評価点:73点/2025年/イギリス/115分
監督:ダニー・ボイル
計算された違和感。
レイジウィルスが蔓延して28年が経った。
全世界に広まったウィルスは、大陸で征圧されたが、英国は見捨てられた地となった。
英国本土には一切入国と出国が認められない危険地域とされていた。
イギリス本土から干潮時のみ渡れる離島に住むスパイクは12歳になった。
スパイクは、閉鎖された村で育ち、父と二人で本島への探索を試みることになった。
二人は早朝、干潮時だけ渡れる橋を渡り、本島に降り立つが、そこで待ち受けていたのは28年間で文明が朽ち果てたイギリスの大地だった。
「28日後…」シリーズの最新作である。
前作「28週後…」からかなりの時間が経ったが、続編が公開された。
見終わってから知ったが、どうやら三部作になる予定で、26年の早々に二作目が公開予定とのことだ。
「国宝」に気圧されて、あまり話題になっていないが、私は気になっていた。
見に行くかどうか迷っていたが、ダニー・ボイルが監督とあっては行くしかない。
賛否両論になっていることは知っていたが、見るべき映画であることは間違いないだろう。
監督が作る作品の、あらゆることは計算されている。
そう考える方が、この映画を鑑賞するのにふさわしい。
▼以下はネタバレあり▼
※最近の、國分功一郎の著作を読んでいる影響が、少なからずあることを断っておく。
また【 】の括弧は本当は傍点を打ちたかったがブログなので打てなかった箇所だ。
傍点があるように読んでいただくと嬉しい。
《メタファーとして読む》
なんだこれは。
私はゾンビ映画を見に来たのではなかったか。
そう思った人は多々いるだろう。
しかし、この「28日後」のシリーズが、ただのゾンビ映画ではないことをシリーズの鑑賞者なら知っているはずだ。
むしろフォーカスされているのは生きている人間のほうだし、全てはメタファーであると読まねばならない。
いや、問い方を変えよう。
ダニー・ボイルのこの作品を一蹴するほどに私たちは思慮深いのだろうか。
あるいは、この作品の違和感はどこからくるのだろうか。
ただ単に、「駄作だ」「期待していたのとは違う」と断罪しても、生産性はない。
これらすべてが監督の意図通りなら、どんな意図があったのだろう。
そう考えるところからスタートしたいのだ。
まず世界観を確認しておこう。
レイジウィルス蔓延から28年が経ち、イギリスは世界から見捨てられた国になっている。
言うまでもなくこれは、イギリスがEUから離脱したことのメタファーであり、アイロニーでもある。
荒廃するイギリスは、原始の世界を取り戻し、ほとんど生存者がいない地になった。
大陸は安全を取り戻したようだが、イギリスは全くの手つかずで、見捨てられている。
救助も来ないし、出国することも許されない。
要するに、レイジウィルスに感染した者は、治癒しようとか理解しようとかする対象ではないということだ。
人ととして扱われない、と言ってもいい。
【彼ら】を殺すとき、とりわけグロテスクな描写になっているが、それは彼らは人間ではないからだろう。
しかし、注目すべきは、そんな感染者から赤ん坊が生まれるということだ。
博士は「ありうることだ」と意味ありげな感想を述べるが、どういうことか。
赤ん坊の母親は明らかに昨日今日に感染したような身なりではなかった。
つまり、【感染してから妊娠した】ということだ。
では、父親は誰なのか。
それは、アルファと呼ばれた異常種だろう。
子どもを取り上げたことを知ったアルファは、激高して取り乱す。
その後、博士の隔離された住居まで侵入を試みたのは、強い執着があったからに他ならない。
父親は、感染者であるアルファなのだ。
この出産までにもう一人、妊娠しているような感染者が登場する。
河原でさまよっていた彼女もまた、アルファとの子を宿していたと考えるのが普通だろう。
そんなことがありうるのか?
