評価点:79点/2023年/日本/114分
原作・ナレーション:黒柳徹子
監督・脚本:八鍬新之介
脚本と演出がすばらしい。
終戦間際までの東京の自由が丘にあった私立の「トモエ学園」に転校することになったトットちゃん(声:大野りりあな)は、学校に列車の教室があることに仰天する。
小林校長先生(声:役所広司)は、問題児として扱われていた彼女の話を、トットちゃんが納得するまで丁寧に聞き出し、「あなたは本当は良い子なんですよ」と力強く抱きしめた。
戦争の足音が大きくなる中、トットちゃんはトモエ学園で成長していく。
言わずと知れた児童文学の名作、「窓ぎわのトットちゃん」をアニメーション映画化した作品。
私はこの原作を読んだことがなく、子どもたちが読むだろうと考えたので、先に購入しておいた。
しかし、私は他の本を読んでいたので、原作を読まずに映画館に行った。
レビューがどこも高く、気になっていたからだ。
子どもたちと一緒に見たい、と思わせる良作である。
と、同時に、タッチは柔和だが、むしろ大人が見るべき映画になっている。
▼以下はネタバレあり▼
脚本、演出ともに非常に完成度が高い。
鑑賞後に少しだけ原作を読み始めているが、短いシークエンスに込めた演出で、何ページもの内容を適切に描いている。
原作が魅力的である、というだけでは説明ができないほど、しっかりとただしく映像に落とし込められている。
こういうことはなかなか難しい。
特に、原作がこれだけ名作とされファンが多い作品で、改めて脚本に落とすというのはそれだけで難儀なことだ。
これは賞賛に値する。
さて、問題児とされていたトットちゃんは、トモエ学園にいくことで自分の生きる場所を見つけていく。
列車の客車が教室になっているトモエ学園は、一時間目から授業は「好きなことをやっていい」というもの。
図画工作、綴り方、そろばん、体操、何をやってもかまわない。
昼食は講堂に集まって、みんなで食べる。
財布を便器に落としてしまったトットちゃんは、一人便器の中を探すが見つからない。
それを見た校長先生は、声をかけるがまったく止めようともしない。
「きちんと戻しておくこと」とだけ告げてそのまま去って行く。
見つけられなかったトットちゃんは、むしろ晴れやかな気持ちで、「いっぱい探したからいい」と納得して家路に就く。
あらゆることが自由で、自分のことを自分で決めて進めていく。
それを認められた子どもたちは、自分の責任で行動していく。
また、トットちゃんと仲良くなった泰明くんは、小児麻痺を患っていた。
肢体が不自由で、読書ばかりしていた。
校長先生も気にかけていたが、トットちゃんの計らいで、ある日木に登り、服を真っ黒にして帰る。
トモエ学園は、とにかく結果を恐れずに、可能性に蓋をせずに挑戦していくこと、その素晴らしさを引き出す場所になっている。
この姿は、子どもにとって当たり前のことなのかもしれない。
大人はこの姿を見せられて、「戦前のことだからね」と簡単に切り離すことができないだろう。
私たちが急速に見失ってしまった生きることの原点のようなものを、提示しているだろう。
知らない間に、大人の都合を押しつけていないか。
可能性を信じずに箱に入ったままにしていないか。
自分に向き合う前に社会や世間を見ようとしていないか。
見る人が見れば反戦映画のようにも見えるだろう。
しかし、重要なのは、戦争に向かっていく中でも自分を見失わない生き方や生活がある、ということだ。
それは「国を大事にしていないのか」というような批判とも、まったく違うところにある。
便所の財布、祭りのひよこ、泰明くんの死。
これらはすべて「うまくいかなかった」結果がある。
しかし、結果だけではない、何かを経験したからこそ、そこには不幸や哀しみ以外の何かも残っている。
結果や数字を要求される時代にあって、「幸せとは何か」ということを根本から問い直す映画である。
この映画の舞台となった時代から80年近くが経った。
戦後なのか、戦前なのかということがしばしば問われる時代。
それは、一つのよりどころに一直線に画一化されていく時代とも言える。
なぜ今更この映画が制作・公開されるのかという疑問は当然生まれるだろう。
けれども、黒柳徹子その人がナレーションができて、そして今まさにもう一度問われるべきことが、正しく問われている。
私たちは幸せなのか、と。
私たちは自分の人生を生きているのか、と。
トットちゃんから教えられることは多い。
子どもから教えられることばかりであるのと同じように。
家に帰った私は、春から小学生になる我が子を、思いっきり抱きしめた。
原作・ナレーション:黒柳徹子
