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『よし』・『ゆき』、我が家に住むペンギン?の「ペン太」の散策記です!

『雨にも負けず 蒸れには負ける』 東海道歩き旅レポート その⑤~4日目(東神奈川~保土ヶ谷~戸塚) 2017.8.14(月)

2017-08-14 20:19:46 | 街・観光地編2017

 今日は東神奈川駅スタート。
JR横浜線の改札外の壁には、安藤広重の東海道53次『神奈川宿』の浮世絵が。
 道の左側に並ぶ旅館の中の田中屋は、現存しています。
埋め立てで現在は海岸線が遠くなっているそうです。
日本橋から此処迄の道中、未だ海は見えず。
 「あの建物の向こうが海だと思うけれど…。」
と言う場所を多く通っているのだけれど…。
そろそろ高台でビルの間に海が見える場所が有るかなぁ?

 昨日夕方に辿り着いた笠のぎ神社スタート。
やや強い雨が降っています。
昨日は夕方だったので多くの蚊が近寄って来ましたが、この日はこの天気なので、午前中と言うのに次々に私に迫って来ます。
血を吸うのは雌なんだよね。
と言う事は、「異性にモテモテと言う事(^^♪」
何て、其処までお気楽にはなれない!
まとわりつく蚊は、神社を出て道路に出てもついてくる・・・。

ポンチョ「雨模様なので、今日も登場です!」
水兵  「港町横浜の旅なので、案内役です!」
2匹  「僕らは、蚊の被害に遭わないのでへっちゃらです!」

 夕方の昨日よりは撮影がし易いけれど、この天気なので、やはり薄暗い場所が多い。
熊野神社は裏の御神木周辺以外は開けているので良いのだけれど、雨を避ける場所が・・・。
此処まで来た時には土砂降りに・・・。


 参拝をし、拝殿の屋根で少し雨宿り。
「此れは無理かな?」
と思い、駅に戻る。

 駅のマクドナルドで早い昼食を摂り、降りが弱まる事を願うも、あまり変わらない。
「若干弱くなったかな?」と言う感じの時間で雨宿りを諦めて出発。


 滝の橋。
昔はこの辺りが神奈川宿の中心で、橋の両側に本陣が有ったとの事。

 大通りから離れ、裏道を。
この裏道が昔の東海道で、須崎大神(すざきおおかみ)が。



 鳥居を潜り高台が神社で、浦山は権現山城跡。
1191(建久2)年6月26日に源頼朝が安房の国の安房神社の分霊を勧進して幕府直轄の神社として創建したとの事。
6月が例大祭で、『ちょうちん祭り』と言う重さ2トン、高さ5Ⅿの神輿の周囲に提灯をつけて練り歩くお祭りが行われます。
 素朴で飾り気の無い横幅の有る大きな拝殿がドーンと。
でも、圧倒感が有り、何か落ち着いた感じが有って好きだなぁ。


 社務所。
御朱印はやっていない事が記されていますが、御札等を授与しています


 降りが強くて権現山へは行けず。
何とも残念。
須崎大神 神奈川県横浜市神奈川区青木町5ー29
神社庁の須崎大神ページ  http://www.kanagawa-jinja.or.jp/search_dtl.php4?jid=129&cd=1202034

 権現山城は扇ガ谷上杉氏配下の上田蔵人が北条早雲に寝返って立て籠り、援軍を出した北条早雲の軍勢と上杉方の群が戦った地。
上杉方の勝利に終わるのですが、この戦以降、扇ガ谷上杉氏と北条氏が対立する形となった歴史的事件の場です。

 真宗高田派の甚行寺。
横浜を開港した後、フランス公使館が置かれた場所。

 京急の神奈川駅。
左の橋を渡ります。
橋の下には線路が走っており、向こうの丘の右側には本覚寺が有ります。
その辺りに御北条氏に属していた多米氏の居城であった青木城が有ったとの事。

 橋を渡って少し行った所に有るのが大網金刀比羅神社。
神社は階段を登った上にあり、その先はコンクリートで覆われた崖で、その上にマンションが有ります。

 階段の踊り場に有る手水場。
雨や周囲の木々等から垂れた雨水が入り込むのと、この日は何処からか落っこちて溺れたナメクジが・・・。
手を清めるのも躊躇してしまった・・・。 Σ(・□・;)

 階段の上左手が拝殿で、右側が社務所兼住居で、社務所の窓口になっています。
小さい拝殿の周囲は木々が生い茂り、植物に囲まれた場所になっています。
以前、背後の斜面が崩れたと言う事で、どの部分が崩れて建物に被害が出たのか分かりませんが、右側、幟が有る方が拝殿より広い更地になっています(その上を植物が生い茂っています)。
背後はコンクリートの急斜面で、その上にマンションが。
チョット圧迫感が有ります。

