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secret boots

ネタバレ必至で読み解く主観的映画批評の日々!

ドント・ウオーリー

2019-06-06 18:37:56 | 映画(た)
評価点:86点/2018年/アメリカ/115分

監督:ガス・ヴァン・サント(「グッド・ウィル・ハンティング」他)

私を、許してほしい。

車椅子の風刺漫画家のジョン(ホワキン・フェニックス)は、聴衆の前に立ち、講演を始めた。
「私はアルコール依存症のジョンだ。」
その半生を語り始めた。
彼は四六時中酒を呑んで酔っ払っている青年だった。
あるとき友人に誘われパーティーに向かった。
そこでもずっとキツイ酒をおあり続け、知り合った男デクスター(ジャック・ブラック)とともに泥酔しながら家路についた。
デクスターが運転する車が電信柱に衝突し、ジョンは突如として身体障害者となった。
すべてに絶望したジョンは、胸から下が麻痺した状態でも酒をやめられず、絶望の淵にいた。

実際にいた風刺漫画家の自伝をもとに脚本化されたものを、映画化した。
故ロビン・ウィリアムスがその版権を買っており、「グッド・ウィル・ハンティング」でも組んだガス・ヴァン・サントが監督をした。
主演はホワキン・フェニックス。
たくましいイメージだった彼が、見事に屈折した身体障害者を演じている。

お世話になっている美容室のオーナーさんが二度見に行ったとおっしゃっていて、そのときは「多分もう見ることは出来ないですね」と答えていた。
しかし、運良く映画を見に行く時間を得て「ゴジラ」と迷ったあげく、どうせ見るなら、ということで大都会まで足を運んだ。
話の筋はあらかた聞いていたので、時系列がばらばらなところも違和感なく見られた。

史実に基づいていながらも、いわゆるドキュメンタリータッチの話ではないので、少し整理しながら見る必要はあるだろう。
私はぎりぎりになって映画館に到着して、朝ご飯を食べていなかったのでホットドックを注文してから映画館に入った。
チーズホットドックを頼んだせいで、服がチーズまみれになってしまい映画に集中できなかったことが、多少映画への集中に影響を与えたかもしれない。

▼以下はネタバレあり▼

エンドロールを迎える頃、こどもたちと一緒に車椅子で遊ぶジョンの姿を見て、私は涙が止まらなかった。
彼のあの姿こそが、彼の生き方そのものだと感じたからだ。
かつての彼なら、あり得なかった年下の健常者との〈交感〉に、彼の生き方が象徴されているだろう。

この映画は、私はアルコール依存症だから関係ないとか、身体障害者が近親者にいないので理解出来ないとかいった批判をことごとくかわすだろう。
誰にでも理解出来る、誰にでも思い当たるところがある、そういう物語になっている。
私たちはだれもが何かにとらわれている。
それが幼い頃自分を捨てた母親なのかもしれないし、自分の容姿なのかもしれないし、知的なあるいは身体的な能力の低さかもしれない。
けれども、その何かを、私たちは違う何かでそれを補おうとすするのは共通することだ。
その代替が酒なのか、ゲームなのか、仕事なのか、あるいは子どもなのかそれはわからない。
しかし、自分が生きられなかったアイドルの道を子どもに投影してアイドルを目指させるというような話はよくあることだ。
もちろん、子どもの進学先を、東大や京大、医学部にしたがるのも同じことだろう。

なぜこの映画が普遍的だと言えるのか。
私はこの映画が、常に対話的な展開をとっているからだと考えている。
ジョンは、常に誰かとのやりとりの中でスクリーンに登場する。
たった一人で孤独に苦しむというシークエンスは殆どない。
一人きりにみえてもそこには必ず母親という〈亡霊〉が彼に寄り添っていた。
良い意味でも悪い意味でも。
彼が悩んでいるのは、ことごとく、対人関係なのだ。
そして、彼が解決していくのも、対人関係の中においての自分なのだ。

