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ネタバレ必至で読み解く主観的映画批評の日々!

わたしを離さないで

2011-04-01 21:42:38 | 映画(わ)
評価点:79点/2010年/イギリス・アメリカ

監督:マーク・ロマネク

僕たちに「猶予期間」などない。

ヘイルシャムという学校では全寮制の規律正しい教育が行なわれていた。
トミー、キャシー、ルースの三人はその中で幼なじみとして過ごした。
そこでは心と体を健康であるように保つことが重んじられ、子どもたちは創作活動に熱心に取り組んだ。
新しくルーシー先生が彼らの担当になり、こんなことを授業で話した。
「あなた達の未来は既に決められています。
大きくなったら間もなく臓器提供されることになります。」
次の日ルーシー先生は退職されたと校長先生から報告される。
キャシーはトミーに恋心を抱いていたが、トミーはルースと恋に落ちる。
妙な三角関係のまま、成長した彼らは「コテージ」という場所に移り住むことになった。

カズオ・イシグロという作家をご存知だろうか。
僕は全く知らなかった。
長崎県出身の彼は活動の場を海外に移して小説家や脚本家として活躍している。
その映画化がこの「わたしを離さないで」である。
村上春樹も注目する作家、という話も聞いた。

僕はキャスティングに惹かれて見に行った。
アンドリュー・ガーフィールドといえば「ソーシャル・ネットワーク」の友人サベリン役を務めた若手俳優だ。
新「スパイダーマン」シリーズにも抜擢された。
ヒロインとなるのはキャリー・マリガン。
17歳の肖像」や「ウォール・ストリート」での記憶は新しい。
オードリーの再来と言われる有望株である。
そこに、キーラ・ナイトレイまで名を連ねるとなれば見に行かざるをえまい。

予告編を見る限り、すでにオチは見えそうな映画だが、そんなことはあまり関係がない。
ストーリーを楽しむ以上に、揺さぶられる映画だ。
テンポは遅いので、眠気には注意が必要だが。

▼以下はネタバレあり▼

年号が詳細に提示されるが、あまり問題にならないだろう。
設定はSFなので、その年号もフィクションであると考えたほうが無理がない。
臓器のためのクローン育成というモティーフはユアン・マクレガーの「アイランド」で記憶に新しい。
しかし、「アイランド」とこの映画をだぶらせて見てしまうと、全く見当はずれのポイントを見てしまうことになる。
「わたしを離さないで」の背景にある設定をほじくりまわすのはやめたほうがいい。
この映画はどうしてもそのシステムに蓋然性があるかどうかを確かめたくなる。
しかし、それを描いた作品ではない。
あくまでも三人の心模様がどのように変化していくのかを描いた作品だ。

「この命は誰かのために」
「この心は私のために」
というキャッチコピーが秀逸だ。
このキャッチコピーがどれだけ自覚的に使われたのか僕にはわからない。
僕はこのキャッチコピーにさえもこの映画のしかけが込められていると読んだ。

すなわち、この映画は「臓器を奪われる物語」ではなく、「心を奪われる物語」なのだということだ。
僕はトミー役のアンドリュー・ガーフィールドが「猶予期間はない」ことを知らされて慟哭するシークエンスで泣いた。
まさにヘイルシャムでひとりぼっちになったとき、彼がグランドで泣いたのと同じ悲しみを突きつけられたのだ。
「どこまでいっても自分たちはヘイルシャムから出られないのだ」と。

この映画は三章構成になっている。
それとは別に、いくつかのレヴェルで物語がひっくり返される。
一つは予告編から知れることだが、彼らの命が決められた「臓器提供」のためだけのものであるということ。
もう一つは、ルースとトミーの恋は、ルースの嫉妬からのものであったということ。
そして最後に、トミーとキャシーの恋は本物だが、それさえも奪われる運命にあるのだということ。

他の世界から隔絶された子どもたちのいるヘイルシャムは、教育機関ではなかった。
それは臓器提供のための「培養装置」ともいえる場所だった。
子どもたちは言葉たくみにそれを教え込まれ、疑うことなく素直に生きていた。
教師はそれを当たり前のものとして提示し、子どもたちもそれを自分たちの使命だと信じていた。
ルーシー先生はその状況を打開しようとした人権保護団体かどこかからやってきたのかもしれない。
けれども、それが容易に崩れないのは、その臓器提供のための培養装置が確固たるものとして確立してしているからであろう。

