今、思い起こせば、
Tはほんとうに不思議な力を持っていた子だった。
現実的に考えれば、
言葉は「ンダァー」「ウォウウォウ」程度しか話せないし、
耳もどれくらい聞こえているのかわからない。
こちらからの働きかけを理解できるだけの力も
なかったかもしれない。
しかし、常にみんなに囲まれ
しかし、常にみんなに囲まれ
みんなから話しかけられて、うれしそうにしていた。
いやなことがあったりした子が、
一人でTに悩みを話しかけている。
また、周りの子供達が、Tがこれほど重い障害を持っているにもかかわらず、
「Tはできないんじゃない。
私たちが、こうしてあげればできるねん」
「これがT君のやり方やねん」と
どんどんTと一緒にやる方法を考え工夫していく。
何かTの周りだけは別世界のようで、
何かTの周りだけは別世界のようで、
時間がゆっくりと流れ、心が休まる。
そんな力を持った子だった。
前にも書いたが、私自身もTと
その周りの子供達に育てられたことの方が多かった。
目配せや顔の表情など
ほんの少しの変化でも見逃さず
気づくことができるようになっていった。
そのTは、もういない。
そのTは、もういない。
卒業した後もいつも「あの家、あの方向にTがいる」
という感覚が常に私の中あったけれど、
それもいつのまにかなくなってきた。
お葬式の後、
あの家の中にTのベッドがない、
点滴の棒が立っていない、
吸引のポンプがない。
なにかガランとしていた。
寂しかった。
言いようもなく空虚な雰囲気が漂っていた。
四十九日の法要が終わって、
十五分ばかし、仏壇に向かって話しかけた。
「どうやった、しんどくなかったか。
「どうやった、しんどくなかったか。
先生のしたことはあれでよかったんか。
今、幸せにしてるか。」
止めどなくTに聞きたいことが出てきた。
でもあの私を見つめてくれた目や
固く硬直した手、少ない言葉、
それさえももう返ってこない。
Tを自分の外に探すのはもう止めようと思う。
Tは、Tと出会った人一人一人の心の中に生きている。
もちろん私の中にも、
私が人として、発する言葉、行動、心の中の想い。
これらすべての中にTの教えてくれたすべてが生きている。
合掌