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ネタバレ必至で読み解く主観的映画批評の日々!

ベンジャミン・バトン 数奇な人生

2009-03-06 21:22:52 | 映画(は)
評価点:75点/2008年/アメリカ

監督:デヴィッド・フィンチャー(「セブン」、「パニック・ルーム」ほか)
原作:フィッツジェラルド

数奇な運命の、人生の普遍。

1918年ニューオリンズで生まれた赤子は、見にくい老人のような様子をしていた。
怖くなった父親は老人ホームに捨ててしまう。
ベンジャミン(ブラッド・ピット)は、80歳相当の体と診断され、すぐに死んでしまうだろうと言われた。
子どもがいなかった黒人夫婦は、彼を引き取ることにする。
彼はみるみるうちに若返るように成長していく。
そんな中、ベンジャミンは幼いデイジーと出会う。
彼は恋心も知らないままに、彼女に惹かれていくが……。

デヴィッド・フィンチャーといえば、「セブン」があまりにも鮮烈だった。
「エイリアン3」もある意味では鮮烈だったが、彼の作品は一筋縄ではいかない、そんな印象をもっている。
ブラッド・ピットと「ヴィレッジ」のケイト・ブランシェットとの共演で、ラブストーリーという。
これはいやでも期待がふくらむというものである。

ブラッド・ピットはこれでオスカーにもノミネートされた。
さすがに、この映画は演技力というよりも、照明とメイクに拍手という感じだったのか、受賞は逃したようだ。
意外に気づかれていないかもしれないが、ブラッド・ピットは単なる恋愛映画には出ない。
彼はセックスシンボルという称号を恣にしながらも、それでも彼はその位置づけを極端に嫌っている。
どれだけ批判されようとも、中身のないうわべだけの作品には出ないのだ。
だから彼の作品を見に行って、「だまされた」と言っているファンは多いはずだ。
でも、それは彼の外側の魅力にしか気づいていないという証拠でもある。

彼は最も脚本と監督の魅力を見抜く映画俳優だ。
そのあたりも、この映画の魅力、といえばそうなのかもしれない。
だいぶ前にみたので、もう公開終了かもしれないが、機会があればぜひどうぞ。

▼以下はネタバレあり▼

予告編でずいぶん騒がれたので、設定自体は知っている人も多かったはずだ。
ともかく、ここからはネタバレありでばんばん説明していこう。
80歳で生まれた赤ん坊は、見にくいしわしわの老人だ。
これをかわいいと思えるあの里親はちょっと特異な感覚の持ち主としか言えない。
おもしろいのが、実の父親であるボタン工場の経営者は、老人ホームに彼を託す。
これが彼の人生の始まりであり、終わりであるというのは、本当にうまい設定だ。

そして、彼は中身は全く子どもなのに、見た目はどう見ても老人という人生をスタートさせる。
彼は全く子どもだが、彼の周りにいるのは人生に疲れ果て老人ホームにたどり着いたという老人たちばかりだ。
彼はそんないびつな環境で学び、育てられていく。
彼の住む老人ホームにはあらゆる人間が引っ越しては、また土になって去っていく。
彼の人生と真逆の死の有様を、子どもの頃から見せつけられていく。

そして、現れたのがまだ幼い少女であったデイジーだ。
女性は往々にして男よりも先に女になる。
彼の元を訪れたデイジーも、小悪魔的な魅力を備えた、小さな女だった。
彼らとの出会いと別れを中心に描かれる中でも、ベンジャミンは様々な出会いと別れを繰り返す。

成長していくデイジーに対して、彼はどんどん若返っていく。
だが、中身は少年から青年という、普通の人間と同じである。
だから、彼らはすれ違う人生を送っていくことになる。
デイジーが女性としての魅力が爆発する頃、彼はまだいいとこ、中年くらいだ。
彼女の熱烈な誘いにも、彼はすんなり応じることができない。
それによって、彼ら二人の関係は、さらに遠いものになってしまう。

本当に彼らが結ばれるのは、彼女がけがをしてしまって、夢と生活を奪われてからだ。
しかもそれはほんのわずかな時間だけ。
子どもができると、彼は自分が若返っていく運命を、二人から去るという方法で受け入れる。
引き留めようとするデイジーだが、ベンジャミンは去っていく。