 夏の雨の日だった事も有りますが、周囲の藪、木々、コンクリートの地面も蔓性植物が覆っていて、その下にも背の低い植物や枯れ葉…。
・・・蚊が物凄く多い!!
雨具を着ていたので、肌を露出している部分は少ないのですが、顔、頭、手、足首や靴の周りを常に何匹もの蚊が飛び交っている状態。
後から来た半袖のお2人は更に凄い事に・・・。
社務所で御朱印をお願いし、待っている際に「どうぞ!」と、虫除けスプレーを出されました。
因みに拝殿の賽銭入れの下に置かれている物は蚊取り線香です。

 拝殿の右側に鎮座?しているのがこの天狗の顔。
天狗が此処に居る由来は分からなかったけれど、守り神の様な存在なのかな?

 その昔、海が直ぐ近くに有った地。
地面には、ウニがゴロゴロと落ちていて・・・ん?栗ですね。

 階段の途中に鎮座している狛犬を上から撮った写真。
蔓植物に覆われているのが狛犬です。


 反対側の狛犬を横から。
逞しい前足と指、爪が特徴的。

 御朱印。
『神奈川台』の地名が入り、神奈川宿で御朱印を戴いたと言う事に。
そう考えると、夫々の宿場の名が入った物が欲しくなるし、途中の地名が入った物も欲しくなる。
う~ん、きりが無いかな?


 写真左の黒い塀の建物が料亭の田中屋。
安藤広重の東海道53次にも描かれており、現在も営業しているお店。
坂本龍馬亡き後、妻のおりょうさんが働いていたお店でも有名。

 神奈川台関門跡 袖ヶ浦見晴所の石碑。
江戸時代末期、外国人への殺傷事件への対応として設けられた施設で、主要個所に関門や番所を設けたとの事。

 この辺りからの海側の景色。
駐車場の向こうは落ち込んだ地形になっていて、ビルの辺りが横浜駅。
現在は、その向こうが海だけれど、昔はこの斜面の直ぐ下が海岸線だったとの事。

 浅間幼稚園。
じゃなくて、見て欲しいのは電信柱横の白い看板。
 『浅間神社参道入口』
この建物のベランダの下が参道の入口。
「看板は有るけれど…」と、ちょっと躊躇してしまう参道入口です。

 建物の裏は登り階段になっており、階段の上が浅間神社。
浅間神社と言うだけあり、拝殿も『浅間造り』。

 小さいお社の前に天狗が。
天狗だと修験道を思い出すのだけれど・・・。

 商店街『シルクロード天王町』。
「横浜FCを応援します!!」の垂れ幕が。
う~ん、此処にホームタウンが有ったんだ。
我が家からは遠いのだけれど、地元に辿り着いた感じで、とても嬉しい(⌒∇⌒)


 商店街の中に有るのが橘樹神社。


 1852(嘉永5)年の右側の狛犬。

 左側の狛犬。
チョット向かって左側に首を傾げているよね。
でも、物凄く逞しい前足。
油断して近づいたら、前足で叩かれそう・・・。

 橘樹神社の拝殿。
左右に同じ位の大きさの御神木で、バランスが良いんだね。

 扁額。
戦災で焼失し、昭和26年に復興との事。
でも、近年改修したのかな?建物も扁額もとても奇麗でした。


 筋力を競った『力石』。
試に持ち上げてみれば良かったかな?


 石盥盤(いしたらいばん)。
1678(延宝6)年奉納との事。


 拝殿と本殿。


 石仏も屋根付きの建物で守られています。


 庚申塔3基。
左から1683(天和3)年、1669(寛文9)年、1764(明和元)年の物。
真ん中の庚申塔の上部は青面金剛(しょうめんこんごう)との事。

 隣は不動尊が。


 御神木は根元から何本も伸びるクスノキかな?
御神木が1本の幹でないのは珍しいかと。

 この先、再び大通りに出るのだけれど、此処で見つけたのが歩道と車道の境に立つお侍さん。
境を示すポールの上にお侍さんが。

 横から見ると、ちょんまげよく分かる。
そして、腰に刀を差しているという細かい点も。
此れが点々と並んでい立っています。
東海道ならではなのかな?
気付く人は少ないと思うけれど、気付いてちょっと嬉しくなった 。(⌒∇⌒)。

