secret boots

ネタバレ必至で読み解く主観的映画批評の日々!

トイ・ストーリー3

2010-08-18 20:18:55 | 映画(た)
評価点:78点/2010年/アメリカ

監督:リー・アンクリッチ

ピクサーの威信を賭けた意欲作。

アンディ(声:ジョン・モリス)も17歳。
大学進学をきっかけに、引っ越すことになった。
ウッディ(声:トム・ハンクス)たちは捨てられるのかも知れないと気が気でない。
混乱するバズ(声:ティム・アレン)たちを説得しながら、ウッディはそれでもアンディを信じようと訴える。
しかし、黒いゴミ袋に入れられたバズたちは、アンディのママに間違われてゴミに出されてしまう。
何とかゴミ袋から脱出したバズたちは、アンディに対して不信を募らせる。
オモチャとして生きるために、サニーサイドという幼稚園にいく箱へ乗り込んだ彼らは、子どもたちが多いことを楽園だと喜ぶのだが…。

ピクサーを一躍映画界のヒットメーカーに押しやったのは、「トイ・ストーリー」だった。
その「」から11年。
いよいよその完結編を迎える。
夏の話題作の一つで、いつまで経っても観客が減る気配がない。
しかも3D化されたこともあり、僕が見たかった字幕版が極端に上映回数を減らされてしまった。
もう逃すと見られないと思い、意を決して仕事帰りに見ることにした。

周りから聞く評判は上がる一方で、僕のハードルも極端に上がった本作。
切なすぎる物語に、誰もが涙することは必至だろう。
CG技術の発達によってより質感が向上した世界と、それでもあのときのままのウッディとバズに是非会いに行こう。

▼以下はネタバレあり▼

オモチャたちの主人が大人になったとき、オモチャはどう考えるのだろう。
オモチャにとっての幸せはどのようなものだろう。
単純そうに見えるその命題を見事に料理しきったピクサーには敬服しかない。

この映画は、子ども向けの映画ではない。
むしろ、オモチャと別れを告げたことがある年齢でなければ楽しめないのではないかと思わせるほど、シリアスな映画だ。
アンディはもはや17歳で、オモチャで遊ぶ年齢でなくなった。
そのとき、大好きだったオモチャたちをどうするのか、がテーマであり、それはそのまま「あなたたちが遊んだオモチャはいま何処にありますか?」という問いかけでもある。
もし日本人がこういう同じような題材で映画を撮るとしたら「もったいないことはしてはいけない」という何ともお説教くさい話を作り上げてしまうだろう。
適当にオモチャが壊れてお涙ちょうだい、でも僕は忘れないよ、で終わらせてしまうに違いない。
だが、そこはピクサーのセンスの良さがひかる。
きちっとオモチャたちがどう別れを決断するかまでを描いている。

物語の構造はいたってシンプルであり、ある意味では王道だ。
アンディの家を不意に飛び出してしまったオモチャたちは、再びアンディの家に帰ってきたとき、ある結論を得る。
それは日常―非日常―日常という往来の物語そのままである。
そんな子どもにもわかりやすい構成だが、内容は全然子ども向けじゃない。

この映画のポイントは、ラストの結論ではない。
ラストの悲しすぎる結論は、強いメッセージを訴えるが、それまでの流れによってそこで感動を得るように構成されている。
その流れが、非日常にあたる幼稚園でのシークエンスだ。

オモチャの誰もがあこがれる幼稚園。
そこには子どもがいて、ずっと遊んでいられる。
壊されて捨てられることもあるが、その天寿を全うするまで、主人に見捨てられることもない。
まさに理想郷……ではなかった。
激しい遊び方をする幼稚園児にとって、オモチャを大切にしようという思いはない。
しかも、自分の所有物という意識もないので、特定のオモチャを愛することもない。
そこはまさに監獄だった。

監獄の所長ロッツィ(声:ネッド・ビーティ)は新人たちによりつらい仕事をあてがう。
自分たちは年長組に入り、穏やかに遊ばれる。
そこでは完全に序列が決まっており、オモチャ的扱いを受けるためには、偉くなるしかない。
偉くなるためには、ロッツィに取り入るしかない。
昼には過酷な労働が待っていて、夜はドアロックされて逃げ場もない。
まさに監獄である。

