goo blog サービス終了のお知らせ 

言霊をさがして

mattamanの一刀両談

やっと認可

2007年10月31日 06時06分41秒 | ムコ多糖症について

先週だったか、やっと

ムコ多糖症の「ハンター症候群」の治療薬が認可された。

Tが生きててくれたらなぁって思うけど、

けれど全国にいるハンターの子達には待ちに待った認可である。

さすが桝添大臣って思った。

湘南の風の皆さんにも感謝です。


ムコ多糖症について

2007年04月05日 23時07分28秒 | ムコ多糖症について

先ほどNHKのニュースでムコ多糖症モルキオ症候群の子が

今日、内閣官房副長官を訪問して

この病気の治療薬の早期認可を求めた

というニュースをやっていました

ムコ多糖症はアメリカでは

難病ですが、アメリカでは治療薬が開発されもう治療が始まっています

進行性の病気のため、患者の子ども達や親は

一刻も早い認可を求めていますが

日本人の治験がほとんどおこなわれていないため

国は、認可を許可しません。

日本の何人かの子ども達が

何百万というお金を実費で出して

アメリカでの治験に参加をしましたが

厚生労働省は、それを認めていません

一刻も早く、公費での治験をおこない

日本での治療が望まれます

 

今日の副長官談話では

「日本の医療は他国に比べて遅れているので

厚生労働省は早く認可をおこなうべき」とのことでした。

皆さん、この病気の子ども達が早く治療が受けられるように

ご協力をお願いいたします。

 

ムコネット

http://www.muconet.jp/

 


「湘南乃風」ファーストライブDVD発売

2007年03月30日 04時38分28秒 | ムコ多糖症について

「湘南乃風」のライブDVDが発売されました。

このライブの中では、「湘南乃風」の若旦那さんが

ムコ多糖症について、皆さんに理解と協力を求めています

どうか、見ていただいて

ムコ多糖症へのご理解と支援をよろしくお願いいたします。

ムコ多糖症について詳しくは

「ムコネット」http://www.muconet.jp/report/index.html
をご覧下さい。


ムコ多糖症の子の支援

2007年03月04日 06時21分30秒 | ムコ多糖症について

昨日の産経新聞に

またまた、ムコ多糖症のことが載っていた。

岡山のムコ多糖症Ⅳ型の子の治療費を

製薬輸入会社などが

全額負担するというもの

まだ、日本の認可が下りていないため

個人輸入をして、当然、保健もきかない。

治験ををおこなっていくためにも

できるだけ多くのデータが必要である。

記事によると

この子は、薬を飲み始めて4ヶ月で

言葉もはっきりしてきたし、身長も1センチ伸びたらしい。

ムコ多糖症も本格的に治せる時代に入った

あとは、みんなと政府の理解だけである。

この子達を助けてあげてください。

 


我が子を亡くしてⅧ

2007年03月02日 18時54分40秒 | ムコ多糖症について

Tは今頃どうしてるんだろう。

人をいっぱい幸せにしてきた子だから、

今度は自分が幸せになる番だよ。

自転車いっぱい乗ってるかな?

