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ネタバレ必至で読み解く主観的映画批評の日々!

ランボー 最後の戦場

2008-06-08 11:02:21 | 映画(ら)
評価点:80点/2008年/アメリカ

監督・脚本・主演:シルベスター・スターローン

「こんなところにいたい奴なんていない。けれど、俺たちの仕事はここにある。」

ミャンマー国境に近いタイのジャングルでは毎日のように蛇どうしの戦いをショウとして見せていた。
その蛇を調達しながら生計を立てていたジョン・ランボー(シルベスター・スターローン)のもとへ、NGO団体が訪れる。
内戦が続くミャンマーへ支援物資を送りたいから、船を出してほしい、という。
ランボーは彼らの浅はかな行動に対して、耳を傾けようとしない。
だが、サラ・ミラー(ジュリー・ベンツ)の熱心な頼みに動かされたランボーは、仕方なく彼らを村まで連れて行くことにする。
数日後、再び彼の元に、客が訪れる。
連れて行ったNGOのメンバーが政府軍に拉致され、それを救出したい、そのためにその場所まで連れて行ってくれないか、と頼まれる。
長い間戦いから遠ざかっていたランボーは、再びナイフを研ぎ始める。

「おいおい、マジかよ。もう引退しろよ」
これが「ランボー 最後の戦い」が制作されるということを聞いたときの僕の感想だ。
そしてやっぱり「ランボー」と「ロッキー」にしか頼るところがないのだと、改めて思ってしまった。

ラジー賞の常連となってしまったスターローンが、映画人生の原点ともいえる「ランボー」に挑戦する。
60を越えるボクサーよりは、多少説得力ある老兵といったところだろうか。
鍛えた体を見せてくれるが、やはりかなりの無理を感じる。

多くの人が「今更」と感じているこの映画に、僕たちは何を感じるだろうか。
その評価は、それぞれが下すしかない。
是非、映画館に足を運んでほしいと思う。

▼以下はネタバレあり▼

今回の舞台は「ミャンマー」。
スターローンにとっては、非常にタイムリーな話題になった。
僕たちがいまミャンマーについて思い出すことは、サイクロンによる甚大な被害だろう。
大きな、多くの犠牲者が出ているにもかかわらず、政府はいっこうに国際機関に援助を要請しない。
軍事政権ということもあり、各国から多くの批判が集中している。
ようやく支援を受け入れることを表明したが、果たしてどこまで支援が行き渡るか、
依然不透明な情勢だ。
予期せずにこの話題と、本作がバッティングしたことから、スターローンにとっては追い風だろう。
しかも、それが、世論の喜びそうなミャンマー政府=悪というわかりやすい構図だ。

「よかったね、スターローン」と声をかけてあげたい。

だが、この映画が社会的な視座を持った、国際情勢に一石を投じる映画だと観るのは危険だ。
「ブラッド・ダイヤモンド」や「ナイロビの蜂」のような、内情をえぐるような作品とは全く違う。
僕たちがどれだけミャンマーについて知っているだろうか。
軍事政権、国際援助拒否、内戦の長期化。
それだけで即、ミャンマー政府が諸悪の根源だというにはあまりにも短絡的だ。
僕たちは幸いにして、ある程度の教育を受けられる環境にあり、すぐさま死に直面するような内乱の世界には生きてない。
それなら、彼らの状況を単に「悪」と断じることは、冷静さを欠いているだろう。
もっと冷静に、もっと客観的に、もっと多角的に物事を判断する必要があるだろう。

冒頭のニュースの編集のシーンは、すべてアメリカや西欧サイドのニュースだ。
それはすなわち、一方からの情報だということだ。
実際に興味があり、この映画に感動したというなら、批判の声を高めるより、まずは自分の知識を高めることを目指す方が賢明だ。
だから、僕はあえてこの場でミャンマー批判をしたいとは思わない。
だって僕も、ミャンマーについて批判できるほどの知識を持ち合わせているわけではないのだから。

さて、この映画のテーマは至ってシンプルだ。
ジョン・ランボーという人物が自分を認めるかどうか、という点にある。
堅くいえば、「アイデンティティの確立」である。
しかも、ジョンの故郷・アメリカに帰るまでの物語であり、さらに、川を渡って敵を倒し、また帰ってくることを考えると、やはり「往って還ってくる」タイプの物語だ。