その問いはどうでもいい。
この世界では、彼らは理解されなかっただけであって、誰も「それは不可能だ」とは言えないのだから。
理解の対象でも、治療の対象でもなくなった感染者は、きちんと「生命としての循環」をもつ生命体だとさえ言えるわけだ。
しかも重要なことは、生まれた赤ん坊は【感染していなかった】。
感染はあくまで後天的なものであり、生まれた人間はすべて【人間】なのだ。
しかし、彼らは理解の対象となっていない。
これはあきらかにメタファーである。
感染者、非感染者、そして一人死を想う博士。
彼らは他人から理解されることができずに〈分断〉されている。
まるで、現在のイギリス社会、もとい現代社会と同じではないか。
アルファも異常な感染者だが、【人間】であることには変わりない。
しかし、だれも【理解しようとしなかった】。
ただそれだけである。
《ラストの〈変調〉の正体》
しかしそれにしても統一感がない物語だ。
あるときはゾンビ映画、あるときは感動ドラマ、そして最後はクライムムービーのような様相を見せる。
なぜこれほどまでに変化の富んだ作品に仕立てたのだろうか。
三部作であるため、この先どんな物語になるのか予想しても生産性はない。
現時点で、あくまでこの作品にのみで語ることしか我々にはできない。
この物語の残酷さは、映像的なグロテスクさにあるのではない。
むしろ、この物語を体験するのがたった12歳の少年である、ということだ。
世界の仕組みも、社会の仕組みも知らない少年。
まだ孤独もウソも、喪失も知らない。
そんな彼は、この世界の初心者である私たち観客とともに、見知らぬ大地に足を踏み入れる。
彼が知っていく世界の残酷な仕組み、視点人物に12歳の無垢とも言える少年を設定したことが、真に残酷なのである。
狩りの仕方、人の殺し方、逃げ方、危険な感染者の見分け方、あらゆることをスパイクは知っていく。
そこで、母親に対する父親の薄情な態度や、母親の死を体験する。
いままで確固たるものだと信じていたものが次々と打ち砕かれていく。
世界が壊れていく様子は、まさに私たちがこの映画で体験する世界の瓦解と同じである。
ゾンビに恐れながら、残酷な狩りを行い、家族との決別や命の尊さを知る。
その展開は、この世界に単純に【没頭させることを許さない】。
それはこの映画自体が現実を反映させたメタファーであるからに違いない。
私たちの世界と地続きであることを示すため、世界を【相対化】させていく。
「なにを感動しているのだ、あんたも同じ世界で生きているじゃないか」と嘲るかのような演出だ。
ラストで感染者よりももっと理解困難な若者たちが登場する。
それは、これまでの物語をすべて吹っ飛ばすような軽薄な者たちだ。
「おまえが積み上げたものなんて、どうでもいいんだ、殺しを楽しむぞ」とばかりの軽薄さだ。
スパイクとともに成長してきたはずの私たちは、戸惑い、混乱し、怒りさえ覚える。
これまでの【理解】はなんだったのだ、と。
しかし、これこそがこの映画のテーマだ。
作品の冒頭で、「私がなぜ生き残ったのか」と神に問うた少年は、成長し、殺しを楽しむ軽薄な青年に成長した。
信仰を忘れた男は、信仰に生きるどころか、神の教えとは全く違う方向で生き延びている。
ここには理解しようもない不毛さがある。
それはZ世代と呼ばれる若者たちの理解しえなさに近いものがある。
感染者も、離島にすむ者もの、変人と言われる医者も、そして新人類のような若者たちも、互いが理解し合うことがない世界。
この映画に、私たちが理解しやすい完結性など存在しない。
完結し得ない世界を描いたのが、この映画のテーマだからだ。
世界はどこまでも、そして取り返しがつかないほどに、〈分断〉されている。
【レイジウィルスとは何か】
めっちゃ長くなっているのだが、もう少し続けたい。
それはレイジウィルスに感染した者たちとはどういう者たちなのか、ということだ。
これはこのシリーズが貫くテーマとなっているのか、そうではないのか、わからない。
ただ、私がこの映画を見ながら、気づいたこと、という程度の考察に過ぎない。
レイジウィルスに感染した者たちは、理性を失い、ただ本能のままに生きている。
正気を失った者は、リビングデッドでゾンビさながらである。
文明も、理性も、判断も、言語も持たない彼らは、凶暴性があるだけで理解しがたい。
28年も放置されていることから、おそらく治癒は不可能なのだろう。
だが、彼らはどんな【目的からも自由に生きている】。
他者から与えられる要請に従って生きていない。
自分が襲いたい相手を襲い、本能のまま生きている。
