今日28日、京都市北区の、北区民ふれあい事業のひとつ、「北山杉の里ふれあい体験隊」というイベントが開催された。この事業は北区に編入された、北山の山間地域、雲ヶ畑、中川、小野郷・大森地区を市街地に住む同じ北区民の人達にも訪れて知って貰おうという企画らしい。
最終回となるこのイベント、今回のプログラムは、ミニ歴史講座・散策・体験という内容で、私はその講座で西の鯖街道について話をした。10時に始まり、歴史講座でまずは地元の、寺谷義平治さんが「小野学区の歴史」と題して、主に平安京への木材供給地としての小野郷の歴史を話された。
続く私は「西の鯖街道について」という与えられたテーマについて話をした。持ち時間が僅か20分しかないため、事前にPowerPointに地図や要点を整理しておき、それを見て頂きながら鯖街道うんぬんから始まる話をした。短時間なので概論しか話せなかったが、地図などをスクリーンで見て貰いながら説明したのは分かり易かったのではとも思うけれど、自分ではどうもアクセントがきいた説明ではなかったのではと反省している。
杉坂の歴史を語る会の楳田さんも顔を見せられていた。楳田さんの前では話しにくいなあ、なんて挨拶を交わしていたが、ご自身がまとめられた西の鯖街道というご自身の研究成果を20ページにまとめられた冊子を頂いた。
この後、参加者と一緒に日下部住宅を見学させて頂いた。今は国道162号線の傍に建っているが、門を潜ってまず案内されたのが旧道跡だ。これが笠峠を越えて供御飯峠へと向かう昔の道跡だ。この姿を見る機会があったのは感激だ。
トップに載せのがその、日下部(式部)家住宅(京都市指定文化財)を旧道側から、即ち正面からみたもの。今の国道側からみれば裏側に旧道があった。しかしこの家が建てられた頃はこの旧道側が表になる。今の我々は家の裏側をいつも見ていることになる。
この建物は明和9年(1722)年に建てられたもので、千木が7本の立派な建物だが、280年程前の建物とは思えない程きれいに手入れされている。
内部もきれいに保たれている。襖には菊の文様が張られている。昔、宮中に御用材を収めていたが故だろうかとの質問に、ご当主さんもそうだろうとの返事だった。
囲炉裏も残っていた。但し昔は畳一畳程の大きさだったそうだが、今は半分程の大きさだ。上にぶら下がるのは、囲炉裏の熱を利用した乾燥用途のもの。その黒光りが素晴らしい。シャンデリアが残っていますねと冗談を言ったが、明治か大正時代のものか分からないがその優雅な暮らしが伺えた。取り外さないと、と、御当主は仰るが、平成の時代のものならいざ知らず、これはそのままの方が時代の変遷を物語るので残して欲しいと思うのだが。文化財に指定されているので囲炉裏を焚くことは出来ないとのこと。その為、萱葺き屋根の寿命は半分になるとの話しておられた。
日下部家と言えばなんといってもお隣にある、日下部大助邸。京都市登録の文化財だ。小さい頃いろは坂の様な笠峠をバスで越えたあと目に入るこの屋敷は奥地から出てきた小学生にはお城に見えたものだ。笠トンネルの開通に合わせて前の道路が嵩上げされているが、昔はその分低いところから眺めていたので余計に石壁が大きく見えたのだろう。
日下部(大助)家の説明版板
参加者は岩戸落葉神社や桜本寺の平安時代後期の作と云われる木造十一面観音立像も見学された。大森コースを選択されたグループは、安楽寺、椋本家や霧谷の滝などを見学されたという。
会場の小野郷小学校跡のグランドに帰ると、杉玉作り体験などの準備が出来ていた。その一つ丸太磨き体験のコーナーで話していたのだが、次の写真が、北山丸太を磨くにはこの砂でないと駄目だと言われる菩提の滝の砂だ。触ってみるとしっとりとする感じだった。
菩提の滝でとった砂
磨き丸太・下が磨く前で上が磨いたもの
今回のイベントのほんの一部の報告スタイルになったけれど、私にとっては人前で短い時間ではあったが一つのテーマについて話をする初体験であったのでここに記録しておこうと思った。小野郷や大森、真弓や中川は我が家からは15~20分の隣町。鯖街道などの街道研究にも重要な土地である。今日は地元の人と話している時に、今の国道ではない歩きの時代の道はこう通っていたとい情報などを貰えたのも嬉しい1日であった。
屋根のてっぺんの形ですが、先日何かのテレビ番組での聞きかじりですが、地方によって違いがあるようですね。
磨き丸太のことは、大阪万博が開かれた年、万博の帰りに北山杉を見に行こうということになり、友人と行ってきました。 その時は、素手で磨いてました。 大変な作業だということはよーくわかりましたが、北山杉の産地にどのようなコースで入ったかは定かではありません。が、行くのに大変時間を要したということはうっすらと覚えております。 夏休みが一週間あった会社でしたので、大阪・京都と暑いさなか歩き回ったことを思い出しました。 磨き丸太はきれいでした。
チョット質問をさせてください。 和束というお茶の産地をご存知ですか? 実は、ご近所の茶の産地の茶が放射能汚染で問題になり、お茶の葉をどこで買おうかとまよって宇治から取り寄せておりました。 その後いろいろ調べて「和束のお茶がいいらしい」ということになったのですが、京都 和束では京都が入らなければ「和束」とは何処だろう、というくらい私の中では馴染みの無い知名なのです。もしかしてお出でになったことのあるところかしらと思い、お伺いしております。 お米も今まで産直してもらっていたのですが、今まででしたら新米にスムーズに引き継がれていたのが、今年は10年米を買いだめされる方が多く、8月で品切れになりました。 そして、11年米は放射能検査にかからなければ出荷できるそうですが、9月中旬にならなければそれもわからない。 日本ってこんなに生活面で不安のある国だったのでしょうか?
