散歩の閑人:メタ坊っちゃまのYOASOBI?

若気の至りが過ぎてメタボでも、世遊びは辞められない。

横浜散歩・牛坂

2010年12月09日 | ☆横浜じゃん
市民グラフヨコハマNO.95「横浜橋めぐり坂あるき」に、牛坂の名前の由来として、次の一文がある。
昔、牛を飼っていた人がいたとか、牛のようにゆっくりでなければ上り下りできないとか、付近に牛天神があったからとかいわれるが、定かではない(この付近には、猿坂、狸坂、山羊坂など動物名のついた坂が多い)。

山下・山手と呼ばれる場所は、幕末から明治にかけて、日本の開国と共に開港された横浜に来た外国人のための居留地とされたところだ。
山手の尾根から根岸の競馬場に至る道筋へ、戸部から長者町の通りを真っ直ぐにとりつこうとする場合に、当時は牛坂が最短だったと考えられる。
今の打越橋のかかる坂は、市電を山元町へ延ばした際に、切り通しとして開削してできたという。
手元にある絵図の本などで、牛坂が太く描かれていないように見えるから、古くは村境程度の役割だったのではないだろうか。
それが、外国人居留地として指定され、その西の境界線を示す坂となるに及ぶと、重要性を増してくる。
人の往来も増えれば、当然、呼び名が必要になる訳で、そのときに呼び慣わされた名が「牛坂」ではないか。
実は、外国人が増えるとともに、食肉や牛乳の需要が増えたために、いくつもの牧場が経営され、町には肉屋や牛乳屋が開店した。
つまり、売り買いされる牛や、荷駄を運ぶ牛の往来が頻繁に見られたというのが、私の推測である。
それに、今は町名となっているが、旧字名の「打越」という地名も、横浜の町名という本には、狭い谷、崖を意味する“ウツ”と、麓、崖を意味する“コシ”を由来するように記述しているけれど、牛の尻を打って坂を越すところから来ているのかもしれない。

固い話は、ここまでとして、牛坂を歩こう。
長者町から車橋を渡ると、石川町5丁目に入る。
山元町へ続く広い道路とはY字に分かれ、左手へ坂道を登る。
すぐにマンションがあり、下のような銘板が取り付けられている。
この辺り、山手町に建っていなくても、マンションやアパートに「山手」を名乗るところが多いのに、このこだわりは牛坂への愛着を物語っている。
ふと、気づくと、マンションの一部は、ブラフ積みといわれる居留地特有の石積の上に建っているのが特徴的だ(見出し写真)。


さらに、登る。
きっと、人もそうだけど、牛もかなりヘタったに違いない。


坂を上り詰めようとした辺りで振り向くと、この景観だ。
すると、門柱のようなものがある。


近づいてみると、右横書きに「番六百弐」つまり、石の門柱に206番と彫り込みがあった。


絵図で確かめると、マンションの上辺りから、205、206、207と続くが、区画はかなり広い。
実際に路地に入ってみると、206番地の枝番が数多く付いている。
その中ほどには、歴史を見続けてきたヒマラヤ杉の大木が立っていた。


坂を左手に、207番地と横浜共立学園の間の道を入っていくと、急に展望(クリックすると大きくなる)が開ける。
その下の校舎は、横浜女学院だ。


フェンス沿いに進むと、横浜共立学園の山手214番館がある。
かつてスウェーデン領事館として使われていた建物で、所在地の214番地は、幕末に活躍した写真家・ベアトの持ち物だったという。


ここから、乙女坂と呼ばれる坂を下りていき、地蔵坂に出て、JR石川町駅へ向かうのもよいし、横浜共立学園の間の道を通って、地蔵坂上からイタリア山庭園に向かうのもよい。


もし、デートの相手が、山手にある中学や高校、大学出身であるなら、きっと感激するかもしれない。
だれでも、自分の通った学校のまわりって、興味が無く、結構知らなかったりするものだから・・・。


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