もっとも、この映画には丁寧な心理描写など一切ない。
もっといえば、なぜジョンがNGO団体を運んであげたのか、理解できない。
女性に懇願されたから、その熱意に負けた、というのならそうかもしれない。
だが、前作までであれほど嫌というほど戦いをさせられ、疲弊しきっている男が、
久しぶりにみた白人女性に頼まれただけで、心変わりをしてしまうとは、どうしても思えない。
このあたりは、ブラックボックスに包まれている。
重箱の隅をつつくようなことを言い出せば、きっとこの映画は、「心理が描けていない」というような評を下すことになる。

だが、それを問題にさせない、しないところにこの映画の魅力がある。
そんな些細な(ほんとに?)問題にはいちいち与しない。
そんなことを考えるくらいなら、このシーンを観ておけ、とばかりにアクションシーンを入れている。
それで満足できてしまうところが、オールドファッションな映画であるゆえんであり、パワーであるから不思議だ。

とはいえ、その数少ない心理描写の中でも、ランボーの心理変化を窺わせる台詞がある。
それが
「無駄に生きるか、何かのために死ぬか、お前が選べ」
「こんなところにいたいと思う奴はいない。
けれども、こういう場所には俺たちのような者が必要だ。
俺たちのような者の仕事はここにある。」

という二つだ。
とてもシンプルだが、これまで描いてきた「ランボー」の姿そのままだと言っていい。
僕はここに、「ランボー」で観た兵士の悲しみがあるように感じた。
思えば、僕が最初にまともに観た戦争映画は「ランボー」だった。
そこには命を賭けて戦ったにもかかわらず、報われない悲しく弱い兵士が描かれていた。
それまでなんとなくアクション映画を観て憧れていた僕には衝撃的だった。
ベトナム戦争というものへの関心が高まったのもそのころだったように思う。
このシリーズ最終作にも、切ないほどにその兵士の生き様が描かれている。

だがその言葉が心を打つのは、ただ兵士たちの代弁であるからではないことに、
僕は気づく。
この言葉が、多くの人に対して心打つ台詞であるのは、日常生活に生きる僕たちも、
また同じような閉塞感の中に身を置いているからに他ならない。
誰しも、「こんなところにいたいと思う奴はいない」と思う逼迫した状況の中、
死をそのまま感じることはないにしても、
いつ生活が侵されるかわからず、仕事をしている者にとって、代弁以外のなにものでもない。
けれども、と僕たちは言い聞かせるのだ。
「俺たちのような者がここには必要なのだ」と。

ランボーが帰れないのは、自分を認められないからである。
その自分とは、兵士であるという血であり、悪を見逃すことはできないという使命感だ。
内乱が続く戦場間近に身を置きながら、それでも戦場に赴くことも出来ず、さらに「アメリカに帰る理由」さえ見つけられない。
ちゅうぶらりんのランボーは、目の前に助けるべき人間を見つけて、ようやく「3」での大佐の問いかけの意味を悟る。
それは単なる殺人マシーンとしての自分ではなく、誰かを守るための殺人マシーンなのだということである。

「1」で懲りたはずのランボーはそれでも武器を取った。
戦場には、自分にしかできないことがあり、
かつ、それをなんとしてでも成し遂げようという強い意志があったからに違いない。

そのテーマを見せるには、シルベスター・スターローンしかいないのかもしれない。
彼があきらかに長い時間の経過を思わせる肉体を、これでもかというほどに奮い立たせる。
それだけでも、すでに「悲しい」のだ。
執拗なまでに暴力的なシーンを挿入し、痛みを見せる。
それは、ランボーだけではなく、スターローン自身の覚悟の現れだと思えてならない。

おそらく彼は不器用なのだろう。
「ロッキー」や「ランボー」という無骨な、不器用な映画でしか自分を表現できない。
その悲しみが、この作品には漂っている。
それが僕らを惹きつけるのかもしれない。

社会的な視座はおそらく一方的だ。
主人公の心理も満足に描けてはいない。
こと、傭兵の五人に関してはご都合主義だ。
CGだって、もっと素晴らしい映画はたくさんある。

映画としての完成度は高いとは言えないだろう。
けれども、彼の最後のわがままに付き合っても、損はないと思える、そんな映画だ。

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