ダンスの指導者となったデイジーの元に、ベンジャミンは「最後」の再会を果たしに来る。
息をのむ美しさのベンジャミンと、もうお世辞も美しいとは言えなくなったデイジーは、運命の皮肉を十分に感じさせる。
だが、何度も言うように、ベンジャミンの中身は、もういいおっさんなのだ。
デイジーと精神年齢はなんら変わりない。
二人がその夜結ばれるが、このシーンはこの映画の中でも最も美しいシーンになっている。
恥ずかしがるデイジーだが、それは「若い」というベンジャミンもまた、同じだったのかもしれない。
見た目よりも、演じる二人の距離、成熟が演技を通して語られる。

そして、次に再会するときには、認知症が進み、ベンジャミンは少年のような老人として現れる。
最愛の人に抱かれた赤ん坊は、80歳で死を迎える。
最も美しい、最も切ない老衰である。

この映画を観る限り、数奇な運命という人生に込められた悲哀を読み取る。
だが、一方で、のめり込めない自分も発見するのだ。
なぜだろう。

この映画を撮るに当たってフィンチャーは「今までの手法を一度すべて捨てる必要があった」とパンフレットの中で語っている。
商業的なパンフにどれくらいの信憑性があるのか、それは議論の余地があるものの、その言葉はこの映画を観る限り嘘ではないだろう。
僕はこの映画を観て、フィンチャーどうしちゃったんだ、と思った。
だが、その印象は少し間違っているのかもしれない。
彼の手法が変わっただけで、それまでの映画にもあった画面にある緊張感と統一感は壊れていない。
要は、演繹と帰納という方法論が変化してしまったのだ。

これまでは「セブン」にしろ、「パニックルーム」にしろ、映画の収束点が見えている状況で映画作りがスタートしている印象を受ける。
だから、どこに収斂されていくのか、はっきりわかるし、観客もそれが見終わった瞬間に理解できるように作られている。
一方、この「ベンジャミン・バトン」はどちらかというと帰納法的な手法が採られている。
すなわち、原作のフィッツジェラルドの小説があるとはいえ、「もし80歳から0歳までの人生があり得たとすればどうなるのか」という究極の仮定を、突き詰めていった結果なのだ。
そしてその答えは、普遍だったのだ。

思えば、ベンジャミンの人生は、なんら数奇ではない。
愛する人と永遠に結ばれることはあり得ないし、また、愛に情熱を注げる年齢も、その愛する人と出会った時期と重なるかどうかもわからない。
気づけば遅すぎることもあるし、知らないままに通過してしまい早すぎると言うこともある。
それを考えると、ベンジャミンとデイジーの愛の日々は、全く以て数奇ではないのだ。
それを数奇だとすれば、あまりにも美しく、そしてあまりにも恵まれた愛の日々だったということだけだ。
愛する人の腕の中で、何も知らずに死ねる人生とは、どれほど恵まれたものだろうか。

フィンチャーがたどり着いた「答え」は、普遍だったのだ。
だから、肩すかしを食らったように感じてしまうのだ。

だが、僕はそれがこの映画にいまいち乗れなかった理由でもないような気もする。
おそらく、僕が求めていたのは、現在生きる彼ら二人の子どもキャロラインの位置づけだ。
言うまでもなく彼女がこの映画の聞き役、つまり視点人物である。
それまで明かされなかった出生の秘密を、臨終間近の母親から聞くことになる。
僕はそれを〈語り〉という手法で描いた以上、娘のキャロラインがどのようにそれを受け止めたのか、というのをしっかりと描くべきだったと思うのだ。
そうでなければ、〈語り〉という手法で描く必要性がない。
現在と今、そして両親と私。
その関係性をもう少し具体的に描くことで、僕たち観客にどのように受け止められるのかも変わった気がする。

これだけで十分中身のある映画だ、とは思うが。
僕は欲張りなので。

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2 コメント

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 (kasuya)
2009-05-25 23:31:40
menfithさんは、デヴィッド・フィンチャー監督が作られた「ファイト・クラブ」をご覧になった事ありますか?
是非、「ファイト・クラブ」の批評を見たいです。
この映画が一番好きなので…
返信する
書き込みありがとうございます。 (menfith)
2009-06-03 23:22:14
管理人のmenfithです。

返信遅くなってすみません。

「ファイトクラブ」は少し前に借りたのですが、観られずに返してしまったのですよ。
劇場で僕は観に行きました。
確かにおもしろかったのですが、当時の僕は??という感じだったので、もう一度見直しておきたいな、と思っていたわけです。
また借りておきます。

僕は「ゲーム」も傑作だと思っています。
周りからの評判はあまり良くないですが。
返信する

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