 お寺の入口の左右に大きな釜が・・・。
何だろう?
お釜とどんな縁が?
辺りに説明看板は無く、あれこれ想像を膨らませながら、考えながら先を行きます。

 調べてみると、火災発生時消火に使う水として天水(雨水)を溜めておいた物との事。
現在は子供が入る等の事故を防ぐ為に蓋が置かれているそうです。
お寺でなければ『釜飯屋さん』みたいだよね。

 『金沢横町道標』
右から
①『円海山之道 1783(天明3)建立』
 「かなさわかまくらへ通りぬけ」と彫られています。
 円海寺は「峯のお灸」で有名だったとの事

②『かなさわ、かまくら道 1682(天和2)建立』
 「ぐめうし道」と彫られています。

③『杉田道 1814(文化11)建立』
 「程ヶ谷の枝道曲がれ梅の花 其爪」と彫られています。
 句碑を兼ねた道標は珍しく、作者の其爪は江戸の人で河東節の名家の一門との事。

④『富岡山芋大明神社の道 1845(弘化2)年建立』
 建立者は柳島村(現:茅ヶ崎市)の藤間氏。芋明神は富岡の長昌寺で、疱瘡の守り神として信仰を集めていたとの事。

 突き当りを右折します。
突き当りが本陣だった家。


 門が当時を偲ばせます。



 古い建物も。
旅籠屋の本金子屋(ほんかねこや)跡。
昔はこういう家が並んでいたんだよなぁ~。


 橋の向こう、左の白い家の右側に神社の建物が。

 これが外川神社。

 江戸時代末期、保土ヶ谷宿の中の出羽三山を信仰、参拝する『講』の先達。淸宮輿一が羽黒山麓の外川仙人大権現の分霊を勧請した物が始まりとの事。
明治の神仏分離令で日本武尊を祭神にし、名を「外川仙人大権現」から「外川神社」に変えたそうです。
子供の虫封じや航海の安全に御利益が有るとの事。
昭和10年頃には付近に茶店が3軒有ったとの事。


 狛犬。
顔と言うか鬣を含めた部分が大きい。
風化で元の姿が分からない点が残念だけれど、温和な感じの顔つきに感じます。


 扁額。
木製で、花や葉の精密な彫物の懸魚がシンプルな扁額に彩を与えています。


 右隣に位置する稲荷社。


 扉に草鞋が下げられている境内社。
諸社に道祖神社、稲荷社、宇賀神社が有り、宇賀神社は本殿に合祀されているとの事なので、このお社は道祖神社と言う事か。


 木鼻の獅子には沢山の蝉の抜け殻が。
蝉にとっては、獅子の出っ張りが脱皮をするには丁度良いのでしょう。


 反対側の獅子にも蝉の抜け殻が。
とても躍動的な獅子です。
彫り物が立派だなぁ~。
小さい神社で、橋を渡って神社迄の距離も少ししかないのだけれど、茶屋が3軒も有ったのか。
東海道を往来する旅人相手の商売で、参拝者のみを相手にしたものではなかっただろうけれど、3軒もの茶屋が存在できたと言うのは驚き。

  橋の近く、歩道に有るのが一里塚。
『一里塚跡』、『上方見附跡』の説明看板。
上方見附が保土ヶ谷宿の終わり。
雨は強い降りになったり霧雨になったり。
雨合羽を着たままでは蒸し暑いので、降りが弱くなったら脱いで、強くなったら着て・・・を何度も繰り返しながら歩いていました。
兎に角蒸して堪らなかったです。


 大通りから離れ、旧東海道へ。
その中で鳥居が並ぶ場所へ。
旧元町橋跡の案内板の直ぐ近く。
元町橋と有るけれど、川の痕跡は「?」と言う場所。


 奥に小さな祠が。
元町橋稲荷神社と言う名との事。

 宝暦5年の庚申塔が足元に。


 稲荷社を過ぎ、T字路を左折した所に有るのが写真の2塔。
庚申塔と『堅牢地神塔』と文字が掛かれた石塔。

 1765(明和2)年と刻まれている庚申塔。
下に3匹の申が居るのだけれど、上の仏様の腹部には赤子?が。


 旧東海道の権太坂。


 坂の途中、左手に小さなお社が。


 祠の中に古い石仏が。
風化が激しく、表情は分からず、文字も見辛い。1753(宝暦3)道祖神かな?


 陸橋で深い谷を越えます。
下は大通り。
眼下に大通りが見え、現在の権太坂で、箱根駅伝のランナーが通る道が見えます。
昔は、どの様な谷で、どういった道で此処を上り下りしていたのかな?