それは、何かのために生きている【理性ある人間】とは真反対だ。
目的のための手段ばかり追うことを求められる理性ある私たちと、生きることのためだけに生きるレイジウィルス感染者と、どちらが自由なのだろうか。
どちらが【人間らしいのか】。
あるいは、物語の最後に出てきた、殺しを楽しむ若者たち。
彼らと、感染者たちの差異はどこにあるのだろうか。
言語が操れるからと言って、「話ができる」わけではない。
理性的な判断ができる、とはどういうことなのか。
おもしろいとかおもしろくないとか、そういう二元論ではなく、私たちの世界を見渡したとき、この荒廃したイギリスよりも幸せである理由なんて、どこにも見当たらないのだが。
監督:ダニー・ボイル
計算された違和感。
レイジウィルスが蔓延して28年が経った。
全世界に広まったウィルスは、大陸で征圧されたが、英国は見捨てられた地となった。
英国本土には一切入国と出国が認められない危険地域とされていた。
イギリス本土から干潮時のみ渡れる離島に住むスパイクは12歳になった。
スパイクは、閉鎖された村で育ち、父と二人で本島への探索を試みることになった。
二人は早朝、干潮時だけ渡れる橋を渡り、本島に降り立つが、そこで待ち受けていたのは28年間で文明が朽ち果てたイギリスの大地だった。
「28日後…」シリーズの最新作である。
前作「28週後…」からかなりの時間が経ったが、続編が公開された。
見終わってから知ったが、どうやら三部作になる予定で、26年の早々に二作目が公開予定とのことだ。
「国宝」に気圧されて、あまり話題になっていないが、私は気になっていた。
見に行くかどうか迷っていたが、ダニー・ボイルが監督とあっては行くしかない。
賛否両論になっていることは知っていたが、見るべき映画であることは間違いないだろう。
監督が作る作品の、あらゆることは計算されている。
そう考える方が、この映画を鑑賞するのにふさわしい。
▼以下はネタバレあり▼
※最近の、國分功一郎の著作を読んでいる影響が、少なからずあることを断っておく。
また【 】の括弧は本当は傍点を打ちたかったがブログなので打てなかった箇所だ。
傍点があるように読んでいただくと嬉しい。
《メタファーとして読む》
なんだこれは。
私はゾンビ映画を見に来たのではなかったか。
そう思った人は多々いるだろう。
しかし、この「28日後」のシリーズが、ただのゾンビ映画ではないことをシリーズの鑑賞者なら知っているはずだ。
むしろフォーカスされているのは生きている人間のほうだし、全てはメタファーであると読まねばならない。
いや、問い方を変えよう。
ダニー・ボイルのこの作品を一蹴するほどに私たちは思慮深いのだろうか。
あるいは、この作品の違和感はどこからくるのだろうか。
ただ単に、「駄作だ」「期待していたのとは違う」と断罪しても、生産性はない。
これらすべてが監督の意図通りなら、どんな意図があったのだろう。
そう考えるところからスタートしたいのだ。
まず世界観を確認しておこう。
レイジウィルス蔓延から28年が経ち、イギリスは世界から見捨てられた国になっている。
言うまでもなくこれは、イギリスがEUから離脱したことのメタファーであり、アイロニーでもある。
荒廃するイギリスは、原始の世界を取り戻し、ほとんど生存者がいない地になった。
大陸は安全を取り戻したようだが、イギリスは全くの手つかずで、見捨てられている。
救助も来ないし、出国することも許されない。
要するに、レイジウィルスに感染した者は、治癒しようとか理解しようとかする対象ではないということだ。
人ととして扱われない、と言ってもいい。
【彼ら】を殺すとき、とりわけグロテスクな描写になっているが、それは彼らは人間ではないからだろう。
しかし、注目すべきは、そんな感染者から赤ん坊が生まれるということだ。
博士は「ありうることだ」と意味ありげな感想を述べるが、どういうことか。
赤ん坊の母親は明らかに昨日今日に感染したような身なりではなかった。
つまり、【感染してから妊娠した】ということだ。
では、父親は誰なのか。
それは、アルファと呼ばれた異常種だろう。
子どもを取り上げたことを知ったアルファは、激高して取り乱す。
その後、博士の隔離された住居まで侵入を試みたのは、強い執着があったからに他ならない。
父親は、感染者であるアルファなのだ。
この出産までにもう一人、妊娠しているような感染者が登場する。
河原でさまよっていた彼女もまた、アルファとの子を宿していたと考えるのが普通だろう。
そんなことがありうるのか?
