secret boots

ネタバレ必至で読み解く主観的映画批評の日々!

普通じゃない(V)

2009-01-17 05:46:09 | 映画(は)
評価点:65点/1997年/アメリカ

監督:ダニー・ボイル

〈解体〉されるラヴ・コメディ。

神の世界。永遠の愛が失われつつある現代、離婚や不倫など不純な愛が横行し、神も閉口していた。
そんな神の世界の落ちこぼれの二人が、人間の二人を永遠の愛で結ばなければ永遠に下界に住め、と言われる。
そんなことは知らない人間界。
小説家を夢見る冴えないロバート(ユアン・マクレガー)は、バイトのビル内掃除をロボットに奪われ、
恋人もエアロビのインストラクターに奪われる。
いよいよキレた彼は、首にした会社の社長の令嬢であるセリーン(キャメロン・ディアス)を人質に、会社のビルを飛び出してしまう。
しかし、そのセリーンも、恋人を銃で撃ってしまい、別れたところだった。

数年前、初めて観たときは爆笑したものだった。
そして、今回、見直すことにした。
不思議なことに、内容のほとんどを覚えていなかった。
面白かった、という印象しか残っていなくて、こんな話だったっけ?
というシーンの連続だった。
観た後に何も残らない映画というものは、こんなものなのだろう。
 
▼以下はネタバレあり▼

ジャンルで言えば、ラブ・コメディ・テイストの、ロード・ムービーというところか。
恋人と別れた二人が、奇妙な形で逃避行を繰り広げる、という結構である。
この結構=プロットは、オーソドックスなものと言える。
ただ、この映画は、人間界と神の世界とを二分することによって、メタ現実、メタフィクションの視点を獲得している。

作品は、神の世界から始まる。
天使たちは、アメリカの警察署のような場所で、忙しそうにしている。
ガブリエルと書かれた個室で、男が嘆いている。
「不倫、離婚、離婚……永遠の愛で結ばれることはないのか!」
そこで、苦肉の策として、二人の落ちこぼれらしい男女に、「二人を永遠の愛で結ばなければ帰ってくるな!」と告げる。

この冒頭では、二つの〈解体〉が行われている。
一つは、神という従来神聖とされていた世界の〈解体〉である。
その〈解体〉は、この冒頭だけではなく、二人の天使がやたらと人間臭い振る舞いを見せることでも行われる。
失敗し続けたり、死に様が妙にリアルだったりと、彼らの行動には、従来神とされてきた高尚さは微塵もない。
そのコミカルさは、とても笑えるしくみになっている。

もう一つの〈解体〉とは、ラヴ・ロマンスの解体である。
これも、従来のラヴ・コメディのお約束を壊す作用がある。
人間と神という二つの世界を仮想させることによって、従来までの「出来すぎた話」を、違う角度から切り取っている。
これは一種のメタフィクションの視座を観客に与えることになる。

つまり、人間界の二人がいかにして結ばれるか、ということが、それまでのラヴ・ストーリーだったのが、その二人をどのようにして結ばせるかというもう一つ高い視座を、天使の二人が代行する形になっているのである。
男女を結ばせる側を語る物語なのである。
この異化効果は絶大であり、それまで数多あったラヴ・コメディではもはや飽きてしまった観客たちにとっては、新たな面白さを提供している。
それは、「スクリーム」の劇中人物が、スプラッター映画を語るのと同じ作用がある。

観客は、人間界の二人がどのように結ばれていくのか、ということと同時に、その二人にどのように天使の二人が関わっていくのか、という二つの楽しみを持ちながら、映画に参加していくことになる。

人間界の二人も、個性的なキャラクターになっている。
ユアン・マクレガーのロバートは、ロボットに仕事を追われてしまうという現代的な理由によって首にされてしまう。
小説家を目指しているが、「ありがちな話」しか書けない。
ラヴ・コメディには典型的な駄目な男である。

一方、相手のキャメロン・ディアスは、超過激なセクシー・ガールである。
子どもの頃、誘拐された経験から、ロバートに誘拐犯のセオリーを教える。
身代金の取り方、電話の掛け方、脅迫状の書き方……。
男女の力関係が逆転した状態にあるのも、現代的で笑えるしくみになっている。

そして、彼女もまた、状況を〈解体〉する者として描かれている。
それまでの誘拐犯を「誘拐犯とはこんなものよ」と言ってのけるセリーンは、その場の状況を超越的な視点によって見つめている。

この二人のちぐはぐなやりとりは、とても笑えるし、楽しいものになっている。
そこに二人の人間臭い天使が加わることによって、物語は予断を許さない、今までのラヴ・コメディにはない緊張感が生まれている。
特に、これまでこの手の映画を観まくった観客なら、
この設定と、従来の発想を逆転させる構造は、楽しめるに違いないだろう。

しかし、天使と人間という二項対立は、一つの禁じ手でもあった。
なぜなら、作品世界をメタフィクション化してしまうと、その超越的な視座は、この作品全体をさらに超越化してしまうという諸刃の刃でもあるからだ。
要するに、どうせ映画だから、という製作者の声が聞えてきてしまうのである。
天使と人間という二項対立にしてしまうことによって、人間側のやりとり = ロマンスに、どうしても同化することができなくなってしまう。
「所詮、天使の振る舞いによってどうにでもなるんでしょ」という相対化した視線でしか、物語を眺められなくなるのである。

これでは、人間たちに深く感情移入することはできない。
かといって、一旦そうした超越的な視座を手に入れてしまうと、天使側にも同化できない。
観客は、「所詮、これは映画なんでしょ」という、さらに冷めた視座を獲得してしまうからである。
この映画で〈解体〉されてしまったのは、観客が映画を楽しむという行為そのものなのである。

冒頭に言ったように、ほとんどのエピソードを忘れていた理由は、メタフィクションとして描いてしまったからなのである。
確かに面白い。
しかし、そこに深い感動や記憶に残るような「物語」はなく、従来あった物語を、さらに物語ることによる笑い以外にはないため、そこにいる人間たちに感情移入することはできない。
同化して、物語に参加できない観客たちには、何一つ、思い出に残るエピソードはないのである。

これがメタフィクションという構造をもった作品の可能性と限界性なのであろう。

(2004/12/18執筆)

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