散歩の閑人:メタ坊っちゃまのYOASOBI?

若気の至りが過ぎてメタボでも、世遊びは辞められない。

七サバめぐり 4/12【左馬神社】

2020年04月02日 | ☆横浜じゃん

下飯田の左馬神社へは、相鉄線ゆめが丘駅・市営地下鉄線下飯田駅から
行くのが便利なのだけれど、今は周辺を区画整理工事中で、
駅周辺は荒涼とした景色が広がっています。

小田急江ノ島線・市営地下鉄線「湘南台駅」から湘南台公園を通り、
桜並木の境川沿いを歩いて、木橋の渡戸橋を渡ると参道へと続いています。
さて、平安時代末期に「飯田」の名主として、飯田五郎家義がいました。
治承4(1180)年に源頼朝が伊豆で兵を挙げて石橋山に陣を構えると、
平氏方の大庭景親に従って、石橋山に攻め寄せました。
しかし、夜半豪雨の中、敗色が濃くなった源頼朝に味方し、
郎党6騎とともに押し寄せる軍勢を押しとどめ、逃げ延びる時間を稼ぎます。
その上、源頼朝が落とした愛用の念珠を拾い、届けたことで信頼を獲得します。
頼朝が幕府を開くと、これまでの勲功に対する恩賞として、
飯田郷の地頭職を飯田五郎家義に与えられます。
その居館が富士塚公園から富士塚幼稚園辺り一帯にあったと考えられています。

飯田郷は、戦国時代、後北条氏のころに上・下に分かれたようです。
ここは現在、泉区下飯田町で、境内地の字地名は「宮ノ脇」。

祭神 左馬頭源ノ義朝  相殿 宇迦之御魂大神
里伝に、飯田五郎家義が勧請したといい、
また、小田原北条氏の世、当地を知行した川上藤兵衛が勧請し、
武運長久を祈願したともいわれている。
天正18(1590)年、小禄ながら徳川家直参の士、筧助兵衛為春に
当地に190石余の采地を得て在し、
以来、当社を、下飯田の鎮守神として厚く崇敬し、
社殿の修復等報恩の誠をつくしたという。『中和田郷土誌より』

疫病(新コロナウィルス)の無事な収束を願って、
七サバ参りならぬ、十二サバ参りの四社めサバ神社。

扁額「左馬神社」右横書きです。



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