その問いはどうでもいい。
この世界では、彼らは理解されなかっただけであって、誰も「それは不可能だ」とは言えないのだから。
理解の対象でも、治療の対象でもなくなった感染者は、きちんと「生命としての循環」をもつ生命体だとさえ言えるわけだ。
しかも重要なことは、生まれた赤ん坊は【感染していなかった】。
感染はあくまで後天的なものであり、生まれた人間はすべて【人間】なのだ。
しかし、彼らは理解の対象となっていない。
これはあきらかにメタファーである。
感染者、非感染者、そして一人死を想う博士。
彼らは他人から理解されることができずに〈分断〉されている。
まるで、現在のイギリス社会、もとい現代社会と同じではないか。
アルファも異常な感染者だが、【人間】であることには変わりない。
しかし、だれも【理解しようとしなかった】。
ただそれだけである。
《ラストの〈変調〉の正体》
しかしそれにしても統一感がない物語だ。
あるときはゾンビ映画、あるときは感動ドラマ、そして最後はクライムムービーのような様相を見せる。
なぜこれほどまでに変化の富んだ作品に仕立てたのだろうか。
三部作であるため、この先どんな物語になるのか予想しても生産性はない。
現時点で、あくまでこの作品にのみで語ることしか我々にはできない。
この物語の残酷さは、映像的なグロテスクさにあるのではない。
むしろ、この物語を体験するのがたった12歳の少年である、ということだ。
世界の仕組みも、社会の仕組みも知らない少年。
まだ孤独もウソも、喪失も知らない。
そんな彼は、この世界の初心者である私たち観客とともに、見知らぬ大地に足を踏み入れる。
彼が知っていく世界の残酷な仕組み、視点人物に12歳の無垢とも言える少年を設定したことが、真に残酷なのである。
狩りの仕方、人の殺し方、逃げ方、危険な感染者の見分け方、あらゆることをスパイクは知っていく。
そこで、母親に対する父親の薄情な態度や、母親の死を体験する。
いままで確固たるものだと信じていたものが次々と打ち砕かれていく。
世界が壊れていく様子は、まさに私たちがこの映画で体験する世界の瓦解と同じである。
ゾンビに恐れながら、残酷な狩りを行い、家族との決別や命の尊さを知る。
その展開は、この世界に単純に【没頭させることを許さない】。
それはこの映画自体が現実を反映させたメタファーであるからに違いない。
私たちの世界と地続きであることを示すため、世界を【相対化】させていく。
「なにを感動しているのだ、あんたも同じ世界で生きているじゃないか」と嘲るかのような演出だ。
ラストで感染者よりももっと理解困難な若者たちが登場する。
それは、これまでの物語をすべて吹っ飛ばすような軽薄な者たちだ。
「おまえが積み上げたものなんて、どうでもいいんだ、殺しを楽しむぞ」とばかりの軽薄さだ。
スパイクとともに成長してきたはずの私たちは、戸惑い、混乱し、怒りさえ覚える。
これまでの【理解】はなんだったのだ、と。
しかし、これこそがこの映画のテーマだ。
作品の冒頭で、「私がなぜ生き残ったのか」と神に問うた少年は、成長し、殺しを楽しむ軽薄な青年に成長した。
信仰を忘れた男は、信仰に生きるどころか、神の教えとは全く違う方向で生き延びている。
ここには理解しようもない不毛さがある。
それはZ世代と呼ばれる若者たちの理解しえなさに近いものがある。
感染者も、離島にすむ者もの、変人と言われる医者も、そして新人類のような若者たちも、互いが理解し合うことがない世界。
この映画に、私たちが理解しやすい完結性など存在しない。
完結し得ない世界を描いたのが、この映画のテーマだからだ。
世界はどこまでも、そして取り返しがつかないほどに、〈分断〉されている。
【レイジウィルスとは何か】
めっちゃ長くなっているのだが、もう少し続けたい。
それはレイジウィルスに感染した者たちとはどういう者たちなのか、ということだ。
これはこのシリーズが貫くテーマとなっているのか、そうではないのか、わからない。
ただ、私がこの映画を見ながら、気づいたこと、という程度の考察に過ぎない。
レイジウィルスに感染した者たちは、理性を失い、ただ本能のままに生きている。
正気を失った者は、リビングデッドでゾンビさながらである。
文明も、理性も、判断も、言語も持たない彼らは、凶暴性があるだけで理解しがたい。
28年も放置されていることから、おそらく治癒は不可能なのだろう。
だが、彼らはどんな【目的からも自由に生きている】。
他者から与えられる要請に従って生きていない。
自分が襲いたい相手を襲い、本能のまま生きている。
それは、何かのために生きている【理性ある人間】とは真反対だ。
目的のための手段ばかり追うことを求められる理性ある私たちと、生きることのためだけに生きるレイジウィルス感染者と、どちらが自由なのだろうか。
どちらが【人間らしいのか】。
あるいは、物語の最後に出てきた、殺しを楽しむ若者たち。
彼らと、感染者たちの差異はどこにあるのだろうか。
言語が操れるからと言って、「話ができる」わけではない。
理性的な判断ができる、とはどういうことなのか。
おもしろいとかおもしろくないとか、そういう二元論ではなく、私たちの世界を見渡したとき、この荒廃したイギリスよりも幸せである理由なんて、どこにも見当たらないのだが。