一般知識は、貧乏につながる。
専門知識は、自分の進む道を舗装してくれる
人からやらされているのは、練習ではない
自分からやっているのが練習だ
自分の意志の伴わないのは、練習ではない
竹刀を振っていない時、何をするか。
竹刀を握っていないとき、何をするか。
こに剣道の意義がある
世の中は「自分探し」が大流行だが
「自分探し」はしてはいけない
その理由は
そもそも、「自分」ほどあいまいなものはない
自分を考えてみればよい
毎朝、同じ気持ちで目覚めることなんてできるだろうか
朝、機嫌がよかっても何か一つの出来事によって
機嫌が悪くなることだってあるし
自分はおとなしい性格だ
と言っていても、キレることもある
「落ち着いてる」ってまわりが思っていても
本人は、困惑して動けなくなっていることもあるし
イライラして、物事をなげだしていることもある。
「自分」というのは、時と場合、また相手によって
かわるものなのだ。
YGの理論でも
「同一性格は、半年以上続かない」ということが
証明されているではないか
そんなあいまいな「自分」をさがしたり、とらえたり
確定したりしようとしても
できるはずがないし
決めつけてしまってはいけないのである。
今や生活をしていく上での
時間の密度が濃くなってきている
この10年を見てみてもそうである
仕事の上でも普段の生活でも
単位時間あたりに処理しなければならないことが増えた。
便利になって、楽になったのではなく
便利になってやらなければならないことが
増えたのである
ゆえに今までと同じことをしていてはダメである
人と同じことをしているだけでもダメである
自分で時間と処理する内容を管理しなければ
時間と処理せざるをえない事柄にあやつられて
自分が気がつかない間に
自分を見失ってしまうのである。
「スランプ」って
どんな状態を言う?
勝てないこと?
自分らしいプレイができないこと?
それとも、自分の感覚と実戦の動きのズレや違和感のこと?
誰が決める?
監督?
チームメイト?
見てる人?
対戦相手?
それとも、自分?
どうしたら脱出できる?
勝てば脱出したといえる?
自分が「これでもういいや」と開き直ればそれで良い?
それとも身体感覚の問題?
結局は、すべて
自分の心が決める…
自分がスランプだと思えばスランプだし
まわりがスランプだと言っても、
自分がスランプだと感じてなければ
スランプではない
今、勝てなくても、次の展望がみえていて
それに取り組めていればスランプではないし
いま。勝っていても次につながっていなければスランプである
大リーグのイチローは、ある時、ボテボテのセカンドゴロを打って
今の打撃の感覚をつかんだという。
自分の身体感覚を大切にしている人は
そういうものである
ただしそれをつかむには、人一倍の練習が必要である
量の問題もあるが、中身と自分自身の意味づけの問題である。
「剣道は、正々堂々と」と言うのは簡単だけれども、
実際の試合の中でそれをやるのは難しい。
たとえば、つばぜり
正しく中心をとって攻める
と言うのが基本だが
タイミングをずらそうとしてくる者もいれば
くちゃくちゃ手を動かせて
正しく構えず、それを捕らえようとこっちが無理して
崩れたところをうまく当てに来る者もいる
あまりに中心で捕らえることにこだわりすぎて
相手に着いていったり、嫌がって逃げると
相手の思うつぼにはまってしまう。
相手が崩そうといろんなことをやる
ということは、その瞬間のどこかに
必ず好きがあると言うことだから
あくまでも自分は崩れず、
相手をしっかり見て
正しい構えで対応することができるようにならないといけない
この適応力は、すぐに身に付くものではなく
常日頃から考えて稽古することからしか
身に付かない。
岬 龍一郎氏のは最近はまってる
古くからの考えを踏襲しつつ
押しつけがましくない
それでいて、欧米に流されがちなことには
きっちり反論している
プロ教師の会の喜入 克氏も
ちょっと過激だが、自己の理論を構築するには
役に立つ。
一番の愛読書
「人間の理解」 小林 晃夫著
内田クレペリン検査法を大成された小林 晃夫先生の名著である
残念ながら今は廃盤になっており、一般には手に入らないが、
特別に手に入れることができた
生徒を理解する上だけでなく
人を理解する上で、どのようにすればよいか
分かり易い例をあげて分析してある
またそれだけでなく
その人物の伸ばし方もきめ細かく書かれている
時代を超えても使える名著である。
3-1dのページと検査法のページは
まだ、大学生だった頃の船越先生が書かれている。
学生の時にこれだけのものを書かれるとは
やはりすごい。