好きなものいっぱい食べてるかな。

楽しかったこと、

悲しかったこと、

いやだったこと、

つらかったこと

そしてたくさんの友達との思い出を

今度は誰かに聞いてもらってるかな。

けどTのことだからきっとまたたくさんの友達に囲まれて、

やっぱり話を聞いてあげてるんだろうな。

それでまた、周りの子達は、心がほんのりする。


我が子を亡くしてⅥ

2007年02月27日 21時40分03秒 | ムコ多糖症について
Tの授業は前にも書いているとおり、
 
すべて普通学級で行っていた。

 
ペンやクレヨンなどで絵を描いたり、
 
リハビリの運動をしたり、
 
たまには廊下を自転車に乗って走ったり、
 
また歩いたりそんなことをしていた。
 
 このように書くと「他の子の授業のじゃまになるじゃないか」と
 
いう声も聞かれそうだが、全くその逆。
 
子供達はTにはその学習が必要だあるということを
 
充分理解しているので、Tがさぼっていると
 
逆に注意するくらいだった。
 
 Tは学校中の人気者なので廊下を歩いたり、
 
自転車に乗ったりしていると、
 
先生も含めたみんなが手を振ってくれたりする。
 
そんなときのTはご機嫌だった。

 ただし、体力は落ちていく一方だったし
 
睡眠がうまくとれず、昼間途中で眠ってしまったりすることも
 
多々あった。
 
私も一緒に授業中に寝ていたりしたこともあった笑い
 
ただこれは生徒に後から私だけが怒られた。
 
当たり前である。ウインク
 
行事もTができることを子供達が考えて一緒にやった。
 
体育大会は、100メートル走を応援の子達と自転車で走ったし、
 
フォークダンスも自転車で参加した。
 
さすがに組み立て体操はできなかったので、
 
やっている種目の説明の看板を持つ役をした。
 
 読者の皆さんには、ここで考えて頂きたい。
 
「できないからやらせない。別のことをさせる。」ではなく
 
「みんなと同じことをできる形をみんなで考えてやる。」
 
これが大切なのだ。
 
 たとえば「車いすに乗っているから、スロープがあればいい。」
 
確かにそうである。
 
でも、「車いすの人が階段のところにいたら、
 
そこに居合わせたみんなが運ぶ」
 
そういう人間が多く育っていけば、
 
障害を持った人々はみんなと同じ生活ができるのである。
 
この認識をみんなにもってもらいたい。
 
 障害は不便じゃない、
 
障害者を理解しないから、
 
障害者は不便な生活を余儀なくされているだけなのだ。
 
 
 「障害は、その人の個性である」と思ってほしい。

我が子を亡くしてⅤ

2007年02月26日 20時48分18秒 | ムコ多糖症について

Tを受け入れるにあたって、

まずは既存の障害児学級との兼ね合いがあった。

ここまでの子供たちは、障害児学級で他の子供達とは、

離れて違うカリキュラムの元で学習や学校生活を送っていた。

今から思えば、若気の至りか若さ故の暴走か

といえるかもしれないが、転勤してきてわずか3日後に

障害児教育の主任の先生と意見の対立から口論となった。

主任は、Tを障害児学級で受け入れることを主張された。

しかし私は、Tを取り囲む周りの子供達の様子や

Tの病気のこと、

小学校で行われてきた取り組みをみても、

そのことにはどうしても賛成できなかった。

Tにできないことばかりでも、

他の子供達の中でTを生活させてやりたかった。

わたしは、Tが「できない」ということを

ハンディキャップととらえずに、

Tの「個性」ととらえていたからだ。

 中学校は、教科担任制であるので、

私とTが、ずっと教室に入り込むことを

各教科の先生にも了承を得る必要があった。

こちらの方は、特に問題なく了承を得ることができた。

このあたりのフレキシブルなところが

本校のよいところであり、私が、この学校の好きなところである。

 紆余曲折は有ったが、

Tを普通教室でみんなと一緒に

生活をさせていく足場は固まった。

これからの問題は、教育内容の中身である。

これに関しては、すべてが私の責任の範囲であり、

私自身の教師としての能力の問われるところである。

せっかく、受け入れ態勢を整えても中身がなければ、

何にもならない。私の腕の見せ所でもあった。

この記事は以前書いたものです。


我が子を亡くしてⅣ

2007年02月25日 21時23分23秒 | ムコ多糖症について

Tと初めて会ったとき、

これからどうしていくか不安だらけだった。

「教材は?」

「食事はどういう風に?」

「下のせわは?」

「健康管理は?」

「私のことを気に入ってくれるだろうか?」

など考え出したらきりがない。

いくつかの点はご両親と小学校の先生から
聞くことができた。

それでも、生活していく中でわからないことが

いっぱい出てくるだろう。

それらはそのときそのときの状況によって

判断していくしかない。

 聞かせて頂いた中で、

小学校での取り組みは秀逸を極めたものだった。

6年間すべて普通学級の中に

障害児学級の担任が入り込んで、

他の子らとの関わりを大切にしながら、

Tを中心に子供たちの自然な人間関係を

大切に築き上げてこられていた。

 障害を持った子の教育については、

教育界では、取り組みについての考え方が

大きく二つに分かれる。

一つは、障害を持った子の能力に合わせ

それを伸ばしていこうというもの。

要するに障害児学級や養護学校で、

他の健常児とは離れて、

それぞれにあった教育を施して行くもの。

 