 振り返って登ってきた道を。


 権太坂の標識と。
名の由来は、坂の改修をした藤田権左衛門から。
この坂を通った者が近くにいた耳の遠い老人に坂の名を訪ねたが、老人は自分の名を訪ねられたと思い、「権太」と名のった事で、此処が「権太坂」だと広まったと言う説が有ります。

水兵「権太坂は、箱根駅伝でエース区間の2区の勝負どころとして有名です!」
ポンチョ「ゴンタ君やのっぽさんが居る訳ではないんだね」


 住宅街を抜けると再び車通りの多いバス通り道に。
東海道の続きは右折なのですが、左折してちょっと寄り道。
 マンションの横、木と植物が植えられた一角が目当ての場所。

 新旧の石柱が。
此処が投込み塚。

 周辺で亡くなり、無縁仏となった旅人や馬等を葬った場所で、馬頭観音等の文字が彫られています。
1841(天保9)年建立。


 1834(天保2)年建立の石仏が。
現在でも花が手向けられ、植物が植えられて綺麗に管理されています。
人馬を埋めて片付ける…と言った場所だったのですが、不憫に思う気持ちは、この地域に住む方々の心に有ったんですね。
手を合わせ、この場所を後にしました。



 商店街に寄り道。
以前三ッ沢に保土ヶ谷宿の商店が出店するイベントが有り、和菓子屋さんのお菓子を購入しました。
売り切れで購入出来なかった物も有り、折角なので、お店を訪問するのが目的。



 菓匠栗山
お地蔵さん最中が看板商品です。

 「本日はお地蔵さまの日 ごんた餅 170円を150円 お団子1本110円を80円」と言うイラスト入りの案内が。
と言う訳で、お地蔵さん最中とごんた餅を購入。

 境木の立場に到着。
立場は、坂の上の平らな場所で、休憩用に茶屋等が設けられた場所の事。
宿場ではないので、宿の設置は許されず、休憩する施設のみ。
此処は、武相(武蔵野国と相模の国)の国境になっており、境木地蔵も鎮座しているので、ちょっとした観光スポットになっています。
右の木々の下、階段が地蔵尊への入口。

  境木地蔵尊への階段。


 小さなお堂と手水舎等が有ります。

 可愛いおもちゃの様な桶に童子が。
童子が持つホース?から水が。
おもちゃの様ですが、此れが手水場になっています。

 童子のお風呂?
お風呂の水で手と口を・・・。
う~ん・・・。

 お堂の中。
とても奇麗で、吊るし雛や提灯、奥にお地蔵さまが。


 思っていた以上に大きなお地蔵さま。
境木の延命地蔵と言われ、鎌倉から運ばれてきたとの事。
 伝説によると、鎌倉の由比ガ浜に流れ着いた地蔵菩薩を漁師が祀ったが、嵐で流出し、数年後に同じ鎌倉の腰越に流れ着いたとの事。
漁師が夢の掲示で
 「江戸の方へ行きたい。途中で止まったら、其処に放置して構わない」
と言われ、像を牛車に乗せて運んだとの事。
然し、この場所で動かなくなり、像を放置し、託された村人が夢のお告げで
 「どんな粗末な物でも構わないから、お堂を作ってくれたら、この村を賑やかにしよう」
と言われ、地蔵堂を建立。
地蔵は有名になり、参拝者が集まって牡丹餅屋が出来る等、この辺りが栄えたとの事。
因みに、お堂の建立は1659(万治2)年。

 お堂の天井の絵も見事。


 境木の由来を記した物が武相国境表示の柱に。
「ここが武蔵国と相模国の国境で、江戸時代にはそのしるしとして傍示杭(ぼうじぐい)あるいは境杭(さかいぐい)と呼ばれる木柱が建てられ、「境木」の名の由来になったと伝えられます。またケヤキの大木があったとの説もあります」
との事。

 右の杭が前述の案内が記された杭。
左は欅の木なのかな?
昔の境木の景色と現状は異なりますが、杭を建てたり欅を植えたり…と、昔の姿や特徴を継承しつつ、『現代の東海道の境木』を作ろうとする姿勢に好意が持てます。
未だ小さな木ですが、何れ大きな木となって、この場所のシンボルとなる存在になるのかな?


