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ネタバレ必至で読み解く主観的映画批評の日々!

ゾディアック(V)

2008-11-16 16:34:49 | 映画(さ)
評価点:65点/2006年/アメリカ

監督:デビッド・フィンチャー(「セブン」「ゲーム」ほか)

う~ん、僕にはその魅力は完全には理解できない。

1969年、アメリカでドライブ中の男女が何者かに殺害された。
証拠はほとんどなく、捜査は難航する。
その一ヶ月後、犯人を名乗る者が新聞社へ暗号文を送ってくる。
ゾディアックと自らを呼ぶ犯人は、犯行を予告する暗号を送りつけていたのだ。
解読された暗号が公開され、全米を震撼させた殺人鬼を追う、刑事たちと、それを取材し続ける新聞記者たちは……。

アメリカで話題になったノンフィクションが原作である。
僕たちにはゾディアックといわれてもほとんど反応ができないかもしれない。
だが、アメリカでは知らない人はいないほどの、有名な殺人事件だということだ。
そのドキュメンタリーを映画化しているわけだから、ここに大きな隔たりがある。
日本で話題の事件でもないし、そうとう古い事件でもある。
その意味で、日本の観客にとっては十分に楽しめる余地は少ないかもしれない。

その点を知っておかないと、なぜこの映画が作られたのかさえもいまいち理解できないかもしれない。
人を選ぶ、というより、日本人にとっては本当の意味での理解が難しい作品である。

▼以下はネタバレあり▼

ゾディアックといえば、アメリカでは知らない人はいないくらいの有名な殺人事件だという。
その点は非常に重要な点だ。
先にも書いたが、この映画の偉大さは、未だ未解決の事件を映画という汎用性の高い媒体にのせた、という点にある。
「エミリー・ローズ」が実話であることが重要だったことと同じだ。
現実というコンテクストがこの映画を支えていると言ってもいい。
これから書く批評はその点から考えて、多分「正確」ではない。
この事件を全く知らない人間に向かってこの映画は撮られていない。
それなのに、予備知識を全く持たない人間が批評しようというのだ。
正鵠を射た批評ではないかもしれないが、日本人が日本に住んでいてこの映画を観るとこうなる、程度の気軽な気持ちで読んでほしい。

この映画の偉大さは先にも書いたが、未解決事件なのに映像化したことだ。
しかも、未解決であることを表しながら、一つの結論、つまり容疑者を特定している点が偉大だ。
容疑者として取り上げられた人物は、いちおう「犯人」ではないという形で示されてはいる。
だが、監督や脚本たちが意識しているところは、未解決である、犯人は誰か全くわからない、という描き方はしない。
むしろ、こいつが犯人に違いないという、断定的な描き方になっている。

だが、彼が本当に犯人だったのか、今では謎のままだ。
おそらく彼が本当に犯人だったとすると、この事件は永久に闇の中だろう。
逆に言えば、この事件が解決しないことこそが、死んだ彼の有罪をもっとも色濃く印象づけるという皮肉になっているのだ。

だが、僕はやはり他の国の人間だからだろうか、この強烈な強い断定口調の描き方は、適切でなかったように思えてならない。
なぜなら、彼がやはり犯人でないという可能性を残しているからだ。
映画というメッセージ性の強い表現媒体で、このように描くことは、ある意味で卑怯であるとさえ思ってしまう。
もしかしたら、その批評な手段によってしか、この事件を「解放」もしくは「解決」することはできないからなのかもしれない。
当事者や被害者たちは、きっとこの映画によってしか救われない。
その意味では重要な映画なのだろう。

もしくは、僕にある違和感は共時的な差異によるものかもしれない。
アメリカという社会における死者への考え方と、日本人の死者への考え方の差異かもしれない。
たとえば、どんな犯罪者でも、それが断定的であっても、日本人は死者を汚すような報道や描き方はしない。
死者は仏であり、どこまでも敬意をもって扱われる。
それは死者に対する考え方が異なるからなのかもしれない。
このあたりはやはりその社会で生きる人間でないと味わえない感覚なのだろう。

ともかく、この映画を評価するのは僕のようなにわか映画ファンでもなければ、ただ暇つぶしに映画を観ている日本人でもないだろう。
この映画がおもしろくないと感じるのは仕方がないのではないかと思いつつ、低い点数のままアップすることにした。

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