secret boots

ネタバレ必至で読み解く主観的映画批評の日々!

スナイパー(V)

2008-06-08 10:53:27 | 映画(さ)
評価点:42点/2002年/アメリカ

監督:カリ・スコグランド

高性能ライフルで命をねらう、謎の男の目的は。。。

銃の製造会社マクロード社の副社長リバティ(リンダ・フィオレンティーナ)は、
不倫相手の俳優ラッセルの下へ向かうために、劇場に向かっていた。
しかし、電話の先ではラッセルは何者かに銃を突きつけられ、目の前には音を探知できる爆弾がセットされていた。
劇場の前にある広場で、リバティの電話が鳴る。
赤外線のレーザーでねらわれた彼女は、ジョーを名乗る男(ウェズリー・スナイプス)の言うがままに、
爆弾がセットされたホットドッグの屋台に手錠でつながれてしまう。
それは、彼女と、その夫のビクターが行なう「死の商売」への復讐の始まりだった。

「ブレイド」シリーズでヒット・メーカーの仲間入りを果たした、ウェズリー・スナイプスのサスペンス映画。
いきなり事件が始まってしまい、観客はサスペンデッド状態に置かれたままで、犯人の目的と、事件のなりゆきを追うことになる。

▼以下はネタバレあり▼

こうした、いわば無冒頭的な映画は、緊張の持続がかぎになる。
二時間弱という時間、観客に集中と緊張を持続させることはもともと不可能だ。
だから、いかに緊張を緩和させるシーンを挿入しつつ、ある程度の緊張を常に持続させるための展開の工夫が必要になる。
一旦緊張の糸が切れてしまうと、映画として非常につらいものになってしまい、シチュエーションが台無しになってしまう。
また、同じ調子の緊張がずっと続くと、やはりその緊張に慣れてしまって登場人物と同じレベルの物語の参加が不可能になってしまう。
こうした展開の映画は、監督の手腕が問われる。

また、今回の映画では、ひとつの物語の時間軸、しかもひとつの事件のみを実況中継的に扱うために、さらに緊張の緩急と展開の変化が重要になってくる。
この「今正に事件が起こっている」という状態に観客を陥れつつ、状況を説明していくという展開は、緻密な計算が必要になる。
その意味では、この映画は挑戦的であるといえるだろう。

状況が全くわからないという状況では、緊張感のみが伝わり、状況の把握と、展開への追従が求められることになり、観客は非常に疲れてくる。
ずっと「よくわからない」では興味がなくなり眠たくなるし、すぐに「わかった」ではサスペンデッドな状態を作りだす意味がなくなってしまう。
情報を小出し、小出しにする必要がある。

まず冒頭20分ほどでは、ジョーの目的が全くわからない状態にある。
事件の状態が把握されたに過ぎず、ジョーが何者であるのか、ジョーはリバティになにを求めているのか、全くわからない。
そして、自体の硬直状態の打開のために、警察官と、トールマンという記者を立て続けに殺す。
このあたりから、銃への強い憎しみがあり、ジョーの目的が単独での復讐であることがわかる。
トールマンの死が印象的にゆっくりしたものであるのは、観客に、ジョーの行なっている復讐の矛盾と、ジョーへの嫌悪感をあおるためであろう。
この映画では、ジョーへの感情移入と、
リバティへの感情移入とを交互にさせるため、アメリカ全体への警笛という側面と、
戦争や銃というものがもっている複雑さの側面とを観客に考えさせることを可能にしている。
また、トールマンの死は、観客に緊張の持続を求めるためにある。

トールマンが殺されたことにより、リバティは、自身が関わってきた銃の取引について話し始める。
また、この段階になって、ようやくジョーの動機と職業がわかるようになり、次第に事件の全貌が明らかになる。
しかし、事件の状況は殆んど変わらず、観客の疲労は大きくなる。
事態が変化を見せるのは、社長のビクターが射殺されるシーンだ。
これによりジョーとビクターとの関係が明らかとなり、同時にジョーの復讐が達成される。
この達成により、事件は急展開をみせ、一気に「解決」し、ジョーは自殺する。

このように、事件の状況の変化は殆んどない。
そのために人を何人か殺すが、結局緊張はずっと持続されることになり、ストレスがたまる。
それでも集中力を持続し続けさせるために、情報を小出しにしているが、やはりストレスは非常に大きなものであることは変わりない。
そうなると、今度は、結末のカタルシスによる開放が必要不可欠になる。
見事に終わってくれれば、観客が粘った甲斐があるというものだ。

しかし、残念ながらこの映画の結末は、復讐の完結であり、ジョーの自殺である。
そのフォローとして、議員名や裏情報を告白したリバティの姿が映し出されるが、問題が解決したとはとても思えない。
もちろん、銃社会に大きな影響を及ぼすことができるかもしれないが、観客が求めるのは、そうしたしたたかな「変化」ではない。
ジョンQ」のような、大きな、目に見える、派手な「変化」だ。
ジョンQ」では明らかに根本的な問題は解決されていない。
しかし、観客はその感動的な派手な解決に、拍手を送り、満足して席を立てるのである。

この「スナイパー」ではそのカタルシスが得られない。
単純に言えば、「疲れる」終り方なのだ。
それまでに強いられてきた緊張に見合ったカタルシスが得られずに、重たいテーマを背負ってしまったがゆえに、「はぁ~、疲れた」という感想しかもてない。
この制作者側の「回答」は、絶対に失敗である。
現実の社会をかえりみれば、それは重要な回答かも知れない。
しかし、映画という媒体では、重たすぎる。

この映画が失敗しているとするならば、結末に原因があるといえよう。

(2003/11/29執筆)

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