secret boots

ネタバレ必至で読み解く主観的映画批評の日々!

映画ドラえもん のび太の宇宙小戦争2021

2022-03-14 19:10:51 | 映画(あ)
評価点:75点/2022年/日本/108分

監督:山口益

なんてタイムリーな映画なのだ。

夏休み、特撮映画を撮ろうとしていたスネ夫たちは、のび太が失策するたびにうんざりしていた。
しょげるのび太は、リアルな宇宙船の模型を見つけ中を開けようとする。
すると中から声が聞こえて、現れたのは小さな宇宙人パピ(朴?美)だった。
よそよそしいパピは宇宙船を直してピリカ星に帰ろうとするが、大きな別の宇宙船が現れ……。

「ドラえもん」も声優が変わって昔公開された映画をリメイクしている。
その一つが、公開延期になっていた「リトルスターウォーズ2021」である。

公開当初から言われていたが、どうしても昨今の国際情勢と比べてしまう展開に心が痛い。
子どもからせがまれて映画館にいくことにした。
公開延期されたことがまるで運命のような、今見るべき映画、といえるだろう。

▼以下はネタバレあり▼

私はリメイク前の作品を知らないので、というか、ほとんどドラえもんの映画を見て育ってこなかったので、比較のしようがない。
前の作品がある場合、往々にして「改悪だ」という議論になるが、私はそこに加われないので、ご了承いただきたい。

ピリカ星にいた少年大統領が地球に降り立ち、そして帰って行く。
また、地球ののび太たちがピリカ星に行き、地球に帰っていく。
このパターンだから、いわゆる往還の物語になっている。
また非日常の世界から日常の世界に紛れ込むという意味では「かぐや姫」のパターンでもある。
この結構から、物語は二つのテーマをもつことが示唆されている。

一つはパピが受け取るメッセージと、のび太たちが受け取るメッセージの二つである。
この二重性が非常にうまく機能している。
珠玉の作品と言っていい。
かつ、この二重性はヴィジュアルやサイズの二重性とマッチしている。
この物語構造をストーリーに落とし込んだのだから、おもしろくないはずがない。

パピは少年にしてピリカ星の大統領を担う正義感と責任感に溢れた秀才である。
自分で何もかもやらなければならないと思い込んでおり、自己犠牲も厭わない。
そんなパピ大統領に対して、クーデターを起こしたのはPCIAのギルモアだった。
ギルモアは独裁政治をもくろみ、ピリカを転覆させてしまう。
のび太とともにピリカ星に向かい、ギルモアと対決するとき、パピは初めて気づくのだ。
一人で何もかもを背負い込むのではなく、周りを信頼し、協力することが重要であることを。

ここにはギルモアというキャラクターとの対比もある。
独裁政治をもくろむギルモアはまさに人を信用しない象徴のようなキャラクターだ。
パピも実は、ギルモアとほとんど同じであるということが明るみになる。
国のために一人で尽くそうとするのも、人を信用せずに一人で国を治めようとするのも同じだ。
結局人を信用できないという点において。

だからパピは最後の演説で高らかにギルモアとの差異を突きつける。
この行為があったからこそ、ギルモアは案外あっさり負けを宣言する。
リーダーとは一人で何もかもしてしまうことではない、ということをパピは理解するのだ。

のび太たち地球人もピリカ星という非日常的な世界に迷い込む。
そこで大きく変化するのは、ジオラマを作って戦争ごっこに勤しんでいたスネ夫である。
スネ夫はリアルな映画を撮ることに躍起になっていたはずなのに、実際のリアルな戦争に巻き込まれたとき弱さを見せる。
僕は戦いたいわけじゃない、と。
しかし、自分たちが戦火にさらされたとき裏方に回るだけではなく、武器を取り闘いに身を投じる。
ここには、戦争に対する一般的な庶民の姿と思考がある。

執拗に戦争を嫌がるスネ夫に対して、私たちは今なら共感できるかもしれない。
人のために命を捧げられるか。
自由のために、国のために命を賭けて戦えるか。
それは現在の国際状況においては、単純な問題ではなくなっている。
映画として楽しむという視点を超えて、見ている、特に大人に突きつけられる。
彼の言動があるからこそ、この闘いが「映画としての戦争」や「アニメの中の設定」を超えて戦うことの重みを感じられることだろう。
映画作りをしていたスネ夫を通して、私たちは映画を見る側から参加する側に変換させられるのだ。

一念発起して闘いに身を投じるその変化はややわかりにくい点もあるものの、現実という文脈によって補ってしまえるところが、非常にタイムリーな映画になってしまった悲しみがある。
2022年になっても同じテーマを扱えてしまうところが、本当に苦しい。

こういう二重性が、のび太たちを取り巻く世界のサイズに投影されている。
すなわち、最初は巨人として接していたピリカ人と、スモールライトで照らされることで相手と等身大になることを余儀なくされる。
そして異世界に行き、生き死にをピリカの人たちとともにする。
これは、相手の立場に立ってみる、ということの象徴に他ならない。
そしてパピと同じように、スモールライトを奪われることで窮地に立たされる。

〈ドラえもん〉なのでこの後のび太たちが負けてしまうことは考えられないのだけれど、危機的な状況であることは確かだ。
そして戦争に巻き込まれ闘いが佳境にさしかかったとき、地球人のサイズに戻る。
物理的な圧倒によって一件落着と向かうわけだが、ここには価値の相対化という重要な記号が込められている。
これまでのギルモアとパピの闘いを、どちらかに立った話として経験するのではなく、戦争そのものを相対化する効果がある。
そこに子ども向けの物語としての安心感と、そしてそれを引率?している大人たちへのメッセージだ。
すなわち、正義や独裁といったことをより大きな目線から見つめる目線が、地球人というサイズで表現している。
子ども達は一件落着と安堵するだろう。
けれども、大人たちは頭を抱えるはずだ。
対立をお互いの目線だけではない、もっと大きな目線から見つめるのはどうすればいいのか、ということを。

元のオリジナル映画も大きな結構(物語構造・プロット)は変わらないようだ。
こういう象徴と記号、演出のテクニックは、映画の教科書のようなものだ。
なぜ大人の映画で、しかも実写でこういうことを追求する日本映画が育たないのか。
この映画よりも小さい戦いを日本映画の業界は繰り広げているような気がしてならない。



コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« THE BATMAN -ザ・バットマン- | トップ | Mr.ノーバディ(V) »

コメントを投稿

映画(あ)」カテゴリの最新記事