secret boots

ネタバレ必至で読み解く主観的映画批評の日々!

LOVERS

2008-12-03 23:16:47 | 映画(ら)
評価点:76点/2004年/中国

チャン・イーモウ監督

イーモウ監督の、チャン・ツィイー大好き映画。

唐の時代。
都・長安の近くに拠点を置く反政府組織「飛刀門」に朝廷は警戒を強めていた。
そんなある日、劉(アンディ・ラウ)は、遊郭の「牡丹坊」にいる盲目の踊り子が、飛刀門に通じているとの噂を聞きつける。
随風(金城武)が客として出向くことになった。
しかし、随風は泥酔してしまい、変わりに劉が彼女の舞をみることになる。
彼女は、朝廷の使いである劉に切りかかろうとしたところを、劉に制される。
小妹(読み=シャオメイ、チャン・ツィイー)捕らえた劉は、彼女をわざと逃がし、飛刀門のアジトを探し出すことにする。
任務に当たる随風に、劉は忠告する。
「一線を越えて、彼女に溺れるなよ」と。

「初恋の来た道」「HERO」のチャン・イーモウ監督作である。
HERO」で初めてアクションを取り入れた監督は、再びこの「LOVERS」でもアクションを主軸に映画を撮っている。
このイーモウ監督の僕のイメージは、ロリコンであるということと、画の綺麗さを大切にする監督である。
そのイメージどおり、ロリコン的芸術映画作品が出来上がった。

▼以下はネタバレあり▼

近年、映画からストーリーを切り離して考えることはできなくなっている。
ストーリーが悪い=映画自体の評価が悪いというのは、常識とされている。
一つの映画の評価は、ストーリーによるところが大きい。
それが良いのか悪いのか、良く分からないけれども、その流れはおそらくハリウッドからもたらされたものだろう。

この映画を観ると、それをを疑いたくなる。
そもそも、文章も、映画も線条的な表現媒体といえる。
平たく言えば、時間芸術、それを発信、受信するためには、時間的な幅が不可欠ということである。
(それに対立するのは絵画や彫刻などの空間芸術である。)
映画というのは、時間に依存し時間に束縛される表現媒体なのである。
時間芸術であるため、当然その構成が非常に大きな意味をもつ。
構成とは、要するにストーリーである。
映画の評価がストーリーの良し悪しの影響を受ける理由もそこにある。

しかし、この映画はそれを否定しているのである。
ストーリーがなくても、あるいは破綻していたとしても、映画として成立しうるのではないか、を問うた映画と言えるだろう。
端的に言うならば、何処から見てもある程度楽しめる映画、なのである。
それほど、この映画において「画」の美しさは重要な意味をもっている。

さて、その画の美しさを考える前に、破綻しているストーリーを見ておこう。
あまり意味のない批判はするべきではないが、「どうしてもしてはならない破綻」が二つある。
その破綻については、やはり触れておかなければならないだろう。

反政府組織、「飛刀門」のアジトを探るため、随風が盲目の踊り子シャオメイを逃がすという芝居をする。
本来、任務に過ぎなかった随風だったが、幾度となく追っ手を退けるうちに、シャオメイと恋に落ちる。
そして、竹やぶに現れた飛刀門から衝撃の事実を告げられるのである。
飛刀門、前頭目の娘であると思っていたシャオメイは、
実は一味のただの女で、盲目は演出だったのである。
しかも、この計画を思いついた同僚であるはずの劉も、随風をだますために一役買っていたのである。
つまり、全ては役人である随風をだますために、仕組まれた計画だったというわけだ。

しかし、計画通りにいかなかったのは、シャオメイが本当に随風と恋に落ちてしまったということである。
殺せと命じられたにもかかわらず、随風を逃がしてしまう。
迷ったシャオメイは、飛刀門ではなく、随風についていくことを決心するが、そこにかつての恋人、劉が現れ、戻ってきた随風と対決することになる。

