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ネタバレ必至で読み解く主観的映画批評の日々!

瞳の奥の秘密(V)

2011-05-04 12:36:28 | 映画(は)
評価点:86点/2009年/アルゼンチン

監督:フアン・ホセ・カンパネラ

空間と時間にしかけられた〈秘密〉のドラマ。

裁判所で働いていたベンハミン・エスポシト(リカルド・ダリン)は25年前に起こった事件を小説にしようと考える。
その相談のために当時の上司であるイレーネ(ソレダ・ビジャミル)を訪れる。
彼女との再会により、当時の事件の様相がよみがえってくる。
1974年、ブエノスアイレスで暴行殺人事件が起こった。
何の手がかりもない中でエスポシトは被害者のアルバムの中に奇妙な眼差しを向ける男を見いだす。

アルゼンチンで公開され、話題になったサスペンスドラマ。
オスカーの外国語映画賞を受賞したことでも有名になった。
僕はほとんど知らなかったが、「M4」会でも話題にあがり、他のブログでも年間上位だったので観たかった。
GWに批評をアップしておかなければ、僕自身のテンションも下がってしまうので借りた。

これは観るべき映画だ。
1週間のレンタル期間で、僕は二回みた。
どこまでも緻密、どこまでも巧み。
どこを切っても語ることができるというまれに見る良作だ。
特に映画好きは観るべき映画だ。

▼以下はネタバレあり▼

語ると言うことは語られる〈過去〉と語る〈今〉との邂逅である。
僕は何度もそう書いてきた。
語るという形式をとる限り、現在との葛藤がなければ意味がない。
それはどんな時代であってもそうだ。
〈過去〉を語るとは〈今〉を語るのと同義だからだ。 
でなければ、〈今〉語る意味もない。

この映画はその意味で模範的な語りで物語が進行する。
25年前の事件を語りなおすことで、〈今〉の自分へ迫るという構成になっている。
過去と現在の入れ子型構造である。
イレーネとエスポシトのメイクが巧みで、時間軸に戸惑うことはまずない。

この映画は大きく三分割されている。
一つは事件が起きイシドロ・ゴメスが姿を消すまで。
そしてイシドロ・ゴメスが捕まり、その後釈放され、相棒のパブロが殺されるまで。
最後は、イシドロ・ゴメスの行方と、エスポシトが小説をいかに終わらせるかである。

小説を書きながらエスポシトは過去の出来事を克明に思い出し始める。
容疑者のイシドロが被害者のリリアナへどのような眼差しを向けていたのか。
その眼差しがきっかけとなり、彼を追い詰めることになる。
夫の勇み足から、逃がしてしまったイシドロを夫のリカルド・モラレスは一年間も駅で探し続ける。
エスポシト曰く「あれは真実の愛だ。日常に汚されない」。
夫は憎しみからそれを行っていたのだろうか。
違うのだ。
やはり愛なのだ。
彼は失った妻への愛を、容疑者を捜し続けるという格好で注ぎ続けていたのだ。
そのポイントになるのが眼差しだった。

容疑者を追い続ける瞳を知ったエスポシトは再び捜査を開始する。
サッカースタジアムにいたイシドロを逮捕した時、イレーネが彼の眼差しに気づく。
女性に向ける眼差しが人へ向けるそれではなかったのだ。
だからイレーネは彼をののしることで自白を引き出すことに成功する。
終身刑を食らったはずのイシドロは数年で出所してしまう。
パブロが殺されることで、事件は「終わってしまう」。

その第一稿を書き終わるとき、ようやくエスポシトは気づく。
自分が書き始めたきっかけは「むなしさ」であるということに。
過去を振り返りながら、現在のむなしさの拠り所を探し続けていたのだ。

物語を終わらせるために、あるいは自分自身が前を向くために、イシドロとリカルドの行方を捜し始める。
エスポシトが突きつけられたのは「イシドロは25年前に殺した。もう忘れたいんだ」というリカルドの告白だった。
この映画が巧みなのは、随所にみられる。
例えばこのシークエンス。
もう忘れたいと激白しながらも、忘れまいとリリアナの写真がリビングに置かれている。
リカルドの愛は、殺してしまってそれで終わり、というような愛ではなかったのだ。
殺してもなお、リリアナの写真を飾り続け「愛し続けて」いたのだ。

それが伏線となって再びリカルドの自宅へ忍び込む。
リカルドは加害者のイシドロを閉じ込め続けることで、妻への愛を示したのだ。
一切の声をかけず、赦すことも、罰することもせず、ただ延々と牢獄に閉じ込めるという愛を示し続けたのだ。
妻を殺害されて、彼の時間は永遠に止まってしまった。
前に進み出すことなどできない。
彼にできるのは、妻が生きていれば当然するはずの愛を、形を変えて注ぎ続けることだけだ。
25年間、エスポシトがむなしさを感じていたのは憎しみではない。
失ったことへの喪失感でもなかった。
失ったことをどうやっても穴埋めできないという愛のやり場のなさだったのだ。

入れ子型構造になっている。
それは過去と現在というものだけではない。
愛と憎しみあるいは、愛と悲しみの入れ子型構造なのだ。
そこにあったのは悲しみや憎しみと言ったものではなかった。
愛だったのだ。

それに気づいたエスポシトは、パブロへの墓参りを済ませる。
そしてイレーネに告げるのだ。
「話がある」と。
「怖い」という単語ではなく、「愛している」という単語に変換されて初めて自分が抱いていたものが恐怖ではなく愛であることに気づくのだ。
この物語をエスポシトは小説にするだろうか。
するかもしれない。
しないかもしれない。
どちらにせよ、彼には何故か書かなければならなかったのか、はっきりと意識することはできるだろう。

彼の第一稿は、イレーネとの出会いから別れまでを描いていた。
「思いつくけれど、物語とは関係ないんだ」と言いながら、実はそれが物語の本質そのものだったのだ。
〈過去〉を振り返り物語を綴ると言うことは〈今〉へ迫る行為そのものなのだから。

この映画は伏線が緻密すぎる。
唐突に挿入される部屋に押し入る男たち。
「エスポシトか?」
と聞くカットは、明らかに不自然だ。
けれども、それがパブロを思い出してのことだと知ると記憶と想像、現在が交錯するシークエンスであることがわかる。
何度も挿入されるaが打てないタイプライターにせよ、何もかもがつながるようにできている。

それは時間的なつながりだけではない。
不自然に思われるカットも、実は意味がある。
わかりやすいのはリカルドの自宅を訪れた際、リカルドの持っている食器が不自然なことだ。
なぜ離れから食器をもって出てくるのか、それがわかるカットにしたのはなぜななのか。
真相が明かされると浮かび上がってくるしくみになっている。
カメラアングルやカット割りといった空間的な伏線も巧みなのだ。
もうどこを削っても付け足しても映画として破綻してしまうのではないかというくらい、完璧だ。

ひとつひとつ一時停止しながら確認したくなるような出来だ。
ハリウッドリメイク決定も、仕方がないのかもしれない。
オリジナルを超えることは不可能だとしても。

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