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ネタバレ必至で読み解く主観的映画批評の日々!

J・エドガー

2012-03-05 22:53:23 | 映画(さ)
評価点:84点/2011年/アメリカ/138分

監督:クリント・イーストウッド

エドガー1人が、まさにあの時代のアメリカの象徴だと思える力作。

1972年、ジョン・エドガー・フーバーFBI長官は、自伝を遺すべき時期に来ていると考えていた。
若い捜査官をインタヴュアーにすえて、FBI設立に至った経緯を話し始める。
1921年、共産主義者がアメリカをむしばんでいた。
過激なテロ活動が政府要人を狙うという事件が相次いで起こり、新たな捜査集団を必要としていた。
エドガーが司法省の新しい捜査機関の長官代行に抜擢され、これから到来する犯罪に対する新しい捜査のあり方を提唱していく。

アメリカで最も有名な男が、エドガー・フーバーという男だろう。
彼はFBI長官として長く在籍し、その功績をたたえる声の一方で、悪名も高い。
アメリカ国内の犯罪を捜査対象にしているため、日本人にはあまりなじみのない名前かも知れない。
僕にしても、リアルタイムで知っている人ではないし、名前だけ聞いたことがある程度だ。
さまざまな映画にも登場するので、記憶の片隅をつつけば出てくるかも知れない。

死後40年が経過した今、この映画が公開されたことは感慨深い。
情報化や科学捜査が常識となった今、彼の犯罪に対する執念ともいえる捜査は興味をそそられるだろう。
なにより、この映画はアメリカの象徴のようなところがある。
それがどのような意味合いなのか、じっくり楽しみたい、そんな映画だ。

イーストウッド監督に、主演がディカプリオ、共演にナオミ・ワッツ。
さらには、「ソーシャル・ネットワーク」の双子の兄弟を演じたアーミー・ハマーがフーバーの右腕として出演している。
楽しめるし、勉強にもなる、そんな映画だ。

▼以下はネタバレあり▼

この映画のタイトルが素晴らしい。
「J・エドガー」以外にタイトルは考えられない。
「エドガー・フーバー」ではなく、「J・エドガー」なのだ。
なぜなら、この映画は社会的な立場にいるFBI長官としての「フーバー」ではなく、個人としての「J・エドガー」を描いているからだ。
なぜFBI設立に至ったのか、それを描きながら彼がどんな生き方をしたのか、という点にも深く言及している。
それはあたかも、アメリカの一つの時代を象徴するかのような人生だ。
勿論、実際の彼の姿がどのようなものだったのか、それはもはや知りようがない。
周りの人の彼への評価は、二分している。
けれども、その一つの「仮説」として、十分な完成度をもっているのではないだろうか。

映画の構成は、自伝を記そうとする晩年のエドガーと、司法省捜査官から始まった彼の半生を描く。
前半は捜査官として使命感に燃える男という人物として描かれるが、後半になると彼がずっと見つめられなかったパーソナルな問題へと話題が移っていく。
前半も、後半もともに1900年代のアメリカという時代に翻弄された彼の姿がある。

捜査官としての彼は、徹底している。
捜査官としてどうあるべきか、規律と礼儀を重んじ、「人から憧れられる集団」を目指す。
口ひげを許さなかったし、品のない格好も許さなかった。
面接では自分の背の低さを気にするほどの、見られる自分を重んじる人だった。
しかし、外面だけをよくしようとしたわけではない。
犯罪を許さないという確固たる決意を見せるには、そうした外聞を重んじるべきだということを知っていたのだ。

強烈な民主主義、資本主義者でもあった。
共産主義を徹底して憎み、犯罪の温床とみなして弾圧した。
彼はアメリカが犯罪大国になることを予見し、科学捜査を早い段階から導入しようとした。
周りはその必要性が理解できないのだが、今では常識の捜査方法だ。
彼の鋭い時代を捉える目は、間違えていなかったわけだ。
犯罪者を糾弾するその姿は、狂気じみているようにさえ映る。
彼の思想は明らかに偏り、その偏りが更に捜査方法を断固としたものへと昇華させていく。
犯罪を徹底的に排除していくことを目的として、自分の意のままに権力者達を操ることをいとわない。
盗聴は当たり前のように行い、その極秘ファイルを元に、大統領に自分の権力を保証させる。
そうして独裁のような体制を48年間も続けてしまう。
死しか彼を止めることができなかったのだ。

その執念のような捜査には、実は裏がある。
彼のコンプレックスが関係していた。
それは同性愛者だったということ。
今でこそ、同性愛ということが市民権を得つつあるが、当時は「病気」だったし、「危険思想」そのものだった。
だから、社会的に抹殺されてしまうことは、子どもの頃から痛いほど知っていた。
母親もそれを断固として許さなかった。
母親の愛を直接的に受けることができなかった「病」をもつ彼は、その悲しみを共産主義に向けていくのだ。
犯罪者を憎むことで、愛されない自分を「誇らしい自分」に引き上げようとしたのだ。

社会的な制度もないため、愛する人と添い遂げることもできない。
そのため、恋に落ちた相手を副長官として据えることで、その悲しみを満たそうとする。
一番側にいる人間なのに、最も遠いところにいる。
その悲しみは計り知れないものだっただろう。

犯罪が爆発的に増加していくアメリカにあって、断固としてその犯罪と戦いながら、差別をかかえていた。
共産主義を徹底的に憎み、女性をおそれた。
アメリカという国を象徴するのに、これほど適任者はいないだろう。
公私ともに彼は「アメリカ人」だったのだ。

アメリカという国、その歴史はどのようなものだったのか。
アメリカ人はそれを真剣に問い直すところに来ている。
それは経済的な行き詰まり、権力的な影響力の低下、「お金を儲ける」以外の価値観を乱せない閉塞感、様々な要因があるだろう。
けれども、一つの時代にピリオドを打とうとしている。
「9・11」の傷も、悲しいほど薄れつつある。
次の時代を見据えるには、やはり、過去を振り返るしかできない。

イーストウッドが生きた時代とはどのようなものだったのか。
彼がこれを撮りたかった理由は、そのあたりにあるのだろう。

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