secret boots

ネタバレ必至で読み解く主観的映画批評の日々!

レディ・イン・ザ・ウォーター

2009-07-26 15:44:52 | 映画(ら)
評価点:52点/2006年/アメリカ

監督:M・ナイト・シャマラン

〈戯れ〉すぎた記号郡。

グリーブランド(ポール・ジアマッティー)はマンションの雇われ管理人。
ある日誰かが夜中にプールで泳いでいるらしいということを耳にする。
調べようと夜中にプールをのぞくと、一瞬、女の人が姿をみせた。
グリーブランドはとがめるように叫ぶと、裸の女の人が自ら水から上がってきた。
女の人(ブライス・ダラス・ハワード)は、ストーリーと名乗り、自分は世界を救うための水の精だと語った。
俄には信じがたい思いを抱きながらも、マンションの住人達に話を聞き、ストーリーと話しているうちに、彼は信じるようになっていく。

僕の大好きなシャマランの最新作である(当時)。
予告では何やらホラーのような感じがするが、実際にはファンタジーである。
「シックス・センス」以来、どんどん評判がおち、客足が遠のくシャマラン作品。
この作品もはっきりいって、万人受けしないし、ファンである僕にとっても「やりすぎた」と思ってしまう。

物語を読み慣れ、そして映画もかなりの熟練者で、しかも、ファンタジーが好きな人にはすんなり入っていける作品なのかもしれない。
どんな映画かわからない予告編をつくっている時点で、映画配給会社も苦慮したのだろうと思う。

予告が重々しい雰囲気でも、だまされてはいけない。
社会的なドラマを作り上げることなんて、シャマランにはできないのだから。
 
▼以下はネタバレあり▼

一言でいって、「物語的記号で遊んだ映画」と言ってしまえば良いだろう。
映画や小説には、物語としての独特の〈記号〉がちりばめられている。
人々はそれを知らず知らずのうちに体得し、その記号群がどのように構成されるかという「文法」を会得してしまっている。
物語は常にハッピーエンドだ、と考えるのもその一つだ。
サスペンス劇場で、誰が犯人であるかすぐにわかるのも、同じことである。
結局、物語とは、ある種の記号が隠され、それが微妙に多くの作品と異なっていることで、教授する人間を楽しませたり、教訓を与えたりするのである。

そんな中で、この映画は、そういった物語としての〈記号〉を組み合わせ、明示することにより、観客を一種不思議な世界へと導いているのである。
この映画は、世界を救うだの、世界が終わるだの、仰々しい設定になってはいるが、結局は「アダプテーション」のように、一つの「物語」が出来上がるまでのいきさつを描いている。

それは救うべき水の精が「ストーリー」という名を持っていることでわかる。
彼女は世界を救うべき「物語」の鍵であり、彼女が無事生還することで、映画は「完結する」。
すなわち、映画として、物語として自律する。
この映画が成立した瞬間が、ストーリーの成立であり、なにより、世界が救われる証となるのである。

そのストーリーが啓示する相手は、マンション住人の一人、ヴィック・ランである。
彼は、執筆者という肩書きで登場し、しかも世界を救うための本を書くと告げられる。
しかし、シャマランを知っている人は全員わかっている。
彼は、シャマラン本人なのだ。
つまり、この映画は世界を救うという裏では、シャマランが「本(=ストーリー)を完成させる」というテーマを持つのだ。
その意味で、メタフィクション、「書くことを描いた」作品なのである。

物語にはよくあるように、一人だけではストーリーは完成しない。
ストーリーの完成には多くの人の援助が必要になる。
そこで、クリーブランド・ヒープは、マンションの中にいる〈援助者〉を探し出すことになる。
「ストーリー」に直接「聞くことが出来ない」=「自分で読み解くしかない」状況の中、映画そのものから記号論者、守護者、職人、治癒者という四者の援助者を捜し出す。
これも結局は、本を読むこと、書くことのオマージュである。
だから、一度は「読み間違える」のである。
それは、一見正しそうな人物が実は敵である、という典型に基づいている。
援助者を捜し出すこと、すなわち、正しく映画としての記号を読み解くこと、それがストーリーを読み解く、逆に、作り上げる一番大切なことだと暗示する。

また、それらを捜し出すのが「マンション」であることが興味深い。
すなわち英語で「story」というのは階層型のマンションを指すことがあるからだ。
マンションというストーリーから、別のストーリーを紡ぎ出す、これはまさに「テクスト」という「織物」を紡ぎ出すことに他ならない。
言い換えると、それは物語はお互いに影響を与えながら、新たな物語が編まれていくということである。
全ての物語は、過去の物語の上に、物語がのっけられていくことを示しているのだ。

そして、正しく読み解かれた〈記号〉は、やがて物語の完成へと導かれていく。
映画自体を記号として解体しながら、自分自身をそこに投影することで、映画としての物語が「完成」=「完結」する様を描いているのである。

これが、この映画が、ジャンルを「ファンタジー」としても、永遠に理解されないゆえんである。
現実世界を描いていないという意味でのファンタジーならば、それで構わないだろう。
しかし、見えるものそのものを見るのではなく、その奥にある物語的記号を読ませるのは、ファンタジーではない。
ほとんどイリュージョンである。

映画の試みとしては大変面白い。
だが、この映画は結局理解されないだろう。
なぜなら、特に日本人には、物語を記号的に読むという訓練を受けていないし、何よりシャマランに期待されているのは、びっくりする「どんでん返し」なのだ。
どんでん返しのないシャマランに何も人々は見いだせないだろう。

だが、この映画の本当のマイナス点は、記号で戯れすぎ、なおかつどんでん返しがなかったからではない。
この映画の最大のマイナス点、そしてかつてのシャマランにあったのになくなったもの。

それは、〈個〉を描くというスタンスである。
「サイン」にしても、「アンブレイカブル」にしても、「ヴィレッジ」にしても、
〈個〉を描き、そこにかなしみを見いだしていた。
だからそれは芸術であり、映画でありながら、一流の「文学」であったのだ。
今回、あれだけ記号で戯れておきながら、結局一人の人間の個を浮かび上がらせることができなかった。

娘を亡くしたというクリーブランドの治癒の際の告白は、きっと大きな意味を持たせることができたはずだ。
援助者を捜しながらも、そうした〈個〉を描くことが出来れば、どんでん返しなど必要ない。

映画人として、この試みは大変面白い。
また、スクリーンに引き込む独特の魅力は失われてはいない。
しかし、絶対に失ってはいけないものを、今回、見失ってしまった気がしてならない。
次回作に、僕は密かに期待する。
 
(2006/11/5執筆)

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