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ネタバレ必至で読み解く主観的映画批評の日々!

サラの鍵

2012-03-07 20:54:09 | 映画(さ)
評価点:81点/2010年/フランス/111分

監督:ジル・パケ=ブレネール

この映画がこの時期に撮られた意味を、僕たちはもっと感じるべきなのだろう。

1942年、ナチの侵攻によってフランス政府はドイツ軍に屈するという事態に陥っていた。
それに伴って、フランス警察がユダヤ人を集め、ポーランドのアウシュヴィッツに収容する動きが本格化していった。
ユダヤ人の両親をもつ少女サラ・スタルジンスキ(メリュージーヌ・マヤンス)は、フランス警察がきたとき、とっさに弟を納屋に隠した。
幼い弟ミシェルは納屋に閉じ込められたまま、両親と姉から取り残された。
両親と姉の三人は今は内務省が立てられている場所にあった屋内競技場(ヴェルデイヴ)に送られた。
そこにはトイレも食事も、何も無い、ただの空間だった。
ユダヤ人は、死体や汚物の臭いが漂う異常な空間に、数日閉じ込められた。
2009年、雑誌記者をしているジュリア(クリスティン・スコット・トーマス)は、ユダヤ人が収容されたという屋内競技場を取材していた。
そのなかで、夫の家族が長年住んでいたアパートが実はユダヤ人から接収された場所ではないかと疑い始める。
その場所は、70年近く前にサラが住んでいた、あのアパートだと分かる。

時間をもてあましているわけではない。
ただ、時間に余裕があるだけである。
ということで、時間があった、「サラの鍵」を見る事にした。
ユダヤ人をめぐる物語であるという以外、全く前評判なしで、映画館に向かった。

梅田の単館上映の作品には、やたらと戦争をめぐる作品が多く、少し敬遠していたことは事実だ。
「なぜいまさらこのような第二次世界大戦をモティーフにした映画を撮るのか」
その疑問から映画を見ようとしていた。

公開されて少し時間が経過している。
もし時間があるなら、ぜひ見に行ってほしい。
僕のその疑問に、見事に答える形の物語になっている。
戦争が反対だとか、兵士が英雄だったとか、そういった語り方ではすでに語りつくされた戦争だ。
僕たちが戦後70年近く経って、あの戦争に何を見出すのか。
見る価値のある映画だ。

▼以下はネタバレあり▼

この映画は語る側と語られる側の境界線が非常に明確である。
すなわち、語る側とはジュリアが取材するという2009年という時である。
語られる側は、1942年、ヴェルデイヴに収監されてしまうサラの人生である。
すでにここで何度も説明しているように、語る側を見せるということは、それは語る側の物語がテーマになっているということだ。
語られるサラだけの話を中心にしたいのなら、語るジュリアの立場やジュリアの内面を描く必要が無いからだ。
2009年現在(公開は2010年)とどのように繋がるのか、僕たちはサラに起こった悲劇をどのように受け取るべきなのか、ということがこの物語のメインテーマとなっていく。
だからこそ、なぜいまその物語を語ろうとするのか、描こうとするのか、ということを注目して映画を鑑賞しなければ、単なる「かわいそうな話」で終わってしまうだろう。
もちろん、そういう見方を否定するつもりはないけれど。

映画と同じように二つの時間軸を同時平行的に書いても、分かりにくいだろう。
話を時間軸ごとに整理しておこう。
サラは弟を納屋に閉じ込めてしまうことで、弟を救おうとする。
だが、ヴェルデイヴに収監されてしまった家族は、数日経っても弟のもとに帰ることができない。
サラは弟を閉じ込めた納屋の鍵を握り締めながら、パリの自宅に戻らねばならないことを強く意識する。
フランスの収容所に移動されたサラは、そこから脱走するべきだと決意する。
見事に脱出することができ、後に里親となるデュフォールの手助けによって、弟と再会する。
弟はすでに変わり果てた姿となっていた。