しかも、その日は高雄まで省営バスで行き、そこから峠道を歩いたのでした。
北山丸太を磨いていた小母さん達に藁草履を貰って、その生まれて初めて履いた草履で笠峠から栗尾峠を越えたのでした。
もちろん、西の鯖街道の言葉は存在せず、またその時は北山杉の言葉さえ知らずに、鴬の鳴き声を前後に聞きながら深い森の中を行きました。
ただ、最初は遠足気分ではしゃいでいましたのに、日の落ちた栗尾峠を行く頃は、爽やかな鴬に変わって淋しげな梟が鳴き出しました。おまけに空腹で疲れ果てた私も、最後の頃は泣きながら歩いていました。
その後U村へ疎開してから、7年間の日々に笠峠は何度往き来したことでしょう。もちろん、もう歩くことなどはなくて国鉄バスでした。ただ、あの豪邸の前を通るたびに借りている杣家と比べて、どんな人が住んで居るのだろう、とまるで雲の上の存在に見えたお屋敷でした。
その当時は、まだ一族の方達が住んで居られたのでしょう。文化財に指定されていたのかどうか。私はそんな言葉さえ知りませんでしたが。
川端康成の「古都」で北山杉の里が一躍有名になるのは、それからずっと後のことだったと思います。
私の同級生にも、京北地区のあちこちの在所で北山杉に携わっている者が何人か居ります。廃業した者もあれば、まだ頑張っている者もおります。
北区と右京区では、北山杉の評価はどうなのか知りませんが、この伝統産業の活性化を望んで止みません。
mfujino講師による「西の鯖街道」の講演を聴けずに残念でしたけれど、また少人数でも集めて講義をしてください。
徘徊堂さんの歴史徘徊と協力されて、そのコースに是非加えてほしいものです。
「甦る西鯖街道の杉木立」道草。
日下部家、やはり素晴らしいですね。何時も見ている偉容は裏側だったとのこと、よく考えたらそうだろうけど、全く気付きませんでした。小野郷に多い姓は、全て惟喬親王の従者が先祖だと聞いたことがあります。一度、じっくりと小野郷の方々にうかがってみたいです。
屋根の上ですが、同じ萱葺き屋根でも白川郷などの切妻ではこの様な千木はなかった様に、いやあっても見だたなかったのかもしれません。千木の数でその家の大きさが分かりますが、ここのは7つですね。やや大きい方だと思います。ちなみに私が見た一番大きいのは千木が11あるもので、美山町の大野にあります。
北山丸太は絣の衣装で姉さんかぶり姿の女の人が手で磨いておられました。川端康成の「古都」の映画でその姿を見られた人もあると思います。本文にも書きましたが、中川から京都へ向かう昔の京道沿いにある菩提の滝の砂で磨くそうです。私も触ってみただけの感触ですが、確かに優しいというか繊細な手触りでした。
北山杉の里といえば中川・小野郷ですが、ここへは高雄を通り周山街道をくねくねと走らねばならず、時間が掛かる様に思われるでしょう。今は京都市内の中心部から車で走れば30分かかるかなあ、という位なのですが。
さて「和束(わづか)」ですが、ここは今や京都を代表するお茶の産地です。地図を拡げて頂き京都府の南部を見てください。宇治の西を北上する木津川を南へと上流に遡ります、木津の辺りで東へと延びています。後醍醐天皇で有名な笠置山が目に入ると思いますが、その西北が和束町です。木津川の支流、和束川が加茂のあたりから東北へ北上しています。というか和束川が東北から流れて木津川に加茂の辺りで合流しています。ここの山麓は一面茶畑に覆われていて素晴らしい景色です。中央を流れる和束川を挟んだ丘陵地帯です。南が開かれていますが周囲を山に囲まれ、国道の排気ガスも殆ど無く都市公害のイメージはありません。