純真無垢な彼らもやがて恋に落ちる。
キャシーはトミーに恋心を抱きながらも、積極的なルースがトミーを奪ってしまう。
その三角関係は、ごく普通のものであり、恋愛映画どころか現実にも起こりうる関係だろう。
この三人の関係がリアリティをもち、重さを持っているのは、臓器提供のクローンだからではない。
やがて死んでしまう運命にあるというのは邦画でよくある設定だ。
しかし、それとは重みが違う。
彼らの心理の詳細が非常に丁寧に描かれるのだ。
象徴的なのはキャシーがポルノ雑誌を盗み見るところだ。
ルースはそれを聞いて「恋人がいないことへの欲求不満」と解釈する。
だが、トミーは見抜いていた。
キャシーはすばやくページをめくり楽しむような雑誌の開き方ではなかった。
彼女は自分がこんなにも人恋しいことを、オリジナルの性質だと信じようとしたのだ。
もっと深く言えば、自分の運命によって自分自身の衝動を説明しようとしたのだ。
彼女が感じる気持ちがあまりに不条理だから。

三人は死を直前に和解する。
真に愛する者と結ばれれば猶予期間を与えられるという話を信じ、キャシーとトミーは動き始める。
ヘイルシャムで行なわれていた芸術的才覚の発掘は、魂の選定であると二人は信じた。
観客は誰もが分かっていただろう。
それが単なる噂であり、そんな「おとぎ話のようなうまい話」はあり得ないだろうと。
二人はルースの手引きによりマダムの自宅へ押しかける。
そこで告げられたのは「どういう魂なのかという選定」ではなく、「魂があるかどうかの確認」だった。

二人は絶望する。
その絶望ははかりしれない。
二人の愛には長い道のりが必要だった。
ルースという親友の命まで犠牲にした。
その上での失望なのだ。
「ヘイルシャムから逃げられない」というのは自由さのかけらもないあの場所から彼らは一歩も出ていなかったという意味だ。

そしてそれは彼らが捧げる臓器は、単なる身体的な部位という意味ではないことがつきつけられる。
彼らの心までも捧げるようにしくまれていたのだ。
しかし、この映画をみて「かわいそう」と涙した人はそれこそ「かわいそう」だ。
この映画が描いているのは全く非現実的な架空の話ではないからだ。
奪われているのは、あなた自身、僕自身の心がまた奪われていることを突きつける。

高度に経済成長した現代先進国では、アイデンティティを探すのに躍起になっている。
それは人が人としての存在を、「能力」や「技術」というような「人材」としてしか扱われないことの裏返しだ。
僕たちもまた、誰か全く知らない人間に臓器や心を提供しているのだ。
知らぬ間に。
あるいはそれを知らずに受け取っているほうかもしれない。
「月に囚われた男」でもあったが、「かわいそう」なのは僕たち自身なのだ。
だから「かわいそう」なんていうことばでは片づけられないほどの重みがある。

非常に丁寧に、非常に淡々と、キャシーたち三人の心の動きを描いている。
感情移入しやすい映画であり、かつ、彼らの外側について全く触れられない映画でもある。
それはまさに、僕たちの人生そのものではないか。

見終わってなお、悲しみと重みを感じる、そんな映画だ。

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2 コメント

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Unknown (ピカ)
2011-04-01 21:55:38
ブログの背景を頻繁に変えますね。
慣れたと思ったら、また違う物に…。
返信する
わたしは飽き性です。 (menfith)
2011-04-04 20:07:56
管理人のmenfithです。
ようやく「ザ・ファイター」をアップしました。
ってここに書かなくても分かりますね。

>ピカさん
僕は飽き性なんです。
だから、気分転換をするために一年に一度くらいの割合でテンプレート(デザイン)を変えています。
もともとブログという形式に変えたのも、デザインを変えやすくするためでもあります。

形は変わっても中身は変わりませんので、どうぞおつきあい下さい……。
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