secret boots

ネタバレ必至で読み解く主観的映画批評の日々!

シリアスマン

2011-03-31 22:45:45 | 映画(さ)
評価点:76点/2009年/アメリカ

監督:ジョエル・コーエン&イーサン・コーエン

[真面目な]男に訪れる[深刻な]ドラマ。

1967年のアメリカ。
ユダヤ人で物理教師のラリー(マイケル・スタールバーグ)は息子がいよいよ成人を迎える儀式を控えていた。
そんなある日息子のダニー(アーロン・ウフル)は大音量で授業中にラジオを聞いていて教師に見つかり取りあげられてしまう。
そこにはマリファナを買うための代金が挿してあった。
焦る息子は教師に取り返してもらおうとするが、うまくいかない。
一方ラリー本人も、韓国人のクレイブを落第にする。
しかし、なんとかしてほしいと訴えてきたクライブは札束の入った封筒を研究室に残していく。
困ったラリーは返そうとするが、「知らない」と拒否されてしまう。

同時多発的に訪れる不幸をコメディタッチに描いたコーエン兄弟の作品。
監督主導で映画を撮ろうと企画された3部作の一つ。
「ウッドストックがやってくる」「お家を探そう」という他の作品も、単館上映である。
ハリウッド映画とは違って、有名な役者が出てくるわけではないが、「アメリカン・ビューティー」のサム・メンデスなどが参加している。

コーウェン兄弟は「トゥルー・グリット」が公開中だが、こちらのテイストは全然異なる。
単館上映なので、もう公開していても時間が合わず観ることはできないかもしれない。
面白いので見る価値は十分あるだろう。

▼以下はネタバレあり▼

この映画は社会的コードを理解していなければ面白みも理解できないだろう。
特にユダヤ教について何の知識もなければ面白みは半減する。

ユダヤ教は儀式を重んじる人々である。
ユダヤ教はユダヤ人しかなれない。
だからユダヤ教を信仰している人間はみな「ユダヤ人」となるわけだ。
儀式を重んじるが、その儀式はどこで行われてもかまわないという種類のものではなかった。
エルサレム神殿でなければならなかった。
その儀式をエルサレム神殿で行うことを、信仰の証としたのだ。
けれども世界中にちらばってしまうと信仰を示すことができない。
だからこそ、日常生活をきちんと決められた様で過ごすことが信仰の証そのものとなるのだ。
食事や服装が厳しく制限されているのは、そのためだ。
キリスト教よりも遥かに厳しい戒律があるのもそのためだ。
(詳しくは橋爪大三郎の「世界がわかる宗教社会学入門」(筑摩文庫)あたりを)

パレスチナとの争いでエルサレムが重要視される理由もここに見えてくる。
食事を厳しく制限することで、他の宗教が入り込む余地をも制限する。
食事をともにすることは異文化交流の第一歩なのだから。
その意味で排他的で、かつ団結力が強い宗教であることが言えるだろう。

ところが、この映画に登場するユダヤ教徒はそれらの教則をことごとく破っていく。
冒頭の息子ダニーはありがたいヘブライ語の授業中、大音量でラジオを聞いていて注意されるのも気づかないほどだ。
聞いていたのはありがたくない流行曲。
しかもマリファナを買うための金を挟んでいたというおまけまでついている。
僕はわからなかったが、この冒頭の落差だけでも十分ブラックだ。
聖域であるはずの授業(ユダヤ教徒は教育を神聖なものだと特に重視する)で、しかもマリファナという組み合わせはこの映画の方向性を如実に示している。

この息子は大事な成人式でラリった状態で参加する。
周りは緊張のあまり心臓をはき出しそうな雰囲気の中、一人違う世界にトリップしている。
アフリカなどでは儀式の時にカフェインなどの麻薬作用の強いものを服用する場合もあるが、まさにそんな状態だ。
「緊張していたんだな」といたわるが、その緊張の仕方が最低だ。

この息子に代表されるように、この映画では不道徳きわまりない不真面目な人間たちばかりが登場する。
妻に至っては友人と不倫関係に陥るというあり得ない状況。
肉体関係はないというが、その内実は言うまでもない。
本当にないなら、あそこまで強調する必要もない。
その不倫相手も交通事故で不慮の死をとげる。
単なる別居であれば離婚へと話を進めていけばよかったのに、身寄りのない不倫相手は葬儀もあげることができない。
妻は何を血迷ったか、その費用をラリーに出すように頼む。

成人式を控えた息子に、別居費用、さらに不倫相手の葬儀代までかさむラリーは資金の工面に追われる。

悩みに悩んだラリーはラビに相談にいくことを決心する。
信仰を大切にするラリーは自分を「シリアスマン」だと位置づけ、真面目にあろうとつとめる。
ラビに相談に行くことは、悩みを打ち明けにいくのと同時に、自分の行いや方向性が間違っていないことを確認したかったからだ。
「そうだな、大変だな。でもキミは間違っていないよ」とラビに言ってもらいたかったのだ。
そうでないと「やってられない」からだ。
だが肝心のラビは駐車場の話や歯医者の話をするだけで相手になってくれない。
歯医者の話は傑作で、「ただお前言いたいだけやろ」というふざけた講話だ。
けれども、真面目なラリーはそれが何を意味しているのか分からない。

現実は不条理に満ちていて、「真っ直ぐある」と思いこもうとすればするほど苦しむのだ。
そこに何らかの意味を求めてしまうから世の中が不条理に見えてしまうのだ。
シリアスマンの限界がそこに見え隠れする。

現実として彼は煩悩に苦しまされる。
何度も賄賂を受け取ったり、隣人の人妻との情事を楽しんだりする姿をありありと夢見る。
彼のどうありたいかという抑圧された欲望は明確である。

最もありがたいラビに至っては、ラジオを聞くのに忙しくて会ってもくれない。
当然だ。
そんなばかばかしいわかりきった悩みに誰も付き合いたいとは思わない。

いよいよ金銭面に限界がきたとき、クレイブからの封筒を開けようとする。
そんなとき、電話が鳴る。
「キミの健康診断の結果だが、ちょっと今すぐ直接話せないか?」

息子の元へは竜巻が迫り、米国の国旗が「今にもちぎれよう」としていた。
そして唐突にこの映画はエンドロールを迎える。

もしかしたら、大した病気でもないのかもしれない。
息子は何とか地下室に逃げられたかもしれない。
そんなことはどうでもいいのだ。
迫り来る「死」の事実からは逃げることは出来ない。
人は死ぬのだ。
シリアスマンであろうと、いい加減なラジオ好きなラビであろうと。
それは一つの救いであり、悩みの終わりなのだ。

シリアスマンを徹底的に揶揄した作品であるが、決して否定している訳ではない。
ユダヤ教徒に対して皮肉たっぷりだが、批判しているわけではない。
この映画では信仰に対する不信は一切感じさせない。
寧ろ、大いなる人間賛歌が奏でられている。
だからこそ、この映画は楽しいし、「笑える」のだ。

僕もそろそろ「シリアスマン」を辞めないとね。
あれ?違う?

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