先日職場の企画「西の鯖街道シリーズ」で廃村八丁を訪れた。八丁の廃村跡で休憩しているとき地元京北からの参加者のお一人が、「京北も廃村になるのかなあ~」と仰った。実は小生もここ京北での昨年の出生数が確か26人だというニュースをショックで読んだ事を書いたと思う。それ以来、廃村、という言葉は脳裏から離れなかった。まあ今の京北地域全体が、では無いがその一部の集落が無くなるということは現実味があると思っている。
という訳で我がご近所にある「廃村」について少し書いてみたいと思いました。
一番有名なのは八丁です。ハイカーに有名な「廃村八丁」であります。これについては他に書くこともありますので今回はパス。
「田尻」
京北は細野、国道162号線の愛宕道から松尾峠に向かう途中にあります。常照皇寺の開祖、光厳天皇が松尾峠を越えて細野の薬師寺へと向かわれた道の途中にあります。ここへは3回ほど訪れたことがありますが、その歴史については今の小生の手許には殆どなし。
「大及(おおぎゅう」
最近いわれる鯖街道、名田庄と鶴ヶ岡を結ぶ交通の要衝として栄えた大及です。国道162を鶴ヶ岡から北上、堀越峠のトンネルに入る少し手前を右(東)に入る旧国道を少し進んだところにあったそうです。水上勉「飢餓海峡」にも「大汲」として登場するそうです。昭文社の地図には、「大及(廃村跡)」と表示されています。
「灰野」と「野田畑」
京都大学の芦生演習林、トロッコ道を進んだところにあります。佐々里峠から演習林の由良川へと下りた地点です。知井誌に面白い記述があります。昔ここが一番奥まった集落だと思っていたところ、ある日上流から杓子が流れてきた。という訳で捜索隊が出かけたところ、長治谷を更に上流へと少し進んだところにある「野田畑」が発見された。これを報じた明治時代の新聞は、税金を払わなくても暮らしがなりたっている「現在の桃源郷」、明治村として報道されたそうである。
その「灰野」も電気の時代になったのにここまで電線が架設されないので廃村になったという。いまも屋敷の石垣などが残っています。
灰野に限らず、芦生の演習林の谷には木地師の集落があちこちに合ったはずで、それらも廃村といえば廃村になるのではないかしら。
廃村として話題になるのはこういった地区であるが、例えば「片波」などは家は数軒あるが実際生活されているのはお婆さんが一人と聞く(ある日子供が遊ぶ姿を見たのでこれは本当かどうかわからない)と、廃村といわれるようになるのはそう遠くないと思われる地区はあちこちにあるように思う。魚ケ淵の吊り橋を渡ったところにあった高瀬地区には宇津の栃本の飛び地として3戸の家があったが今は無し(まだ使える家屋は別荘の様にして使われているが)。芹生の里は?宇野の集落は?初川は?今これらの集落の人口構成はどうなっているのだろう。今の人口構成を考えると50年先に果たして住人が残っているであろうか?と心配する集落はあちこちにある。
でもこの過疎化現象は全国あちこちの地方で進んでいることなのでしょうね。これに関しては我が考えは混沌としておりますのでここでは言及できません。序論の入口の入口としての話としてお読み下さい。
という訳で我がご近所にある「廃村」について少し書いてみたいと思いました。
一番有名なのは八丁です。ハイカーに有名な「廃村八丁」であります。これについては他に書くこともありますので今回はパス。
「田尻」
京北は細野、国道162号線の愛宕道から松尾峠に向かう途中にあります。常照皇寺の開祖、光厳天皇が松尾峠を越えて細野の薬師寺へと向かわれた道の途中にあります。ここへは3回ほど訪れたことがありますが、その歴史については今の小生の手許には殆どなし。
「大及(おおぎゅう」
最近いわれる鯖街道、名田庄と鶴ヶ岡を結ぶ交通の要衝として栄えた大及です。国道162を鶴ヶ岡から北上、堀越峠のトンネルに入る少し手前を右(東)に入る旧国道を少し進んだところにあったそうです。水上勉「飢餓海峡」にも「大汲」として登場するそうです。昭文社の地図には、「大及(廃村跡)」と表示されています。
「灰野」と「野田畑」
京都大学の芦生演習林、トロッコ道を進んだところにあります。佐々里峠から演習林の由良川へと下りた地点です。知井誌に面白い記述があります。昔ここが一番奥まった集落だと思っていたところ、ある日上流から杓子が流れてきた。という訳で捜索隊が出かけたところ、長治谷を更に上流へと少し進んだところにある「野田畑」が発見された。これを報じた明治時代の新聞は、税金を払わなくても暮らしがなりたっている「現在の桃源郷」、明治村として報道されたそうである。
その「灰野」も電気の時代になったのにここまで電線が架設されないので廃村になったという。いまも屋敷の石垣などが残っています。
