北山・京の鄙の里・田舎暮らし

北山、京の北に拡がる山々、その山里での生活を楽しんでいます。

太古の京北.出雲族・賀茂(鴨)族・古墳など

2006-11-16 23:19:41 | 歴史・社寺・史跡など
京北町誌の p15の「大陸文化のはいってきた道」とタイトルをつけた記述;

最初に丹波高原に姿を見せたのは、日本海の沿岸からやってきた出雲族で、彼等は緑の山の環境も美しい丹波高原に住みついていたが、やがて京都の湖が乾上がったあとの上賀茂一帯に移住したものと考えられる。

亀岡地方の神社の縁起によると、亀岡は大昔は湖であったが、大国主命が保津峡を拓いて、この地方を開拓したという伝説がある。

また、上賀茂神社の縁起によると、鴨川をさかのぼってきた賀茂建角命が、部族を率いて上賀茂一帯に進出してくると、先住の出雲族との間に争いをおこしたが、建角命は、やがて出雲族出身の丹波国の神、伊賀古夜日売(いがこやひめ)をめとり、王依日子・王依日売の二子をもうけたと伝えられているが、いずれにしても、大陸からやってきた中国文化は、朝鮮を経て海を渡り、出雲に上陸し、日本海沿岸の国々を拓きながら、丹波高原に達したという歴史的なよりどころば、現在、京北町に発掘されている弥生式文化の遺産が、先史時代の民族移動の一端を物語っている。

中国大陸から瀬戸内を経て、淀川から敗れて桂川をさかのぼってきた秦族は、出雲族がはいってきた年代よりもはるかに後の時代である。

又、p20-21には、古墳時代・前期の記述が;

昭和四十八年の秋、周山中学校の後山から縄野坂峠に至る尾根に、京都府下でもめずらしい方形古墳が四基発見された。そこで、京北町と、同志社大学と合議の上、昭和四十九年八月、第一号方形古墳の第一次合同調査が、同志社大学考古学教室(森 浩一教授)の指導のもとに行なわれた。

この古墳は、斜面を石でおおった石塚風の方墳である。このような方墳は出雲地方に多く、その流れをくむと推定されるものが、丹波から南山城へと分布している。それらの方墳のなかでも周山の方墳は完全に保存されていて、築造年代は四世紀のものと推定され、日本でも貴重な文化財であることが第一次調査でほぼ解明することができた。

さらに第二次調査は、第一号墳と第二号墳とが積石でつながれているところの調査が行なわれるが、その結果はおそらく日本でもめずらしい方形石塚古墳と古墳名が改められる可能性がでてきた。

方形石塚古墳は、中国大陸では古くから発達してきた墳墓型で、四世紀にはすでに大陸の墳墓思想の影響を、いち早く現在の京北町に受け入れ、しかも出雲地方に多く見られる方形石塚古墳と、まったくよく似ているところから考えても、出雲族が日本海の沿岸を通って、丹後から丹波高原にはいり、現在の京北町の地にながい年代に定着し、京都盆地の湖沼が乾きあがったころに京都へ移り住み、加茂川を潮ってきた加茂族と手を握り、後年長岡京から平安京遷都の大事業に対しても参加したことが考えられ、日本古代史を究明する意味でも、今後の学術調査の解明に期待されるところが大きい。

ということで、まず北から出雲族が、そして南は奈良からの賀茂(鴨)族との交流、そしてその後の泰族との交流など、面白い話題を提供してくれます.泰族との関連から大堰川の役割も見えてきそうですし、、



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