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ネタバレ必至で読み解く主観的映画批評の日々!

時をかける少女(V)

2009-09-24 23:21:14 | 映画(た)
評価点:63点/2006年/日本

原作:筒井康隆
監督:細田守

期待していたよりは、いまひとつ。

高校2年生の紺野真琴(声:仲里依紗)と、間宮千昭(声:石田卓也)と津田功介(声:板倉光隆)とは仲良し三人組だった。
いつも授業が終わると放課後に三人で野球をして楽しんでいた。
そんなある日、文理選択をそろそろ考えないといけない時期に、真琴は急いで急勾配の商店街を駆け下りた。
ブレーキが壊れていることに気づいたが、すでに時は遅く、そのまま踏切に突っ込んだ…と思った瞬間、時間が戻っていることに気づいた。
おかしいと思い、親戚のおばさんに相談してみると、それはタイムリープという現象ではないか、と告げられる。

友人に勧められて観た。
実はあまり興味がなかったわけだが、「サマーウォーズ」を観てからは俄然観たいと思っていた。
「時をかける少女」はこれまでも何度か映像化されいる。
原作は当然、あの筒井康隆。
僕は残念ながらまだ読んでいない。
彼の大ファンなので、いつかは、と思いつつ読んでいない。
すみません。

しかし、話の結構はだいたい知っている。
昔ドラマ化していたのを観た記憶があるからだ。
原田知世でも映画化しているのは知っているが、こちらもまだ観ていない。
僕は原田知世にそれほど思い入れがないし、日本映画を基本的に評価していないからだ。
ともかく、僕はほとんど予備知識がないうえで観た。

新しい監督が台頭し始めている日本映画アニメ業界において、細田監督はその新騎手の一人だ。
彼の独特のタッチと、話の展開を、まずは観てみよう。

▼以下はネタバレあり▼

昔「タイムリープ」という小説を読んだ。
今では古い、ジュブナイル小説というやつだろう。
そのとき、友人に勧められて、結局映画まで観た。
高校生の少年が女性嫌いで、ずっと痒がっているのが印象的だった。

彼の定義では、タイムトラベルとは、人間が違う時代へ移動することだ。
これは現在不可能だと言われている。
その証明は、「私は未来からきた」といっている奴がいないから、だそうだ。
何とも夢のない話だが、妙に説得力もある。
で、タイムリープとは、人間が肉体を持って違う時代に移動するのではなく、中身だけスライドすることを言う。
端的に言えば、タイムリープでは自分と自分が出会うことはあり得ないわけだ。

おそらく、この「時をかける少女」でも、タイムトラベルではなく、タイムリープという言葉を使っているのはそのためだ。
先にも書いたように、僕は原作を読んでいないので、(本当にすみません、筒井先生!)原作との比較という野暮なのことはやめておこう。
というか、できない。

結論から言うと、思っていたよりはおもしろくない。
それを知人に言うと、「それは「サマーウォーズ」がおもしろすぎたからですよ」と言われた。
そうなのかもしれない。

この映画の失敗は、説明しきれない矛盾が目立ってしまっているということにつきる。
一つは、間宮千昭の存在だ。
オチでは彼は絵を見るためにここにやってきたと話す。
けれども、真琴ができるようになったタイムリープと、間宮が未来からやってきたというタイムトラベルとは決定的に違っている。
それは先に書いたとおりだ。
だとすれば、その設定はどうやって説明するつもりだろう。
もちろん、原作にはそれが書かれてあるのかもしれないが、それでは説明にはならない。
同じカウントダウンを腕に刻むのなら、そのあたりの説明は不可欠だったように思う。

そもそも、簡単に高校生が転校できるとも考えにくいし、どうやって彼は過去で数ヶ月も過ごしていたのか、それも不思議だ。

それは些細なことかもしれないが、次の矛盾は決定的だ。
それは間宮の態度の変化だ。
一緒に過ごしていて帰る時期を逃した、という彼の説明は納得できる。
けれども、真相を話す彼と、それまで三人で馬鹿をしていた間宮との間には大きな隔たりがある。
それまで告白までしようとしていた彼はどこへ行ったのだろうか。
あるいは告白が成功したとして、それはどういう方向性の期待のもとで、告白したのだろうか。
結局夏には帰らないといけない。
それなのに、「つきあう」という進展を求めても、全くナンセンスのような気がする。
男女の関係なので、そんな割り切った思いにはならなかったのかもしれないが、それでも不自然だ。
それなら、三人でずっと一緒に過ごす方が、心情的にはすんなり理解できる。
物語をおもしろくするために、二人の間宮がいるようにさえ感じてしまう。

なぜそんなあら探しをするのか。
それはとりもなおさず、それがこの映画のテーマと深く関わっているからだ。

真琴は、このタイムリープの体験を通して、前半では「どれだけ努力しても未来は変えられない」という現実を知る。
つまり、人はどんな選択をとっても、その人自身が変わろうという意志がなければ結果は同じだ、ということだ。
間宮の告白を拒否しようとしても、それは拒否しきれないのだ。
また、三人ずっとこの関係でいられたら、と願ったとしても時は残酷に過ぎていくのだ。
それはタイムリープとは関係がない。
個々の選択を一つ変えたところで、何も変わらないのだ。
それはどこか「バタフライ・エフェクト」にも通じる理のような気がする。

だが、ラストに向かうに従って、物語は「恋」と「夢」の発見へと昇華していく。
真琴は間宮千昭との関係を見つめ直し、絵画を保存するという夢を次第に見つけていく。
それはどのような形の夢であれ、世界へとまなざしが開かれることであり、それまで個人の欲望のためにタイムリープを使っていた彼女とは大きく異なっている。
つまり、この物語は、「真琴が生きる道を見いだす物語」なのだ。
文理の選択をたびたび見せるのは、そこが夢や将来への分かれ道であるからだろう。
普通、文理選択は高校2年になる段階で行うものだとおもうのだが、今は違うのかもしれない。
それは置いておくとしても、テーマは夢の発見であることは疑いない。

そうだとすると、間宮の存在は物語にとってきわめて重要なポジションにあった。
なのに、その彼が揺らぎまくって矛盾だらけとなると、テーマがぼやけてしまう。
単なる学園ドラマだったのが、未来からきた来訪者となると、毛色が異なる。
落差が大きすぎるのだ。
もっと入念に伏線を張っておくべきだった。
「もう俺は別れないといけないんだ」というような台詞を吐かせておくとか。
もっと工夫できたはずなのに、ちょっと安易だった気がする。

もっと安易だったのは、声優だろう。
主要三人は、やはり違和感があったように思う。
う~ん、残念。

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