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ネタバレ必至で読み解く主観的映画批評の日々!

父親たちの星条旗

2009-08-02 15:58:21 | 映画(た)
評価点:81点/2006年/アメリカ

監督:クリント・イーストウッド

今、あの戦争に何を問い、何を見出すか。

太平洋戦争で日本とアメリカは緊張関係にあり、両国とも疲弊状態にあった。
グアムと沖縄本島との中間に浮かぶ、「硫黄島」は、アメリカにとって、日本本国を攻めるための足がかりとなる、重要な拠点であった。
しかし、日本軍にとってそこは本土そのものであり、激しい抵抗が続いていた。
硫黄島の砲座が据えられている高台を攻めるべく、若い海兵隊たちは上陸する。
その数ヶ月後、一枚の写真がアメリカ全土を駆けめぐった。
硫黄島の高台に立てられた星条旗。
その一枚の写真は疲弊し、国税が底をつきかけたアメリカには、大きな意味があった。
アメリカ国民は勝利を確信し、勝利のために国債を買い始めた。
その一枚の写真をめぐる物語が、61年後に語られる…。

クリント・イーストウッドほど、映画監督を名乗るにふさわしい人は少ない。
キューブリックやクロサワや、そのほか多くの監督が既にこの世を去った。
哲学や映画の描くべきものを追求する時代ではなくなりつつある現在にあって、新たなチャレンジを試みつつも、それでも高い水準の映画を撮っている。
映画人として、映画監督として、僕が最も尊敬する人である。

そのイーストウッドが、日本との「硫黄島」の激戦を描くという。
しかも、日米双方からの視点で描くという試みに、胸を躍らせて映画館に向かった。

戦争映画が嫌い、という人も、僕は観て欲しい。
アンチアメリカ人という人も、アメリカに迎合している人も、日本人である限り、あの第二次世界大戦や太平洋戦争を踏み台にして生きている僕らは、絶対に観るべき映画だと思う。
 
▼以下はネタバレあり▼

二部作であるため、これ単体で語るのは少し気が引ける。
当然、一作だけでも十分映画としての完成度は高い。
まずはこの映画だけで批評してみよう。
だが、断っておきたいのは、本当の映画批評は、おそらく「硫黄島からの手紙」を見終わったあとに出来るだろう。

この映画は、スタンスがしっかりしている。
監督の、作る側の、立場が明確である。
それは、戦争を生きた父親たちをもつ、息子(現在)という立場である。

あの戦争から61年経った今、「硫黄島」を描く理由は何だろう。
アメリカ国民にとって、今でも、最も印象的な、自尊心を傷つけた戦争は、明らかにベトナム戦争だ。
多くの人にとって、共感しやすく、問題にしやすいのは、決して太平洋戦争ではないし、まして硫黄島ではない。
しかし、イーストウッドはその硫黄島にスポットを当てたのだ。

時間軸が、硫黄島上陸前、硫黄島上陸後、そして帰還後という三つが交錯して展開される。
そのため、ややこしく感じることがあったかもしれない。
だが、話としては単純だ。
硫黄島に行き、星条旗を立てた若者たちが帰還し、そこで戦場とのギャップに思い悩むという物語だ。

ではなぜ時間軸を交錯させたのだろうか。
それもテーマと深く関わっている。
戦争と戦争後、硫黄島とアメリカ本土とのギャップを色濃く出すために、時間が交錯され、今起こっていることの非日常性を描いているのだ。

僕は恥ずかしながら歴史に明るくない。
硫黄島の戦いも、ちらっと聞いたことがある程度で、歴史的な価値や、当時の軍事的な意味をこれまで知らずに生きてきた。
当然、アメリカ側にとって、硫黄島を舞台にしてとられた写真が、どれほどの意味を持っていたか、予備知識は皆無に等しい。
その意味で、これらか書く内容には不安が残ることをまず断っておく。

映画は一枚の写真を巡る物語になっている。
その一枚とは、疲弊しきった国民たちに、戦争の意義をもう一度再確認させ、太平洋戦争を勝利に導く布石の写真だった。
軍事的に重要な拠点であった硫黄島にアメリカの国旗が突き刺さる。
それを6人の兵士たちが支え、事実上の勝利宣言をしているかのような力強い写真である。
資金繰りで苦しい状況にあった政府は、その6人を戦地から呼び戻し、国民に国債を買わせるための宣伝材料にしようと考えた。
上官を通して通達された帰還命令は、兵士たちに戸惑いをもって受け止められる。
なぜなら、その6人中、3人がその写真の数日の間に戦死していたからだ。
しかも、その写真には大きなからくりがあり、最初に突き立てられた星条旗ではなかった。
しかし、政府は宣伝のために「生きている」メンバーが欲しい。
写真に写るメンバー3人を半ば強制的に連れて帰る。

戸惑う3人を待っていたのは、「英雄」という名の宣伝マンだった。
国債発行額を増やすためにひたすらスピーチし、各地を回るのだ。
アイラ・ヘイズ(アダム・ビーチ)は戦地とのあまりの違いに、そして、自分が「英雄」であると確信できずにいる矛盾に悩み始める。

この映画に描かれていることは、完全なドキュメンタリーなのかどうか、それは判断しない。
僕にはその知識も情報もないからだ。
だが、この映画で描きたかったことは明確である。
それは、反戦ではない。
それは、政府批判でもない。
逆に、戦争を美化する映画でもない。

「戦争に英雄はいない」という強い哲学である。
戦争から帰ってくると、だいたい二種類の出迎え方をされる。
よくやったと歓迎されるか、「ランボー」のように反政府運動家たちにつばをはきかけられるか、である。
この映画はその両者共に間違っていることを主張する。

戦争はいけない。
そう言うのはとても容易で、絶対的に正しい。
だが、それは理想論にすぎないことも、既に多くの人が知っている。
戦争はいけないということだけが絶対的に正しいのなら、だれも戦争を起こさないからだ。
それでも戦争は起こってしまう。

そうであれば、その戦地に向かう兵士たちは、みな英雄なのだろうか。
祖国のため、戦い、死んでいくことは非常に尊い。
だが、それは単純に美化されるべき姿なのか。
それもまた違うのだ、と教えている。

ラストにドク(ライアン・フィリップ)の息子の語りがすべてだろう。
「祖国のために戦場に向かう。けれど、みな戦友のために死んでいったのだ」
「僕たちはいつまでも記憶しておこう。父親たちのありのままの姿を」

この映画が残酷な描写が多用されるものの、涙を誘うことがないのは、感情的になるための、多くの「涙を流して気持ちよくなる」戦争映画とは一線を画すことを反証している。

反戦でも、戦争賛美でもない。
2006年の今、世界を巻き込んだあの戦争から61年経った今、硫黄島を描こうとした理由はここにある。
硫黄島の、あの星条旗をめぐる騒動を描かないことには、この「描きたいもの」は描ききれない。
そして、その物語はアメリカからという一方的な視点からでも完結しない。
日本から描くという「硫黄島からの手紙」を必要とするのだろう。

映画は時代を映す鏡だという。
広く文化的な作品はすべてそう言えるのだろう。
この「父親たちの星条旗」は、まさに社会が、世界が、時代が、イーストウッドに作れと要請したかのような映画だ。
いま、世界は反戦や戦争賛美以外の立場を望んでいる。

(2006/12/7執筆)

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