落はないのですか。 今月は毎日のんびりさせてくれる日が無くて、時間と追いかけっこをしてます。 雨になった今日は、やっと本社山岳部OB会が作成してくれた山の歌のCDを聞きながらコメントをさせていただいてます。 若いころ山で口ずさんでいた歌を聞いていますと、帰らぬ時代が思い出されうるうるしますね。
仰るように舗装された道は足には優しくないのですが、車道は傾斜が緩やかなぶん歩きやすい面もありますね。ただこの周辺は杉林ばっかり。でもかなり伐採されてしまいました。アジサイや岩がらみは咲いていないです。どういう森に変化していくことでしょう。
当日は昔のルートがどうだったとか、眺める景色の歴史的なことに頭がいっぱいでゆっくり自然観察は出来ませんでした。新しい発見もありましたし、またいろいろ歩いてみたい道になりました。大栗尾峠から小栗尾峠を結ぶ昔のルートが分からないのです。一旦植林されると昔の道が消えてしまいますし、今や明治生まれの人は稀少になり話も聞けません。
小栗尾峠の大きな地蔵さん、何で横を向いておられるのでしょうか。以前訪れた時は、、、いやいやどうだったんだろうと昔の写真を探してみます。まさか誰かが横に向けたとは信じがたいのですが、どうも腑に落ちない、というのが我が記憶であり感想です。おかしなことにこの峠への登り道の途中にある小さな地蔵さんが台座から外されて横に置かれていたのがどうも気になってきました。
かの高木師匠案内の徘徊で街道を歩いているときも道標が話題になりますね。道路工事などで移動されたりしますし、いろんな考察が必要です。これに関して思うのは古文書に書かれていることも疑ってかからないといけないということです。まず信頼できるか疑ってからかからねばなりません。歴史を語るのは難しいことです。
お地蔵さんや石標、道標など文化遺産はきちんと記録しておかないとと考えるこの頃です。先日ある郷土史家が他界されました。これについてもこのブログで書きたいのですが、さらさらっと書けることでもなし悶々としています。
今日はかの徘徊が大阪が舞台で、私が住んでいた近辺もコースに含まれているのですが、今回は参加を断念しました。明日明後日は山城ハイキングで京丹波町や綾部の城を巡ってきます。少人数での講座ですが、ハイキングを兼ねて中世の山城を訪ねています。我々にはちょっとした地形でも専門家に解説して貰うと昔の姿がイメージされてきてちょっとはまっています(^_-) 5月には煉瓦造りでは日本最古の鐘が坂トンネルを通りコウモリのにも合いました。金山城へ上り鬼の架け橋も見ました。9月17・18日の講座では若狭の三方五湖近くまで足を伸ばして国吉城を訪ねます。発掘作業もされていて資料館もあり、秀吉・家康の朝倉攻めからの退却路でもあり、若狭と越前の攻防にとって重要な役目を果たした城でもありました。
あ、そうそう、一週間前にホタルを見に行きましたがかなり飛んでましたよ。鎌倉では如何ですか?明日は山城ハイキングの参加者とお塩へ行ってみようと思っています。
昔の仲間が作ってくれた山の歌のCDを聞きながらって羨ましいぃ。立山を舞台にした映画『春を背負って』が上映されている様ですね。木村監督でしたっけ、立山が好きなんですね。
かっては、自宅庭でも見ることができたのに、と思う方が多いのではないですか。 ホタルが帰って来ると言うことは、川の水がきれいになった、ということなのですが、海の水が、どうしたことか赤潮が時に発生するようになってしまいました。 昭和を生きてきた人たちにとっては、初めて見る海の変化です。
峠道、大切な道路だったのですね。 トンネルで便利になったのでしょうか。 もう思い出だけの世界に・・・ いろいろなことがそうなりつつあります。
昼間は山城ハイキングで道無き山をさ迷っておりましたが、山城研究の専門家に案内して貰うと400年以上前の世界が浮かび上がってきて楽しいものです。山城を探訪しているとこの評論家でもこの国際情勢などを甘く見ているなぁ、という感想です。特にマスメディアに登場するコメンテイタアーと言われる人の薄っぺらい感想を聞くにつけ、昔の人からリアリズムについて教えて貰うことがいっぱいあります。で、その講座のお客様を二条駅まで送って職場へ帰ると別の講座に参加されていたお客様をホタルを見につれていけないというので、俺行くよと申し出て急遽出かけました。皆さんホタルを見る機会がほとんど無い様でそれなりに喜んでいただけた様でした。
トンネルが出来て確かに便利になりましたね。この栗尾峠越えは京北の人には様々な思い出が残っていることでしょう。