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天才画家チュルリョーニス

2010-04-12 | 番外編 ★ロシア以外★
日本ではまだあまり知られていないチュルリョーニスですが、ロシアでは19世紀末文化「銀の時代」を象徴する、代表的な画家・音楽家の一人として、評価がとても高いです。
リトアニアの第二の街カウナスのチュルリョーニス美術館で観たチュルリョーニスの原画は・・・圧巻でした!!!
絶対お勧めです!!!
・・・ということで、少しこの孤高の天才チュルリョーニスを紹介させてください。

ミカロユス=コンスタンティナス・チュルリョーニスは1875年、リトアニア南部で生まれました。ちなみに、当時リトアニアはロシア帝国の一部でしたので、ロシアでは「ロシア銀の時代の芸術家」というカテゴリーに入ります。

チュルリョーニスの父親はリトアニア人で、大の音楽愛好家でした。彼はカトリック教会でオルガニストをしており、そこでドイツ人であるチュルリョーニスの母親と知り合います。

幼いチュルリョーニスは、音楽の最初の手ほどきをこの父親から受けました。
そして7歳の頃には、幼いコンスタンティナスは自由自在に楽器を操れるようになっていたといいます。

13歳になった時、コンスタンティナスはオーケストラの学校に入り、その後1893年には当時ロシア領であったワルシャワのワルシャワ音楽院のピアノ科に入学しました。音楽院でコンスタンティナスは作曲に手を染め、一年後にはピアノ科から作曲科に転科します。

1899年、チュルリョニスは優等で音楽院を卒業しました。
彼は音楽学校の校長先生の職を勧められますが、それを断ります。
そして1901年の秋にはドイツに移り、今度はライプツィヒで真剣に絵画に興味を抱き始めます。

1902年の秋、チュルリョーニスはワルシャワに戻り、そこで母校ワルシャワ音楽院での教職の口を提供されますが、再びそれを拒み、ピアノの個人レッスンで生計を立てながら細々と暮らしていくことになります。

そしてこの頃、音楽を続けながらも、絵画教室に通い始め、1904年美術大学(アカデミー)に入学します。そこでは例えば、石膏デッサンは一切行わない等、大変ユニークな教育方針がとられていました。
そして学生達はもっぱら雰囲気、性格或いは動作といったものを伝える為の訓練を受けました。

1905年の夏、ワルシャワでこのアカデミーによる絵画展が開催され、チュルリョーニスの絵は大きな注目を集めました。



そして1908年の秋、チュルリョーニスはペテルブルクに移り、そこでベヌアやバクストといった著名な画家達と知り合うことになります。

一方コンサートでは、スクリャービンやメトネルの作品と並んでチュルリョーニスのピアノ作品が演奏されるようになっていました。

1908年の年末にチュルリョーニスはリトアニアに戻り、1909年の元旦に結婚します。新婚夫婦は結婚式の後すぐに再度ペテルブルクに移り住みますが、冬には再度リトアニアに戻ります。
その後チュルリョーニスは妻をリトアニアに残したまま単身で今一度ペテルブルクにやって来ますが、その年の秋、アパートの一室で病に倒れ、廃人同然となっているのを友人によって発見され、妻が彼を迎えに来てリトアニアへと連れて帰り、精神病院に入院します。

1911年4月10日、ミカロユス=コンスタンティナス・チュルリョーニスはこの精神病院の一室で36年の短い生涯を閉じました。

(チュルリョーニスの絵は二枚ともこちらからの引用になります)

■昨日のの答え=・・・Аниме・・・アニメ(=日本語からロシア語の中に入って定着した「外来語」です)

■今日の=次の単語を発音してみましょう。
Караоке

(答えは・・・明日のお楽しみ)

チュルリョーニスの美しいピアノ作品op.20-3はこちらから視聴できます


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