灰野に限らず、芦生の演習林の谷には木地師の集落があちこちに合ったはずで、それらも廃村といえば廃村になるのではないかしら。
廃村として話題になるのはこういった地区であるが、例えば「片波」などは家は数軒あるが実際生活されているのはお婆さんが一人と聞く(ある日子供が遊ぶ姿を見たのでこれは本当かどうかわからない)と、廃村といわれるようになるのはそう遠くないと思われる地区はあちこちにあるように思う。魚ケ淵の吊り橋を渡ったところにあった高瀬地区には宇津の栃本の飛び地として3戸の家があったが今は無し(まだ使える家屋は別荘の様にして使われているが)。芹生の里は?宇野の集落は?初川は?今これらの集落の人口構成はどうなっているのだろう。今の人口構成を考えると50年先に果たして住人が残っているであろうか?と心配する集落はあちこちにある。
でもこの過疎化現象は全国あちこちの地方で進んでいることなのでしょうね。これに関しては我が考えは混沌としておりますのでここでは言及できません。序論の入口の入口としての話としてお読み下さい。
ただ、歎いてばかりいても何も解決はしません。綾部市は「水源の里条例」を公布し、水源地域は「水源のかん養、国土、自然環境の保全、心をいやす安らぎの空間等として重要な役割をになっている…」と謳って、地域の振興と住民福祉に一歩を踏み出したそうです。
「植樹された人工林が人手不足で荒廃すると、下草が育たず、土地がやせ、大雨が鉄砲水となって川床を洗う。そうなれば、微生物も育たず沢蟹や泥鰌や魚も棲めなくなる。この連鎖は海の漁場に影響し、渇水は都市の水不足ともなる。しかし、高度経済成長政策で農民を切り捨ててきた国は、いまだになにもしていない」(『山村環境社会学序説』大野晃)。
こうしたお話を聞くにつれ、激烈な怒りがこみ上げて参ります。どの地方でも一極集中でありまして、経済だけが人間の価値を決め兼ねない事態は眞に憂慮すべきであり、今まさにその時だけの行政や政治のあり方に憤りを隠せないのです。百年の計どころではなく十年の計すらないように思えてなりませぬ。お金で人間の価値が決まるならこんな楽なことはありませぬ。そうでないから苦しいのであって、こうした悲惨な廃村の報に触れるたびに、激烈な怒りがこみ上げて参ります。もっと主体的に地方や寒村から大いなる何らかの発信をすべきでしょう。又そうなるように頑張りたいものですね!
大野晃さんの著作からの引用ですが、この指摘は山を歩いていると実感できます。山が荒廃すれば困るのは下流の都市の人達なのでしょう。ご指摘通りなのですが、、、では具体的にどうすればいいのか?じっくり考えていきます。
今日は雨の中、八ガ峰方面の下見に行ってきます。
硯水亭さまのブログで日本の櫻の危機のお話を読ませていただいたり、北極の氷の変化などを聞いたりしますと大きな視点からものを見ないといけないなあ、と考えさせられます。
私は折角自然を感じることの出来る環境に生活しているのですから、自分として何が出来るか、ネットワークを築きながら考えて行きたいと思います。
今、BS2で粘菌の番組を放映していますが、南方熊楠が思い出させられます。この偉人から学ぶべき点が多々あるのではと考えるようになりました。
おっしゃらる通りです。南方熊楠先生は大変に重要な人物です。現代になって見れば尚更その重要さを増して来ているでしょう。でも方法的にはやはり柳田國男先生の実証主義的な方法を合わせ持つべきではないでしょうか。折口学はご本人の直観力が中心ですから、弟子は育ちませんでしたが、近年その直観力も注視されて来ています。但し根拠・論拠を持つべきだということには変わりありません。類推の部分では構わないと思いますが。
今我がブログの道草先生に対して、お返事を書かせて戴きましたが、Mfujinoさまのお名前を使わせて戴きましたことを、先ず持って御断りさせて戴きたく存じ上げます。今日の東京は三月上旬のような寒さです。ではお互いに頑張って参りましょう!
南方熊楠さんはテレビ番組で得た知識しか持ち合わせていません。しかしその博学ぶりにはただ舌を巻くばかりであります。熊野古道を歩いていて紀伊田辺駅で、田辺出身の三大偉人に、弁慶・南方熊楠・え~と名前忘れましたが合気道の創始者が駅に書いてあったのを懐かしく思い出します。数々の業績を聞くにつけ、彼の「視点」の素晴らしさには驚嘆するのみです。
それにしても、民俗学を勉強しろとか、いろいろ硯水亭先生は厳しい先生であります。ダボハゼ藤野は今あちこち手を出しすぎて戦線拡大。参謀室が困り果てておりまする。今日は納豆に関する素晴らしい資料を届けて貰ったり、、あ、納豆に関する勉強も民俗学ですよね( ^_')
足の具合はいかがですか?6月15日は京北の鮎漁解禁日ですよ~。