私がそのように考えたのに、アドラーの考え方が深く影響していることは告白しておこう。
むしろ私は始まってすぐに、この映画がアドラーの考えていたことの実践になっていると気づいた。
彼が最初にセミナーに訪れたとき、彼らは最初の挨拶で声をそろえてこう言う。
「変えられないものを受け入れる安らぎを、変えられるものを変える勇気を与えたまえ。」
この一節は、アドラーの「科学」を紹介したベストセラー「嫌われる勇気」にもあった。
最近読んだところなので、余計に私はその流れで映画を見ることになった。

だが、ジョナ・ヒル演じるドニーとのやりとりで、その読み方は正しいと確信する。
「私は自分が救われたいから、君たちを助けているのかもしれない。」
そして、彼はエイズで亡くなってしまう。
ドニーは、裕福な家庭で育ち、それが彼をゆがませ、同性愛であることを気に病み、アルコールに依存していった。
そのせいで、恋人をなくし、アルコールを断つ決心をする。

一方的に救っていた神のような存在に映っていたドニーでさえ、自分自身との闘いを強いられていた。
裕福で何不自由のないような顔でジョンの前に立っていた(実際には横たわっていたけど)彼もまた、不治の病に冒されていた。
救う者と救われる者という上下の関係ではなかったのだ。
それは心を開いて、自分自身と相手を対等にみる考え方のもと、ドニーは会を開いていたのだ。

許すこと。
自分を捨てた母、半身不随においやったデクスター、不親切な介護福祉士、家族として認めてくれなかった養父母……。
彼はすべてベクトルを、他者へ、自分だけが不幸の主人公であることを抗議していた。
だれも俺の悲しみを分かってくれるものはない、と。(詩人李徴さん談)
そして自分自身を許すことで、彼は自分が生きることが、他人とともに生きることであり、与えられたものを自分がどう活かすかであるかということに気づいていく。

もう一つ象徴的な彼の変化を表す台詞を指摘しておく。
それは自分の風刺漫画について、街角でその感想を聞いて回ったときだ。
「あんな酷い漫画、差別的だ、もう二度とあの新聞は買わない!」
そう言われたとき、彼は笑って「そう、そういう反応を待っていたんだ!」

彼の漫画がどのようなものだったのか私は知らない。
映画が本当なのか、もっと酷かったのか。
それでも少なくとも、映画の中の彼が、どういうスタンスで漫画を描いていたのかを象徴する台詞だったと思う。
彼は社会をあっと驚かせるために、そして人種差別に満ちた世界で、そのことを気づかせるために、「人のために描く」というスタンスを貫いていた。
だから、怒らせることも織り込み済みで、描いていた。
怒らせるということは、人に何かを訴えたということであり、それは傷つけるためのものではない、対立するためのものではないことを知っていた。
そんな彼にとっては、多少の批判はむしろ「好評」といえるわけだ。

彼はアドラー的に言えば、世界と一体になっていた。
だから、自分のことをネタにして、自分が受けてきた、与えてきた差別をネタにすることができた。
その痛みを、一番よく分かっていたからだ。

彼は聴衆の前で最後に、この場で話が出来たのは、「あなたたちのおかげだ」と締めくくる。
彼は、他者との関係の中で生かされていることを、強烈に意識していたのだ。

だからこの映画は、誰かの物語ではないのだ。
私たちはみな誰かとの関係性の中で生きている。
みな、それぞれに境遇は違う。
けれども、抽象化すれば、みな対人関係の中で生きている。
一方的な関係性の中では生きていない。

そのことを、対話というシークエンスを連続させることで、監督は見事に描ききった。
見下していたはずの、少年達とともに、子どものように遊べたのは、彼が子ども達を尊敬し、一人の人間として接しようとしていたことを示している。

言うのは簡単だ。
だれもが他責にせずに、自分を変えたいと思っている。
けれども、それをするのはとても難しい。
それをできない自分さえも許すこと。
私にとって、とても大事な映画になったことは間違いなさそうだ。

それにしても4Dでもないのにチーズくさいのは何の演出だろうか。
私は、チーズをこぼした私を許すところから始めたい。


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