そしてもう一つは、

他の健常者との関わりを大切にし、

支え合う集団を作り

障害を持った子を支えていくと同時に、

他の子供たちをはじめ

地域全体に障害者についての

理解と協力の関係を作っていこうとするもの。

このふたつに分かれる。

どちらがいいかは、障害の程度や親の考え、

地域の様子などから

総合的に判断をしていくべきもので

どちらが正しいかは、ケースバイケースだと

私は考えている。

 Tを中心とする取り組みは、

後者の方であり、

Tを中心としたすばらしい仲間集団が

作られていた。

 私としては、すぐにこの子供たちとの関係を

大切にしていく。

そして、Tの残り少ないかもしれない人生を

より豊かにしていくことが大切だと考えた。

しかし、小学校と違い

中学校では、教科担任制であることや

学習内容の高度化、

そして、義務教育の最終段階で進路の問題なども

絡んで、入学までだけでも

クリアしなければならない問題が

山積みであった。


我が子を亡くしてⅢ

2007年02月22日 20時36分43秒 | ムコ多糖症について
ただいるだけで

 
あなたがそこに
 
ただいるだけで
 
その場の空気が
 
明るくなる
 
あなたがそこに
 
ただいるだけで
 
みんなのこころが
 
やすらぐ
 
 そんなあなたに
 
 わたしもなりたい
相田みつを


 あまりにも有名な相田みつをさんの詩だけれど、
 
Tはまさにこんな子だった。
 
何がそうさせるのか、持って生まれたものとしか思えない。
 
神様がいるとしたら、神様が与えたとしか
 
思えないようなものをもっていた。
 
Tの周りには常に子供たちが
 
何重にも輪を作ってわいわいがやがや…。
 
かと思えば、先生に怒られたり、
 
友達とけんかしたりした子や心がさみしくなった子が
 
Tに向かい合って、話しかけてる。
 
廊下を自転車で走ると、各教室から手が振られたり、
 
笑顔が返ってくる。
 
Tの周りにいる子はいつも笑顔だ。
 
朝も昼も学校にいる間,
 
Tの周りに人がいないことはなかった。
 
そして、ただ遊んでいるだけでなく、
 
Tと心を通わせ、Tが何をしたいのか、
 
何を手伝って、何をしてはいけないかを
 
自然にわかるようになっていく。
 
 Tは、人の心を癒し
 
何が大切か、何を大事にしなければならないかを
 
言葉を話せなくても、物を持つことができなくても、
 
みんなと同じ速さで歩くことができなくても、
 
みんなに自然と教えていく力を持っていた。
 
 神様がいるとしたら「神の子」とはTそのものだった。
 
何も話せない、
 
聞くことも不自由、
 
何もできない。
 
けれど、周りで起こるすべてのことを
 
感じ取っているようだった。
 
悲しい出来事が起これば、涙を流し
 
楽しいことがあったときは笑い、
 
泣いている子がいれば、近寄ってそばにいる。
 
なぜあんなことができていたのだろう。
 周りの子供たちも、Tを
 
「かわいそう」とか「お世話をする」というような、
 
見下した接し方ではなく、対等に接し
 
Tのできないことには
 
「手をさしのべる」
 
「お手伝い」と言って
 
決してべったりくっついているのではなかった。
 
Tに悩みを話しかけたり、
 
「Tのような心を持った人になりたい」という子まで…。
 
 Tの身体的なハンディキャップから考えれば
 
あり得ないことばかりが起こっていた。
 
Tは、確かに「人を優しくする子」であった。
 
それは、私自身に対しても同じで
 
Tの存在なしに今の私は考えられない。  
 

我が子を亡くしてⅡ

2007年02月21日 20時20分49秒 | ムコ多糖症について

 今、毎日のようにTと過ごした三年間が、頭にうかんでくる。

思えば40年を超える人生の中で

あれほどしんどくて、気持ちを張りつめた、

けれど楽しくて充実した日々はなかったように思う。

 Tは、身長は120センチくらい、体重は36キロ。

幼稚園児くらいの身体であった。

そして話すことは出来ないし、排泄、着替え、食事にも

すべて介助が必要だった。

こちらの働きかけも、どこまでわかっているのかわからない。

そんな中で、何をしたらいいのか、全然わからなかった。

しかも、普通学級のみんなと同じように…

Tは、朝、近所の友達と一緒に、

補助輪付きの小さな黄色い自転車でやってくる。

その自転車を見ただけで、走ってついてくるほどのお気に入りだ。

ムコ多糖が、関節に溜まるため、

歩き方もどたどたとした感じになるので、

その姿を見ても思わず、顔に笑みが浮かんでくる。

 Tは幼稚園の時は他のみんなと同じように遊べていた、

言葉が少ないことや行動がうまくいかないことが

少々あっただけだったので、

Tと同じように育ってきた周りの子供たちは、

Tが話をしたりしていたときのことを知っている。

だから、子供たちには、Tは、「障害児」ではなく、

「友達」なのだ。

ただ、少し、「お手伝い」を必要なだけ。

他の子たちにとっては、

Tは、生活の中の様々なことが出来ないのではなく、

手伝いを自分たちがちょっとすれば出来るのだ。

だから、小学校6年間も、

友達や仲間と共に生活をすることが行われてきた。

私は、本校に転勤してきてすぐに

Tを担任することになったのだが、

この事を小学校の時の担任のI先生より

受け継ぐという形になる。

本当に最初は、何をしていいかわからなかったが、

実は、TをそれからTの周りの子供たちを

どうしていったらいいのか、

理解するのにそう時間はかからなかった。

私が何をすべきなのか、どうすればいいかは、

周りの子供たちとT自身が皆教えてくれたのだ。