物語後半以降のストーリーは以上のようになっている。
ツッコミどころは多々ある。
しかし、重要なところだけを挙げておこう。
まず、タイトルの後に書かれている「はかりごと」について。
この三人の愛憎劇には大きく二つの「はかりごと」がある。
一つは、シャオメイが盲目ではなかったということ。
もう一つは、劉が飛刀門の一人であり、二人して随風を騙していたということである。

残念ながら、このオチについては完全に読めてしまった。
正確にいうなら、映画を観る前から、「どうせ盲目じゃないんだろ」と予想していたので、全く「はかりごと」になっていなかった。
マッチスティック・メン」でも似たような騙しがあったので、それを踏まえた上で予想したのだが、
まさか、ものの見事に当たってしまうとは、逆にがっかりである。
また、通常、三人の「はかりごと」といえば、それほど多様性はない。
二人が一人を騙しているのか、一人が二人を騙しているのか、である。
しきりに「本当に恋に落ちるなよ」という劉は、逆に「恋に落ちろよ」という意味に解釈できる。
その台詞は結果的に、そういう意味でなかったわけだが、劉とシャオメイが騙しているというのは、それほど意外性のあるオチではない。
もちろん、ストーリーはあまり追う気がなかったので、どうでもよかったのだが、
このオチがドラマとして深みを与えているかどうか、微妙なところである。
オチを作るなら、もっと徹底的に隠すような演出があれば、ドラマとしても盛り上がったのに、という思いはある。

しかし、それは「してはならない破綻」の一つではない。
その破綻とは、どのように随風を騙したか=「How」ではなく、なぜ随風を騙したか=「Why」の問いがないことである。
「はかりごと」であるからには、目的がなければならない。
しかし、この「はかりごと」には殆んど目的がないのである。
随風はいっかいの役人であり、重要なポジションにいるという設定はない。
また、すごい腕の持ち主という社会的な名声を持つものでもない。
その彼をリスキー(risky)な計画の下、飛刀門まで引きずり出す必要があったのか、という問いがすっぽりと抜け落ちている。
よって、「はかりごと」そのもの、ドラマそのものが、説得力に欠けるのである。
ストーリーを重視していないのは、再三述べたとおりである。
しかし、人間の感情を描き出すために美しい画を用いているにもかかわらず、その人間ドラマが根本で破綻していては話にならない。

この破綻は、竹やぶのシーンで唐兵が投げてくる竹やりが多すぎるといった破綻とは比べ物にならないほど、根本的な破綻である。
「はかりごと」の動機がなくなってしまうと、三人の物語自体が、方法論的なドラマになってしまう。
「方法論的」とは、目的ではなく手段としてのドラマ、つまり美しい画の映画を撮るための手段としてのドラマということである。
ドラマを〈人間〉と言ってもいい。
映画を成立させるためだけの〈人間〉の情を描いたとしても、それは興味深いものとはならない。
よって、ここに「してはならない破綻」が存在することになる。

もう一つの「してはならない破綻」は、前後半で話が違うということである。
前半は政府と反政府組織の対立が軸になっていた。
しかし、後半で竹やぶのシーンで飛刀門が登場してきて以降は、三人の愛がテーマになってしまう。
この転換によって、さらに人間性は希薄になってしまう。
飛刀門の戦いがなくなってしまうことにより、話のスケールは縮小され、「はかりごと」でさえなくなる。
竹やぶに忍び寄る唐兵のシーンが挿入されるが、それでは不十分である。
戦争に巻き込まれていく飛刀門の様子がなければ、随風についていこうとしたシャオメイの悲劇性が曖昧になる。
やはり、最後まで飛刀門と唐との戦いは見せるべきだった。

それでも、僕はこの映画を否定的に評価できない。
というのは、やはり決定的な破綻があろうとも、この映画の魅力は、場面場面の画の美しさにあるからだ。
チャン・ツィイーの踊りのシーンに始まり、唐兵との戦い、竹やぶのシーン、ラストの吹雪での決闘……
どれをとっても、非常に美しく撮られているし、何より、その場面の作中人物の感情を良く表わしている。