監督・脚本:八鍬新之介
脚本と演出がすばらしい。
終戦間際までの東京の自由が丘にあった私立の「トモエ学園」に転校することになったトットちゃん(声:大野りりあな)は、学校に列車の教室があることに仰天する。
小林校長先生(声:役所広司)は、問題児として扱われていた彼女の話を、トットちゃんが納得するまで丁寧に聞き出し、「あなたは本当は良い子なんですよ」と力強く抱きしめた。
戦争の足音が大きくなる中、トットちゃんはトモエ学園で成長していく。
言わずと知れた児童文学の名作、「窓ぎわのトットちゃん」をアニメーション映画化した作品。
私はこの原作を読んだことがなく、子どもたちが読むだろうと考えたので、先に購入しておいた。
しかし、私は他の本を読んでいたので、原作を読まずに映画館に行った。
レビューがどこも高く、気になっていたからだ。
子どもたちと一緒に見たい、と思わせる良作である。
と、同時に、タッチは柔和だが、むしろ大人が見るべき映画になっている。
▼以下はネタバレあり▼
脚本、演出ともに非常に完成度が高い。
鑑賞後に少しだけ原作を読み始めているが、短いシークエンスに込めた演出で、何ページもの内容を適切に描いている。
原作が魅力的である、というだけでは説明ができないほど、しっかりとただしく映像に落とし込められている。
こういうことはなかなか難しい。
特に、原作がこれだけ名作とされファンが多い作品で、改めて脚本に落とすというのはそれだけで難儀なことだ。
これは賞賛に値する。
さて、問題児とされていたトットちゃんは、トモエ学園にいくことで自分の生きる場所を見つけていく。
列車の客車が教室になっているトモエ学園は、一時間目から授業は「好きなことをやっていい」というもの。
図画工作、綴り方、そろばん、体操、何をやってもかまわない。
昼食は講堂に集まって、みんなで食べる。
財布を便器に落としてしまったトットちゃんは、一人便器の中を探すが見つからない。
それを見た校長先生は、声をかけるがまったく止めようともしない。
「きちんと戻しておくこと」とだけ告げてそのまま去って行く。
見つけられなかったトットちゃんは、むしろ晴れやかな気持ちで、「いっぱい探したからいい」と納得して家路に就く。
あらゆることが自由で、自分のことを自分で決めて進めていく。
それを認められた子どもたちは、自分の責任で行動していく。
また、トットちゃんと仲良くなった泰明くんは、小児麻痺を患っていた。
肢体が不自由で、読書ばかりしていた。
校長先生も気にかけていたが、トットちゃんの計らいで、ある日木に登り、服を真っ黒にして帰る。
トモエ学園は、とにかく結果を恐れずに、可能性に蓋をせずに挑戦していくこと、その素晴らしさを引き出す場所になっている。
この姿は、子どもにとって当たり前のことなのかもしれない。
大人はこの姿を見せられて、「戦前のことだからね」と簡単に切り離すことができないだろう。
私たちが急速に見失ってしまった生きることの原点のようなものを、提示しているだろう。
知らない間に、大人の都合を押しつけていないか。
可能性を信じずに箱に入ったままにしていないか。
自分に向き合う前に社会や世間を見ようとしていないか。
見る人が見れば反戦映画のようにも見えるだろう。
しかし、重要なのは、戦争に向かっていく中でも自分を見失わない生き方や生活がある、ということだ。
それは「国を大事にしていないのか」というような批判とも、まったく違うところにある。
便所の財布、祭りのひよこ、泰明くんの死。
これらはすべて「うまくいかなかった」結果がある。
しかし、結果だけではない、何かを経験したからこそ、そこには不幸や哀しみ以外の何かも残っている。
結果や数字を要求される時代にあって、「幸せとは何か」ということを根本から問い直す映画である。
この映画の舞台となった時代から80年近くが経った。
戦後なのか、戦前なのかということがしばしば問われる時代。
それは、一つのよりどころに一直線に画一化されていく時代とも言える。
なぜ今更この映画が制作・公開されるのかという疑問は当然生まれるだろう。
けれども、黒柳徹子その人がナレーションができて、そして今まさにもう一度問われるべきことが、正しく問われている。
私たちは幸せなのか、と。
私たちは自分の人生を生きているのか、と。
トットちゃんから教えられることは多い。
子どもから教えられることばかりであるのと同じように。
家に帰った私は、春から小学生になる我が子を、思いっきり抱きしめた。
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