「ここで待ってなさい。すぐに戻るから」
その言葉によって、弟は納屋の中で餓死してしまう。

サラの一生は、ここから始まり、そして最期までその贖罪を果たせずに死を選ぶ。

サラは弟を閉じ込める事によって、弟を殺し、弟に導かれる事によって自分自身の生をつかむ。
サラはそれをどのように償うべきなのか、わからない。
だから、アメリカという土地に逃げ、自分の人生をやり直そうとあえぐことになる。
息子が9歳のとき、サラは死を選ぶ。
その年齢は、まさに自分が弟を閉じ込めてしまった10歳に満たないものだった。
彼女は自分の子どもがあの時の自分の年齢に達する前に、答えを導き出すべきだと考えていたのだろう。
けれども、答えは無かった。
自分は許されざる存在なのだというその思いは拭い去ることができなかった。
だから死ぬのだ。

一切、自分がユダヤ人だということを隠して。
息子が生まれてなお、ユダヤ人であることが明るみにでると、殺されてしまうかもしれない。
そんな烙印にも似た見えない傷を彼女は負ってしまったのだ。

そうしたサラの物語をジュリアは紐解いていく。
ジャーナリスト特有の「知りたい」という思いは、やがて周りの人々を傷つける行為だということを知る。
自分の出生がユダヤ人であることを知った息子は、露骨に動揺と嫌悪を示す。
そう、この物語はヒトラーの自殺で終わったものではないのだ。
現在にもつながる、ほんの少し前の物語だったのだ。

けれども、この映画を見ているほとんどの人間が、この物語は既に完結した閉じられた物語だと考えている。
博物館などで展示されているような、すでに終わった、別の世界の物語だと。
そのことをよくあらわしているのが、後輩たちの記者のセリフだ。
「ヴェルデイヴ? なんですかそれは?」
「もしあの場所にいたら、僕はテレビで観ているでしょうね。イラク戦争の時のように」

彼のパーソナリティの問題ではないだろう。
ほとんどのフランス人の若者たちは、自分たちの身に起こった、いや自分たちが起こした絶対悪について自覚的ではない。
もちろん、歴史として学んではいるだろう。
けれども、それが自分たちと直接関係ある出来事として受け取っている者は少ない。
ちょうど日本人が自分たちの身の回りに起こったはずの戦争を、そう実感を持っていないように。
(補足:ナチと日本人との戦争が同じレベルのものだと言いたいのではない。戦争に対する実感、リアリティを問題にしたいのだ。)

「テレビで観ているだろう」というこの傍観的態度を示すセリフは、非常に鋭い。
彼は記者として事件に関係しようとしているにもかかわらず、「テレビで観ている」という発言をしてしまう。
その傍観は、ほとんど「無関心」と同義なのだ。
しかし、一国が戦争に向かい、そして侵略されるということは、そんな生ぬるいものではない。
ナチスドイツにとって、フランスは敗戦国なのだ。
このセリフを聞くだけで、この映画を見る価値はある。
僕たちはそういう視座をもって、戦争を見つめるべきなのだ。

だからジュリアはサラの魂を開放するために、人生をかける。
自分の娘に、サラという名前をつける。
これはサラの魂の開放である。
生きること自体に意味を見出せなかったのろわれた人生、そう自分自身を呪って自殺したサラは、ジュリアというジャーナリストによって肯定される。
あなたの人生は間違っていなかったのだと。
それを聞いたサラの息子ウィリアム・レインズフォード(エイダン・クイン)は、思わず涙する。
母親の魂の解放、人生の肯定は、自分自身の人生の肯定でもあるからだ。

僕たち、地上にいる人間たちは、すべて過去の歴史的なつながりから受け継がれた命だ。
僕の祖父や祖母、あなたの曽祖父たちは、戦争を体験しているだろう。
それはほんの少し前の出来事であり、直接僕たちとつながっている出来事なのだ。
果たしてそれにどれくらい気付けるだろうか。
未来志向、刹那主義、前を向いて生きることを要求される現代において、ほんのついこの間のことも忘れてしまうのだろうか。

自衛権行使や、戦争反対などという前に、もっと目を向けるべきところがあるような気がする。

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