クララはAFと呼ばれる人工知能を持った知覚できるロボット。
ショウ・ウィンドウで並んでいるとき、ジョジーという少女の目にとまり、購入されることになる。
だが、ジョジーは病弱で、特殊な環境にいた。
家庭環境をAFとして見続け、クララはジョジーのよい友人になっていくが……。
2021年3月に、世界同時に発売された新作。
読もう読もうと思いながら、結局手を出していないイシグロの作品だが、思い切って、本当に断腸の思いで(お金がいないの)単行本を買った。
ネタバレしようにも多くの人はまだ読んでいないこともあって、(調べもしてないが)前評判も展開も分からずにちまちま読んだ。
読み終わるまで評価できない、ということを痛感させられる本。
気になる人は、ぜひ読んで欲しい。
高いけれど。
▼以下はネタバレあり▼
SF小説で、AFと呼ばれる人工知能の目線で描かれている。
説明的な叙述は少なく、出来事を記録するという文体になっている。
だから、状況が分かりにくく、話の方向も読みにくい。
記録体でありながら、結末を想定した超然的な語りではない。
故に、展開が遅遅として感じられるのか。
ともかく、クララはAFとして購入されたロボットではなかった。
ジョジーがもし病で死んでしまったら、その代替者として選ばれたもう一つの使命があった。
ここまで読んだとき、もはやこの本は絶対悲しい結末で読後感が最悪になることを覚悟した。
先を知りたいが、先を知るとその結末に到達することになり、嫌な気持ちになる。
これじゃあ、「わたしを離さないで」と同じ展開ではないか。
しかし、突飛もないクララのお願いが、お日さまに通じ、ジョジーは病気を完治させる。
この展開に、私は作家の非凡さを見る。
死という現実を逃れるために代替者を用意しようとする母親。
それを知りながら、お日さまにジョジーの救済を求めるロボット。
こういう対比は言われてみれば理解できる。
だが、それを物語に落とし込むことの難しさは言うまでもない。
向上処置によってジョジーは病にかかる。
向上処置をしない人間は大学にさえ行けない。
その賭けに負けてしまった、「不適切な人間」となってしまったジョジーに、母親はどうしようもない悲しみと後悔を抱く。
隣に住むリックも、また不適切な人間として描かれている。
死ぬかもしれない、その向上処置を避けてしまったが故に、才能を持っていてもそれを発揮することができない。
クララは最後のところで、人間は内側に部屋があるような、多面的な存在であるのではない。
むしろ人間は外側にその人間の心があるのだ、というようなことを語る。
わたしはわたしが作り上げたのではなく、私の周りによってわたしたる人間が形成されていく。
向上処置によって「不適切な人間」として扱われているのではない。
そう扱おうとすることが、結局「不適切な人間」を生むのだ。
それはリックにしても、ジョジーにしても、リックの母親にしても同じことが言えるだろう。
人間とはなにか。
大きな示唆があるように思われる。
ショウ・ウィンドウで並んでいるとき、ジョジーという少女の目にとまり、購入されることになる。
だが、ジョジーは病弱で、特殊な環境にいた。
家庭環境をAFとして見続け、クララはジョジーのよい友人になっていくが……。
2021年3月に、世界同時に発売された新作。
読もう読もうと思いながら、結局手を出していないイシグロの作品だが、思い切って、本当に断腸の思いで(お金がいないの)単行本を買った。
ネタバレしようにも多くの人はまだ読んでいないこともあって、(調べもしてないが)前評判も展開も分からずにちまちま読んだ。
読み終わるまで評価できない、ということを痛感させられる本。
気になる人は、ぜひ読んで欲しい。
高いけれど。
▼以下はネタバレあり▼
SF小説で、AFと呼ばれる人工知能の目線で描かれている。
説明的な叙述は少なく、出来事を記録するという文体になっている。
だから、状況が分かりにくく、話の方向も読みにくい。
記録体でありながら、結末を想定した超然的な語りではない。
故に、展開が遅遅として感じられるのか。
ともかく、クララはAFとして購入されたロボットではなかった。
ジョジーがもし病で死んでしまったら、その代替者として選ばれたもう一つの使命があった。
ここまで読んだとき、もはやこの本は絶対悲しい結末で読後感が最悪になることを覚悟した。
先を知りたいが、先を知るとその結末に到達することになり、嫌な気持ちになる。
これじゃあ、「わたしを離さないで」と同じ展開ではないか。
しかし、突飛もないクララのお願いが、お日さまに通じ、ジョジーは病気を完治させる。
この展開に、私は作家の非凡さを見る。
死という現実を逃れるために代替者を用意しようとする母親。
それを知りながら、お日さまにジョジーの救済を求めるロボット。
こういう対比は言われてみれば理解できる。
だが、それを物語に落とし込むことの難しさは言うまでもない。
向上処置によってジョジーは病にかかる。
向上処置をしない人間は大学にさえ行けない。
その賭けに負けてしまった、「不適切な人間」となってしまったジョジーに、母親はどうしようもない悲しみと後悔を抱く。
隣に住むリックも、また不適切な人間として描かれている。
死ぬかもしれない、その向上処置を避けてしまったが故に、才能を持っていてもそれを発揮することができない。
クララは最後のところで、人間は内側に部屋があるような、多面的な存在であるのではない。
むしろ人間は外側にその人間の心があるのだ、というようなことを語る。
わたしはわたしが作り上げたのではなく、私の周りによってわたしたる人間が形成されていく。
向上処置によって「不適切な人間」として扱われているのではない。
そう扱おうとすることが、結局「不適切な人間」を生むのだ。
それはリックにしても、ジョジーにしても、リックの母親にしても同じことが言えるだろう。
人間とはなにか。
大きな示唆があるように思われる。
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