見ている誰もが気づくはずだ。
「…これはオモチャの描写ではない。俺たち(労働者)そのものだ…」
子ども向けの映画とは思えないほど、暗い。
悲しい過去を持つとはいえ、残酷なオモチャロッツィに、夜になると急にホラー映画になるビッグ・ベイビー。
もはやお気楽子ども向け映画ではない。
僕はどきどきしっぱなしで、心が締め付けられるようだった。
一作目はオモチャを大切にしない子ども二作目はお金という大人社会の価値観にゆがんだ商売人、そして三作目は「生きることの不自由さ」。
この身に迫るような暗澹たる「敵(課題)」の変化は何だ。

これまでの敵はオモチャにとって巨大なもので、強大なものだった。
そのため「ニモ」にもあったように、小さいものの団結と大きなものへの挑戦というアメリカでは半ば常識的な対比のなかで物語が展開されていた。
だが今回は、強大な敵はいない。
敵として対峙するものは、その中身にしかいない。
子どもも大人も、17歳になったアンディも、敵ではない。
敵(課題)となるのは、ロッツィの中にある憎しみであったり、子どもの無邪気さ、時の残酷さである。
特に、同じオモチャであるロッツィの中にある憎しみには、単に否定し得ない強いものがある。
なぜなら、ウッディやバズたちも、また同じ境遇になるからに他ならない。

ケン(L'Arc-en-Cielのギター担当ではない。声:マイケル・キートン)やバズのスパニッシュ・モードなどちょこちょこ笑える要素はあるものの、それにしても僕はつらかった。
早く結末を見せて欲しいという一心だった。
もう、ゴミ処理上のリアルな描写のところで、僕は自分まで不要にされてしまったかのような緊張と絶望を感じた。

その暗く重い中盤は、もちろん、ラストへのカタルシスを大きなものにするために仕組まれたものだった。
オモチャにとっての幸せは何か。
俺たち(労働者)にとっての幸せは何か。

楽園のような非オモチャ的な扱いを受けながら働くことか。
忘れ去られた存在のようになり、屋根裏に入れられることか。
天寿を全うしたとして老兵のように去ることか。
それとも、オモチャ的な扱いをしてくれるところを求めて生き甲斐を得るか。

ラストの感動は、自分のオモチャへの回顧だけではなく、自分の生きる場そのものへの復興も含まれる。
だからこそ、大人向けなのだ。

アンディももう17歳。
それまで同時期に「トイ・ストーリー」を見ていた世代も、もう大人になっている。
制作者たちが僕たちに見せてくれたのは、安易な敵をやっつけるような話ではなかった。
自分の生き方をどう決するのか、自分で選択する強さを持てという叱咤激励だったのだろう。

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2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
ピクサーはすごいですね。 (menfith)
2010-08-19 21:32:09
管理人のmenfithです。
活動休止中のキンモクセイというバンドが僕は本当に好きなのですが、今日たまたま「ボーカルの伊藤俊吾は何をしているのだろう」と思って検索をかけたところ…。

「伊藤俊吾 死亡」なる記事が!

ウィキで調べるとガセだったらしいですが、迷惑な話です。
(しかもずいぶん前のガセネタ…)
本気で泣きそうになりました。

キンモクセイ、本当に復活を心待ちにしています。
なんとかなりませんかね。

宇多田ヒカルも活動休止だし、もう、僕はどうしたらいいんだ!

>うなぎいぬさん
書き込みありがとうございます。
ピクサーはすごいですね。
あれだけヒット作品を連発できる映画制作会社はありません。

今回は気合いの入りようが異常でした。
ゴミ処理所のCGの書き込みの出来がすごすぎたので、この作品への制作者の愛を感じましたね。
返信する
Unknown (うなぎいぬ)
2010-08-19 08:40:05
映画評に感動してしまったです。
感動作だけどどこで感動したのか
時間が経つとわからなくなってしまいました。この映画評をみてなるほどと思いました。
ラストは僕にとって”マジック”でした。ほんとに久しぶりに映画のマジックを見せられました。
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