私は宇治から宇治川を少し遡上して南に向かい、修験道で有名な鷲峰山(じゅぶせん)~童仙坊~大河原~笠置山へと東海自然歩道を歩いたことを思い出します。その時だったか別の機会だったか忘れましたが、一眼レフにリバーサルフィルム(ポジフィルム)を入れて茶畑を撮影し、それをルーペで見た時の遠近感と緑いっぱいの景色が素晴らしくて感動したことを思い出しました。
お茶の生産では和束は先進産地だと思います。よく分からないので軽々しく言えませんが、和束は宇治茶の一大供給元ではないかと思います。「京都宇治茶の本場和束」などと書いてあるページもあります。私は京都のお茶と云えば和束をすぐ連想します。これに関連した話ですが、奈良の当尾の石仏や浄瑠璃寺、岩船寺などで有名な奈良市北東、当尾から和束近くの加茂までハイキングを楽しんだ時ですが、途中ワサビ田(清流のではなく丘ワサビの田です)の横を通りましたが、これは静岡へ出荷していると地元の人が云っていました。
お米の買い占めですか。こちらの田圃も稲穂が目立ち始めました。来月は稲刈りに忙しいことでしょう。鎌倉街道さまお気に入りのお米が手に入ります様祈っています。
道草さまは鯖街道を語る時は鯖に愛情を持って、と仰いますが、鯖街道を語る時、こんな歴史上短スパンの鯖に目を奪われてはあきまへんという話もしました(^_・)
今私が興味を抱いているのは昔の歩く時代の道です。峠は残っていますが、山の中腹より下は殆ど消えてしまっています。山では植林されていますし、平地は尚更です。でも所々残っていまして、今回も日下部邸の山裾側のルートは私にとってはまさに発見でした。笠峠への旧道の我が推測を話しましたら、小野郷の人の情報ともほぼ一致しました。他にも情報を貰えましたし、これは幸せな時間を過ごすことが出来ました。かの有名な北山の峠の作者、金久さんの情報の間違いに気付いて一人にやにや自己満足したりしております。
北山の山里に眠る歴史文化財を探ると、地方から中央を見る視点があって面白いですよね。小野郷に日下部姓は何軒ですか?と聞くと7軒だそうです。地名やら姓などを手がかりに切り込むのも楽しいですし。今回あちこちコネクションをと意気込んでいたのですが少々肩すかしでしたが、糸口はちゃんと掴んで来ました。
mfujino講師による「西の街道」の講演聴きたかったなー。ご自身でアクセントなになにと云っておられますが、持ち味の笑顔で充分だと思いますが。(失礼でしたらお許しを)
大変失礼なことですが楳田さんの苗字はどうお読みするのでしょうか?供御飯峠でご一緒させて頂き、前を歩かていたお元気なおじいちゃんでしたね。たしか小野郷の方でした?
周山街道を通るたびに日下部家は目につきます。一度拝観したいな、の気持ちいつもあります。さすがですね!きれいに維持されていてびっくりしました。囲炉裏を炊かないと、萱葺き屋根の寿命は半分になる。やはりいぶさないとダメなんですね。
前に「北山杉資料館」で様々な磨き丸太を見せて頂きました。くねくね曲がったのや襞の多いのなど見事なものでした。今、それらの需要は叶えられているのでしょうか?
今回のイベントがmfujinoさんをはじめ集落の方、北区のみなさんとより一層の繋がりがあったことにうれしく思いました。
今回家の中を見せて頂いたのはあの石垣の日下部邸の隣(笠トンネル寄り)にあるのですが私は今迄その存在を知りませんでした。石垣の日下部(大助)邸の中も見たいのですが…。
あ、そうそう絞丸太ですが、楳田さんの先代は天然絞丸太の量産技術をあみ出された方です。今は様々な絞の文様をつくる技術が開発されていますね。京北では細野にある銘木協同組合で毎月1回市場が開かれていて、私もその倉庫を見学しましたが、まあいろんな種類の銘木があることよと感心したものです。北山杉資料館は今は閉館になっていますね。ちょっと下流に新しい施設が出来ていますが、私はまだ入ったことはありません。