不自然なシーンはある。
竹やぶの竹やりの多さや、唐兵の追っ手の現れ方、竹やぶでの飛刀の動きなど、たくさん不自然なシーンはある。
しかし、それは表現媒体上の文法規則として受け取ることが十分に可能である。
映画には、映画なりの約束事としての決まりがある。
エンドロールにスタッフ全員の名前を記すことも、それの一つ。
時間的連続のないシーンを挿入しても、ある程度許される。
その一つとして、竹やぶの竹の多さなどは、演出上必要不可欠なもの、として理解することが可能である。
むしろ、こうしたツッコミを入れたくなる論理性こそ、西洋、特にハリウッド的なものの考え方だと思う。

全体的な雰囲気は、日本の歌舞伎に通じているところがあるように思う。
あるいは、ミュージカル的なところも感じた。
歌舞伎にしても、ミュージカルにしても、不自然なところはある。
いきなり「見え」を切ったり、歌い出したりするのは、現実的には不自然である。
しかし、それを見るものは、ある種の不自然さは約束事として享受している。
それに似た感覚に陥った。

これらのシーンは、すべて連続性の中で展開されているにもかかわらず、どのシーンから見ても感動できるような、空間的な広がりをもっている。
この映画を観る時間を楽しむのではなく、空間を楽しむという感覚は、ストーリーを度外視させるほど、快感になる。
勿論、それには音楽も一役買っている。
このような雰囲気は、東洋人だから創り出せたのだろうと、ふと思った。

それにしても、残念だと思ってしまう点がまだある。
その美しい空間の追求が、ものすごく私的な追求のように見えてしまうのだ。
映画が公的、誰かと共有できるものでなければならないといいたいのではない。
監督のロリコンぶりがスクリーンいっぱいに広がるのは、果たしていかがなものなのだろうか、と疑問に思ってしまうのである。

チャン・ツィイー大好きだよ~、僕はこんなに愛しているんだよ~、ほらほら~チャンちゃん(?)こっち向いてよ~、ちょっとヤラしい角度から、そうそう、そんなふうにしてね~という監督の趣味に走った心の声が、スクリーンのそこかしこで聞えてくる。
特に、二人の男とのラブシーンは、完全に「男の目」からのアングルになっていた。
男がどんな風に誘われれば、悦ぶか、追求し尽したシーンになっている。
明らかに監督の目を超えた〈視点〉がそこに存在していた。
ゆえに、僕にはラストのシーンがある種の象徴的な場面ではないかと、深読みしてしまった。

アンディ・ラウ = 観客(の一部のチャン・ツィイー好き)
金城武 = チャン・イーモウ監督
チャン・ツィイー = チャン・ツィイー
両者は、映画という雪の吹き荒れる舞台で、チャンを取り合うのである。
そしてやがて、チャンは、監督の方に心を向ける。
しかし、さんざん映画という真向勝負で戦った挙句、結果的にチャンを殺してしまう。
両者は、淋しくその舞台を後にするのである。
奪い合っても、僕のほうに向いて! という願望の表れのような気さえする。
映画という、誰かへ向けての表現媒体でさえ、独占してしまいたい、という私的な欲望が表れたシーンではないのか。
チャン・ツィイーは、たとえ観客でも渡さない。
たとえ映画でもお前ら(観客)と〈共有〉する気なんてないんだ! という心の声が僕には確かに聞えた。

そう考えると、非常に独占欲の強い人間性が描かれていると言えなくもない。

ただ残念ながら、チャン・ツィイーにホの字の僕には、「よくやった、イーモウ監督!」と賞賛の声を送りたい気持ちにさせられたことも、正直に言っておかねばなるまい。
この映画は、チャン・ツィイーのファンか、そうでないかですごく評価が分かれる、一大プロモーション・ビデオなのでした。
チャン、チャン。

(2004/9/2執筆)

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