 境木を後にし、直進する道が有るのですが、左に向かう下り坂が旧東海道で、地図を確認しないと間違えてしまいそうです。
この坂は焼餅坂と言う坂。
焼餅を出す茶屋が有ったとの事。
現在は1軒もお店が無い。
茶屋か・・・。
脚に疲れも出てきたし、降ったり止んだりで湿度が高く、少々グッタリ。
焼餅に草団子、串団子にお汁粉・・・。
休憩処が有ったら、立ち寄っただろうなぁ~。


 品濃の一里塚。
道の左右の土の山が一里塚で、木々が生えて森になっています。
現在も道の左右、2つ共に残存している貴重な一里塚。


 向かって左側の一里塚。
道を拡幅した愛に一里塚の根元をコンクリートで覆ったのかな?
元々の道の幅はどうだったのかな?
東海道ですが、此処は道幅が狭いです。

 階段を下りて山から下って行きます。
この辺りは地形が凸凹していて、元々は山の中の道と言う感じだったのだろうな。


 品濃白旗神社へ。
源義経を祀っており、山の上に拝殿が有ります。

 階段を登り、山頂に綺麗なお社が。
調べていたら、近年火事で焼失し、再建されたとの事。
写真奥、拝殿の向こう側がさらに高い山になっていて、小さい祠が有ります。
16時頃到着し、神職の方が拝殿から出てきて片付けをされていました。
礼をした後、御参りをし、階段を下りて行かれました。
神社はこんな感じに1日が終わるのかな?

 「今日は東戸塚迄にしようか」と思っていたのですが、
東戸塚のマクドナルドで水分を摂り、
 「もう少し歩くか!」
と気持ちが変わり撒いた。
次の目的地は戸塚駅。
結構距離が有るんだよね。
でも、行くと決めた以上、頑張って歩かないと!

で、写真は王子神社。

 後醍醐天皇の息子である護良親王は、後醍醐天皇と対立し、鎌倉に幽閉されていました。
そんな中、鎌倉奪還を目指して攻め寄せてきた鎌倉幕府最後の執権北条高時の子、北条時行の手に落ちるのを防ぐ為、足利直義(足利尊氏の弟)の命で殺されました。
北条時行の手に落ち、『対足利』、『対後醍醐天皇』と、北条方に担ぎ上げられ、親王が政治的に利用される事を恐れた為です。
配下が護良親王の首を盗み出し、この地に落ち伸び、葬ったと言う話が伝わっています。


 写真左奥の杉の根元とか、社殿の有る地に葬ったとか。
手前の複数の石をくっつけて作った感じの狛犬が気になる。

 拝殿の横には、小さい境内社も。


 境内社が多く並んでいます。
地域を代表する神社なのかな?


 拝殿側から見た境内。
丘の一番高い部分に有り、周囲は森。
時刻は夕暮で薄暗く、ちょっと不気味な感じでしたね。


 東海道から離れて住宅街の道を進んでいきます。
この先に有るのが・・・。


 護良親王の首洗い井戸。
盗み出した首を此処で洗い、先程の王子神社に埋葬したと伝わっています。


 現在は枯れた井戸。
周囲に小さな川と暗渠があるのですが、この辺りは少し低くなった地形で、地下数位が高かった当時は此処から水が湧いていたと言う事なのかな?

 再び東海道に戻り、先を急ぎます。
五太夫橋。
近くの案内看板に拠ると、「石巻(康慶)五太夫は、小田原北条氏のの家臣で、豊臣秀吉の小田原攻めの時、北条氏の使者でした。北条氏滅亡の後、鎌倉郡中田村で謹慎していました五太夫が、天正18(1590)年江戸に入る徳川家康をこの辺りで出迎えた事から、五太夫橋の名がついたといいます。泉区の中田町には五太夫の墓が有ります」
との事。
川は舞岡川と言う名、Y字路で信号が有り、『舞岡入口』の名が付いています。



 ファミリーレストラン前に江戸方見付跡の碑が。


 戸塚宿の浮世絵も案内板に取り付けられています。
現在の茶屋の役目は、ファミリーレストランが担っているのかな?



 戸塚駅に到着。
私と抜きつ抜かれつで歩いている眼鏡の若い男性が居たけれど、この暑さで真っ赤な顔をしていたなぁ~。
彼も東海道歩きをしているって感じだったなぁ~。
話をしてみれば良かったかな?
 この場所に名物の大踏切が有ったとの事。
現在はその歴史を示す案内看板と新しい歩道橋が有ります。
今日は此処迄。
 結構歩いたし、今迄の疲れも有って、チョット堪えたな。
と言う感じ。
筋肉痛ではないけれど、徐々に疲労が溜ってきている。
多少のだるさが…と言う感じ。

 お土産は保土ヶ谷で購入した『お地蔵さん最中』や『ごんた餅』、『御利益まんじゅう』。
次は保土ヶ谷スタートか。
唯、明日も天気が悪いと言う予報なんだよね。
晴天で暑いのもきついけれど、雨もなぁ・・・。

 蒸し蒸しして堪えるなぁ~。




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